「最後の晩餐の作り方」ジョン・ランチェスター

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フランス贔屓のイギリス人・ウィノットは短い休暇を取り、心の我が家である南仏へ。その道すがら、様々な料理の話が、家族や乳母の思い出、現在滞在しているホテルや行ってみたレストランの話を交えながら語られていきます。

1人称で書かれていることもあって、まるで料理エッセイみたいな作品。でもこれはタークィン・ウィノットという人物の自伝的作品という体裁なんですね。「序、謝辞、および本書の構成について」から既に物語は始まっていました。とにかく料理、料理、料理、料理... 物凄く沢山の料理が次々に登場して、そのレシピや薀蓄がイヤってほど語られていきます。で、その博覧強記ぶりに幻惑されていると、あらら... という仕掛け。かなりのブラック・ジョーク。
でもねー、とにかく読みづらいんです。何が読みづらいって、文章が。こんなに大変だったのも久しぶり... これは翻訳にも関係あるんでしょうけど、むしろ原文のせいなんでしょうね。1つ1つの文章の中に情報が目一杯詰め込まれてて、ちょっと気を抜くと目が文字の上を素通りしてしまいそう。しかも一体何が話の核となってるのか、全然見えてこないんです。自分勝手な語りだけが延々と。例えば、ヴォルガ産のキャビアについて。

ヴォルガ産キャビアがほどよい塩加減で処理される過程については、よく知られているといえるほど知られているわけではありません。ベテランの鑑定人--毛糸の帽子などをかぶり眼光鋭く長靴には短剣を差した見た眼はおそらく荒削りな男--が卵を一粒口に入れ舌の上で転がす。すると経験と勘が不思議かつ精妙な合体を遂げて眼前のチョウザメの卵にはどのていど塩をすべきか、瞬時にしてわかってしまう。量を誤れば美食学的にも経済的にも大損害、大打撃を引き起こしかねない(これが長靴に短剣の理由)。芸術家が--別に自分のことだけをいっているのではありませんよ--作品の価値をすばやく見抜くことができるのとこれは相通じるところがあって、眼にするのと判断するのがほぼ同時というか、いや、ごくわずかだが眼にする前にその価値がわかってしまうというか、量子物理学的パラドックスさながらというか、あるいは夢と同じで展開する物語は非常に複雑、大胆に時空を越え人や事物を断片的に次から次へと取り込んでいくうちに--死んだ親戚がテューバとなり飛行機でアルゼンチンへ飛ぶのが初めての性体験と重なってリボルバーが暴発すると実はそれが鬘で--いよいよ恐るべきクライマックスにさしかかる前にロンドン中に響きわたるけたたましいサイレン、じき核戦争が勃発するぞという場面が気がつくとなんのことはない、ありきたりながらどこまでも安心感漂う家のなかでの出来事で、これにて一件落着というかのように目覚まし時計が威勢よく鳴るか玄関でお気に入りの郵便配達人がポストに入りきらない大きな小包を抱えて立っている、そんな瞬間と似ていなくもないのであります。(P.23-24)

ひえー、疲れた...
...でもこういう文章はわざとだったんですね。必要以上に饒舌な文章が煙幕となって、主人公という人間をカモフラージュしていたのでしょう... 実は想像以上に奥が深い作品で、すっかり作者にしてやられてしまったのかもしれません。でも文章が読みにくいっていうのは、やっぱりつらいぞっ。(新潮クレストブックス)

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