2009年2月 Archive

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おかあさんと離れ、おばあちゃんとローリーおじさんと暮らすようになって、新しい学校に通い始めた9歳のエイドリアン。学業はそこそこ、運動はオンチ、それでも美術だけは飛びぬけて得意という引っ込み思案の大人しい少年。学校で仲良しなのは、同じく運動オンチのクリントン。そんなある日のこと、エイドリアンはテレビで3人の子供が行方不明になったニュースを見ることになります。それはエイドリアンの家の近くでの出来事。メトフォード家の3人の子供、10歳のヴェロニカと7歳のゾーイ、5歳のクリストファーが日曜日の午後にアイスクリームを買いに家を出たまま、そのまま帰って来ていなかったのです。

もう、息が止まりそうになりました...。こういう話だったんですね。読み終えた時は、もうショックが大きすぎて何も書けそうにないと思ったんですが、一晩経って少し落ち着いたので、やっぱり何か書いておかないと。
いえね、最初から不穏な空気が流れてるんです。冒頭は3人の子供たちのいなくなった場面。その時のことが淡々と書かれていて、その締めくくりは「三人の子どもはアイスクリームを買うこともなく、家にももどらなかった」。でもこの3人の話はここまで。そして始まるのが主人公のエイドリアンの話。
エイドリアンは、とても感受性の強い子なんですね。本当は美しいものにも敏感なんでしょうけど、ここで語られるのは怖いものの話。エイドリアンには怖いものが沢山あるんです。頭の中に怖いものリストがあって、その日の朝に朝刊で見た「海の怪物」もその1つ。「ナショナル・ジオグラフィック」で見た流砂もそうだし、自然発火や津波もそう。閉店後の店に閉じ込められるのも怖ければ、学校におばあちゃんが迎えに来なくなるのも怖いし、色々と想像が膨らんでしまうのを止められないんですね。だからこそ美術が得意にもなるんでしょうけど。
祖母と叔父と一緒に暮らしてるのは、どうやら母親が精神的に不安定だからみたい。祖母も日々頑張ってるんですが、エイドリアンが同じ家にいること自体に苛々してます。周りに誰1人として、余裕がある人間がいないんです。みんな自分のことに必死で、無条件にエイドリアンを胸に抱きとめられるような状態じゃなくて。みんな悪い人間じゃないし、エイドリアンのことを愛してるのに。エイドリアンはそんな手がかかるような子じゃないのに。
そして学校でも色々あります。学校でのエイドリアンの友達はクリントンだけで、でもエイドリアンはこのたった1人の親友に満足してるんですが...。

大人の余裕のなさとか、子供の世界の残酷さとか、そういうの1つ1つは自分の身近でもよく見かけるようなことなんですけどね。私はエイドリアンみたいな感受性はもってないけど、でもどれもがものすごく痛いほど分かりすぎてしまって(しかもこのおばあちゃんが、うちの母そっくりなんだわ)、何もかもが一気にエイドリアンに襲い掛かってくるようで、それがまさにエイドリアンの怖がってる流砂や津波のようで、いたたまれなかったです。それでいて物語そのものはとてもとても静かで美しくて、最後は、ああ、小鳥が飛び立ったんだな、って思ったのだけど。
最初のソーニャ・ハートネット作品がこれでなくて良かった。いえ、本当は最初に読むのに相応しいような作品なんだけど... 私にはちょっとつらすぎました。(河出書房新社)


+既読のソーニャ・ハートネット作品の感想+
「銀のロバ」ソーニャ・ハーネット
「小鳥たちが見たもの」ソーニャ・ハートネット

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アイルランドによく見られる「取り替え子(チェンジリング)」の伝承。赤ん坊や女性が妖精に攫われて、知らない間に妖精が入れ替わっているというこの伝承をキーワードに、W.B.イェイツ、ロード・ダンセイニ、ブラム・ストーカー、オスカー・ワイルド、ラフカディオ・ハーン、コナン・ドイル、ジェイムズ・ジョイスといった19世紀末から20世紀初頭にかけてのアイルランドにゆかりの深い作家たちを取り上げ、その作品を見ていく本。

「ドラキュラ」や「ドリアン・グレイの肖像画」、そして「雪女」といった作品の中に「取り替え子」のモチーフを見るというのはなかなか興味深いです。そういう特徴が「取り替え子」だけの特徴なのかというと、それはどうだろうという気もするし、ちょっとこじつけかなと思う部分もあるんですけど、アイルランドにゆかりの作家たちだけに、意識的であれ無意識であれ、そういう伝承系モチーフを自作に転用してるというのは十分考えられますものね。
でもそういう文学的な考察よりも、実際の「取り替え子」の話の方が私にとってはインパクトが強かったです。
「取替え子」という発想自体、実はすごく人間の闇の部分を示してると思うんですよね。この本にも「妖精を見る」ということは「耐え難い苦しみを精神的に乗り越えようとしたり、動揺した共同体の安寧を取り戻すための知恵であり手段だった」とあります。「取替え子」という言葉は、気に入らない赤ん坊や妻をある意味合法的に葬り去る手段にも通じるもの。そもそも自分の子が本当の子供なのか取り替え子なのか見分ける「ぜったい確かなやりかた」とされていたのは、その子供を火の上にかざして、「燃えろ、燃えろ、燃えろ、悪魔のものなら燃えてしまえ、けれど神様、聖者さまの下さりものなら傷つくまい」と唱えるやり方なんですから。もしこの子供が取り替え子だったら、叫び声をあげて一目散に煙突から上に逃げていくそうなんですけど、普通の子だったらどうなるんでしょう。命を取り留めたとしても酷い火傷を負うはず。それって魔女裁判の「水に沈めて浮かんできたら魔女、沈んだら人間」みたいな判定に通じるものがありますよね。結局、普通の人間だったら死んでしまうわけで... 19世紀末には、そんな風に「妖精を見る」ことは社会的・法律的に許されなくなってたそうですが、この本の中で紹介されているブリジット=クリアリーの焼殺事件だって19世紀末の出来事。本当に怖いです。ええと何が怖いって、まずそうやって都合の悪いものを「なかったこと」にしようとすること。そしてそういう集団のヒステリックなパワーかな。一度走り出しちゃったら、もう誰にも止められないんですものね。(平凡新書)

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ある日ペーターが読んだのは、ロシアの捕虜収容所を脱走したドイツ兵士が故郷に戻ってくる物語。やっとの思いで家に戻ってきた兵士の目が見たのは、小さな子供2人と見知らぬ男と一緒にいる妻の姿だったのです... それは「喜びと娯楽のための小説」という冊子シリーズの編集をしていた祖父母にもらった見本刷り。ペーターには父がおらず、母の稼ぎは少なく、しかも紙は高価だったため、裏の文章は読まないという約束でその紙の束をもらっていたのです。しかし物語の断片しか残っておらず、肝心の結末部分を読むことができなかったペーターは、物語の結末を探し始めることに。

物語の中心となるのは、作者も題名も分からない小説の断片。その断片をつなぎ合わせて読むうちに、ペーターはそれがホメロスの「オデュッセイア」になぞらえられていることに気づきます。遍歴し、そして帰郷する物語。そしてペーターもまた、謎の小説の兵士・カールを追い求めて長い遍歴をすることになります。遍歴の後、イタケーに帰り着いたオデュッセウスが見出したのは貞節なペーネロペイア。しかしペーターが帰り着いた時、そこにいるのがペーネロペイアとは限りません。
シュリンクの作品を読むのは「朗読者」「逃げてゆく愛」に続いて3冊目なんですが、今回はあまり入り込めなかったかな... 中心となる小説の断片があまり魅力的じゃないというのもあったんですけど、ちょっと気になることが多すぎて気が散ってしまったような気がします。
まず「オデュッセイア」。ペーターの読んだ「オデュッセイア」は、イタケーに帰りついてハッピーエンドではなくて、その後も長い遍歴をしなければならなかったそうなんですけど... 私が読んだ「オデュッセイア」は、ほぼハッピーエンドだったはず! ペーターみたいに私も勘違いしてるのかなあ。いやいや、そんなことないと思うんだけど。まさかドイツ版はまた違うとか? うーん、気になります。私が読んだのは岩波文庫の松平千秋訳(感想)なので、ちゃんとしてるはずなんですが...。次に、事実の周りをぐるぐると回ってたペーターは、ある時いきなり核心に近づくんですが、そのことがなぜ分かったのかが良く分からないんです。天啓のようなものだったとか? いきなり自信を持って飛躍した話を始めるペーターにびっくりです。この辺りには、もう少し説明が欲しかったところ。さらに、ペーターは小さい頃から色んな人物に出会って様々な出来事があるんですけど、いかにも後に繋がりそうな人や出来事が、それっきりになってしまってるのが結構多かったような... それも気になりました。
ナチスのことや、東西ドイツを隔てていた壁の崩壊などのドイツの歴史的瞬間が描かれて、まだまだシュリンクにとって第二次世界大戦は過去のことではないのだということを感じさせられたのはこれまで通り。オデュッセウスがさらに遍歴を重ねなければならなかったように、シュリンクもまだ遍歴続けなければならないのでしょうか。でも今回、ペーターの遍歴の終わりには希望も感じられるんですよね。シュリンクの中の第二次世界大戦も、徐々に終わりに近づいているということなのかもしれませんね。(新潮クレストブックス)


+既読のベルンハルト・シュリンク作品の感想+
「朗読者」「逃げてゆく愛」ベルンハルト・シュリンク
「帰郷者」ベルンハルト・シュリンク

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勅命を帯びて河源へと向かっていた「わたし」はいつしか道に迷い、古老の言い伝えによれば神仙の棲むという深山幽谷へと迷い込みます。そこで三日の間斎戒沐浴した「わたし」は軽い舟で渓流を遡り、やがて桃の花の咲く谷川に到着。空一面光り輝き、いい匂いのする風が吹くこの地には仙女の住まいがあり、一夜の宿を請った「わたし」は仙女と詩のやりとりをし、食事や音楽を楽しむことに。

遣唐使によって奈良時代に日本に伝えられ、古文学に多くの影響を与えたという唐代伝奇小説。中国では早くに散逸したらしんですが、日本にきちんと残ってたというのが面白い。巻末には醍醐寺古鈔本の影印も収録されてます。

やっぱり桃源郷とくれば桃の花がつきもの。ここに住んでいるのは「十娘」「五嫂」と呼ばれる仙女たち。「十娘」が17歳で「五嫂」が19歳、2人とも夫を亡くした身の上で、とても人間とは思えない美しさ。主人公は十娘と盛んに詩のやり取りをした上で、ようやく家に招き入れられ、十娘や五嫂に山海の珍味や美しい音楽でもてなされることになります。詩が多く挿入されているというのは今まで読んだ伝奇小説にはなかったので驚いたんですが、この優雅なやり取りが奈良・平安時代の貴族に好まれたんでしょうね。それにしても、美食に美姫。ああ本当に男性のドリームな話だわー。(笑)(岩波文庫)

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スイスの小さな町・ヴェヴェーのホテル「トロワ・クロンヌ」に滞在している伯母の見舞いにジュネーヴから来ていたアメリカ人青年・ウィンターボーンは、このホテルに母親と弟、従僕と共に滞在していた若く美しいアメリカ人のデイジー・ミラーに出会います... という「デイジー・ミラー」。そして、夜になると暖炉のまわりに集まり怪談に聞き入る人々のためにダグラスが話すことになったのは、妹の家庭教師だった女性が体験した出来事。彼女は20年前に亡くなっているのですが、死ぬ前に、初めて家庭教師をした屋敷で起きた出来事を原稿に書き、ダグラスに送ってきていたのです...という「ねじの回転」の2編。

先日新潮文庫で読んだ「ねじの回転」の訳が今ひとつだったなあと思っていたら、kotaさんが岩波文庫の訳が一番しっくりきたと教えて下さったので、早速リベンジ。確かにこっちの方が全体的に訳が滑らかで読みやすかったです! やっぱり文章に気をとられないと、その分純粋に楽しめますねー。でも訳を細かく見比べる気なんていうのは毛頭なかったし、最初から最後まで通して読むだけのつもりだったんですけど、「あれ、ここって...?」と不思議になったところがいくつかあったので、結局その辺りだけちょっと見比べてみることに。そしたらこれが相当違っててびっくりです。
例えば、家庭教師となった彼女が学校の校長からの手紙を家政婦に渡そうとした場面。

字が読めないのです! しまったと思い、なんとかとりつくろい、書簡を開いて彼女に読んでやりました。それから、途中でつっかえたこともあって、結局、折りたたんでポケットにしまうことになりました。(岩波文庫)

わたしの相談相手は字が読めないのだ! わたしはへまをしてしまってたじたじだったが、でも出来るだけとり繕おうとして、また手紙をひらいた。そして彼女に読んで聞かせようとしたが、いざとなるとまたためらわれて、もう一度それをたたみ直し、ポケットに戻した。(新潮文庫)

違いますよね。結局、彼女は手紙を読んだのでしょうか。それとも読まなかったのでしょうか...?(笑)

前回読んだ時も、下男と前任の家庭教師のことは大体分かってたつもりなんですけど(新井潤美さんの「不機嫌なメアリー・ポピンズ」を読んだしね →感想)、岩波文庫では先に「デイジー・ミラー」が入っているので、ここで階級とか男女の付き合いのことに関するヴィクトリア朝風の道徳観が読者の頭にしっかりインプットされるんです。確かにこの構成は技アリだなあ。

そしてそのデイジー・ミラーも面白かったです。こちらは登場するのはアメリカ人ばかりなのに、舞台は歴史と伝統のあるヨーロッパ。主人公の若者は常識的な紳士だし、その伯母さんは社交界で地位のある人物。でもミラー家は裕福なんだけど、ニューヨークの社交界では低く見られる存在。デイジー自身も、とても美人なんだけど教養はないと見なされてます。男性と2人でも気軽に外出するデイジーに、アメリカ上流階級の婦人たちは眉をひそめるんです。
アメリカ人たちがニューヨークの社交界とそこの価値観をヨーロッパにそのまま持ち込んでいるというのが、なんか可笑しいんですよね。みんな自由気侭なデイジーのことをアメリカの面汚しだって考えてるんですけど、実際にヨーロッパの社交界の人々はどう思うのかしら? アメリカの社交界のことなんて、実は洟も引っ掛けてないんじゃないかしら。だからこそ、ここまで頑張っちゃうのかもしれないなー。(岩波文庫)


+既読のヘンリー・ジェイムズ作品の感想+
「ねじの回転」ヘンリー・ジェイムズ
「ねじの回転・デイジー・ミラー」ヘンリー・ジェイムズ

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Note


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