Catégories:“2009年”

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暇があると古文書調べをするのが好きなルイ。夏になると七都地方を巡っては古い要塞城やドミニコ修道院、打ち捨てられたジェズイット派の学寮を見てまわり、バロックの大修道院に長居して、昔の図書館の残骸から貴重な文献や手稿を発見するのです。そして、その時ルイが古くからの友人に案内されたのは、シェスブルグのとある学院蔵書が保存されている穀物倉。何千冊もの本が、版型にしたがってむくの本棚に並べられていました。これはあるドミニコ会修道院付属の図書館が起源となる蔵書で、最も貴重な部分は、数学と天文学の教授であるアロイシウス・カスパールによって集められたもの。そしてこのアロイシウスという人物は、当時ハノーヴァー王立図書館の稀覯書担当司書をしていた、哲学者のライプニッツと親しかったのです。

この物語には1章に1つずつ架空の書物が登場します。アロイシウス・ガスパールによる「ライプニッツの形而上学序説への批判的注釈」、ミゲル=アルバル・ツサニーによる「異端審問教程」、ジュゼッペという若者による「饗宴」、グロスの韻文五幕の悲劇「エル・マハディ」、そしてルイ自身による「ペルシャの鏡」。5つの章全てにおいて、書物の存在がとても大きいのです。読み進めるうちに、いきなり書物の中に引きずり込まれ、しかもその中にも他の章と同じように書物が存在して、という状態になってみたり...。途中でちらりちらりと登場する鏡も印象的。訳者解説によると、ライプニッツは「モナドは宇宙を映す永遠の生きた鏡である」と述べているのだそうで、これは作中の「ひとりひとりの魂が宇宙を総体として映しだす力を持っている」というライプニッツの言葉に通じるのでしょうね。「各実体は宇宙に対する神のあるひとつの見方を示しているのであって、同一の宇宙を見ているといっても、その見方は次々と変わっていくのだよ。そう、ちょうどひとりの散歩者にとって同じ街が観る場所によって様々に異なって見えるように」... これこそがこの作品の本質を示す言葉なのかもしれません。現実と書物が、実体と鏡に映し出された鏡像のような関係になっているようで、まるでエッシャーのだまし絵みたい。
訳者あとがきに、「ライプニッツの「可能的世界」を幻想図書と鏡で幾重にも多重化した入れ子構造の世界」とありました。でもね、そもそもライプニッツのその「可能的社会」がよく分からないのです。それがすごく要になっているはずなのに! だから作品そのものも理解しきれず... うわーん、勉強不足が悔しいです。(工作舎)

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「印象主義音楽の創始者」「音の画家」などと言われ、その境界線が曖昧な雰囲気が、西洋音楽史では印象派的な扱いを受ける原因となっているドビュッシー。しかし彼の曲は、目で見た風景を切り取ってその印象を素早く描きとめる印象派とは違い、いったん自分の中に取り入れて熟成し、その後再び外に出て音となるというもの。出来上がったものは似ていても、その精神は違うのです。...この本ではドビュッシーの曲を弾くための土台作りとなるレッスン方法を紹介し、ドビュッシーの代表的な曲をとりあげて、その曲の解釈や基本的な奏法を紹介していきます。

ピアノの曲を弾くというのは、ただ譜面だけ追えばいいというものではないんですね。作曲家のことを知り、その曲の背景を知ることによって、より深い演奏ができるはず。ということで、ドビュッシーの人生をたどりながら、その人となりや生きた時代を知り、作品にこめられた思いを感じ取り、それをそのままピアノの音として表現しよう、という本です。実践的なピアノ奏法だけでなく、ドビュッシーを弾くために必要な基礎的レッスンのやり方も紹介されてて、実際にピアノに向かった時の手の形の写真や、楽譜への詳細な書き込みなんかもあったりして、青柳いづみこさんの行うレッスンをそのまま紙上に移し変えたような感じ。まず巻頭には、ドビュッシーが好きだった名画がカラーで掲載されていますしね。この絵からあの曲が生まれた、なんていうのもすごく興味深いですね。ドビュッシーのピアノ曲を弾きたいと思っている人にとっては、すごく勉強になる本のはず。そしてここに書かれてることは、ドビュッシー以外にも通じるはず。
という私自身は、中学生の頃にアラベスクの1番と2番を弾いたことがあるだけで、ドビュッシーなんて全然弾けないんですが...。でもその1番と2番でも、たとえば伸ばした指で弾くのが向いている1番に、曲げた指で弾くのが向いている2番、なんてことも知らなかったし! 1番の対位法的な部分にはバッハの影響が色濃く感じられることも、2番にはオーケストラ的な書法が多く見られるということも知らなかったし! オーケストラ的な書法が見られる部分では、それに即した様々なタッチ、例えばフルートなら指を平らにして指先にあまり力を入れないで弾き、オーボエは指先を立てて力を集中させてよく通る音を出す、ファゴットはゆっくりとしたタッチであたたかい素朴な音を出すといいんですって。そうなのか~。
ドビュッシーが1つのタイトルに持たせた二重の意味については、もうちょっと知りたかったんだけど、上にも書いたような様々な楽器の音の表現とか、あとたとえば星のようにキラキラ光る音とかオパールのような神秘的な音の出し方なんかも面白かったし、あとはやはりドビュッシーが好んだ絵画や文学の話が興味深かったですね。メーテルリンクの原作をドビュッシーがオペラにした「ペレアスとメリザンド」もちょっと前に読んだし、アンデルセンの「パラダイス」は先日読んだばかり! アーサー・ラッカムやが挿絵を描いた「真夏の夜の夢」「ケンジントン公園のピーターパン」「ウンディーネ」、エドマンド・デュラックの「人魚姫」も、まとめて読みましたよ~。そうか、ドビュッシーはラッカムが好きだったのね~。あと海の下に沈んだイスの町の伝説なんて、私の大好物! その辺りも楽しかったです。(春秋社)


+既読の青柳いづみこ作品の感想+
「モノ書きピアニストはお尻が痛い」「ショパンに飽きたら、ミステリー」青柳いづみこ
「水の音楽 オンディーヌとメリザンド」青柳いづみこ
「ボクたちクラシックつながり」青柳いづみこ
「ピアニストは指先で考える」青柳いづみこ
「指先から感じるドビュッシー」青柳いづみこ
「ピアニストが見たピアニスト」青柳いづみこ
「六本指のゴルトベルク」青柳いづみこ

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7歳の時に実の母を亡くし、13歳の時に父も亡くしたシンシンは、今は義母と半分だけ血の繋がった姉・ウェイピンとの3人暮らし。シンシンは腕のいい陶工だった父から絵と詩と書の三芸を習い、特に習字が上手でした。しかしこの1年間のシンシンの呼び名は「役立たず」。シンシンは、家の仕事を一手に引き受ける日々を送っていたのです。しかしシンシンは毎日泉にいる美しいコイに亡き母の魂を見て心を和ませていました。

ドナ・ジョー・ナポリ版「シンデレラ」。「シンデレラ」の物語は世界中に広がっていますが、その原形は中国にあったと言われていて、ドナ・ジョー・ナポリが今回の物語の舞台に選んだのも中国。ドナ・ジョー・ナポリ自身、1997年の夏に北京師範大学で創作を教えていて、その時に中国のシンデレラの物語を読むことにもなったようですね。でも舞台となっている時代はそれほど古くなくて、明代初代の皇帝・洪武帝の頃です。

この物語のシンデレラは、シンシン。でもシンシンは、欧米のシンデレラほどあからさまに義母や義姉に扱いを受けているのではないんです。もちろん日々の家の仕事は全部シンシンの仕事だし、それが不公平だというのは当然なんですが... 義姉のウェイピンは1年前から纏足をしていて、それが痛くて辛くて住んでる洞穴からも外に出られない状態。家の仕事なんてとんでもないし、足が痛いから、ついついきつい言葉を吐いてしまうんですね。それに義母の足だって纏足をした足だから、働くのに向いてないし。一家の大黒柱を亡くした家族に、奴婢を雇う余裕があるはずもなく。
もちろん義母がウェイピンに纏足をさせたのはいい結婚をさせるためで、シンシンにはさせないという時点で既に扱いの違いが出てるわけなんですが、シンシンの足は纏足をしなくても十分小さな足なんです。それもポイントですね。だって顔立ちが不細工で、足も大きいウェイピンに、シンシンは優越感を抱いてるんですもん。それにウェイピンが実の母親に可愛がられるようになったのは、父親が亡くなってから。母親は息子を産む気満々だったから、娘なんて全然眼中になくて、息子が産めないとなって初めて、母の目がウェイピンの方を向いたんです。やっと得た母の愛と価値観に囚われて、纏足をしさえすればいい結婚ができると信じてるウェイピン、なんだか可哀想です。
そんな状態だから、本家のシンデレラほど「シンデレラ vs 義母+義姉」の対比が鮮やかではないし、最終的に立場が逆転して胸がすくような展開というわけでもありません。何も知らなかったシンシンが徐々に成長して世界を知り、最後には1人の女性として自分の進むべき道を選び取るというのはいいんですけど... それでウェイピンはどうなるんでしょう? 結果的に義母と義姉を踏み台にしたようなシンシンよりも、どうしてもウェイピンの方が気になってしまいます。なんだかすっきりしないぞー。(あかね書房)


+既読のドナ・ジョー・ナポリ作品の感想+
「逃れの森の魔女」ドナ・ジョー・ナポリ
「クレイジー・ジャック」ドナ・ジョー・ナポリ
「バウンド 纏足」ドナ・ジョー・ナポリ

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3度目の卒中でとうとうフリン神父が亡くなったと聞いた「僕」は、翌日の朝食の後に、フリン神父が住んでいたグレイトブリテン通りの小さな家を見に行きます... という「姉妹」他、全15編の短編集。

「ダブリン市民」「ダブリンの人びと」といった題名で知られている作品の新訳。解説を見ると、「ダブリナーズ」と訳したのは「横文字をカタカナにして事足れりとする昨今の風潮に流されたのではない。タイトルのDublinersという音をそのまま残したいというこだわりから、ようやく行き着いた訳語だ」とありました。確かに都市名に-erをつけて出生者であり居住者であることを示す言葉は、ごく限られてるんでしょうけど...(Berliner、Londoner、Montrealer、New Yorker、Zuricherぐらいらしい) そしてその言葉に特別と言っていいニュアンスがあるのも分かるんですけど... 日本で認知されているのは New Yorker ぐらいですよね。Londoner だって「ロンドンっ子」なんて訳される方が一般的なんだもの。「ダブリナーズ」ですか。うーん、どうなんだろう??
なんて考えてしまう題名が象徴するように、訳者の意気込みがとても強く感じられる訳でした。一読して感じたのは、とても賑やかな訳だということ。リズムを刻むような訳。と思っていたら、音をかなり大切にした訳だということが、解説に書かれていました。この作品そのものが元々音楽的に書かれているので、その音楽を可能な限り「奏出」することを心がけたのだそうです。例えば「執達吏」と言う言葉に「ひったくり」というルビがふられてるし... 確かに言いたいことはすごくよく分かります。分かるんですけどね。でも実際のところ、どうなんでしょう。訳者の思っているほどの効果が上がっているのかな? 私としては、むしろ他の訳がとても読んでみたくなってしまったんですけどー。うーん、やっぱり私には「新訳」は全般的に相性が悪いような気がしますー。
肝心の作品の中身としては、ダブリンを舞台にした群像劇といったところ。繋がりがあるのかないのか曖昧な感じで進んでいきます。1つ1つはとても普通の物語。ジェイムズ・ジョイスという作家から想像したものとは、対極と言っていいほどの普通さ。さらりと読めすぎてしまって、逆に戸惑ってしまうようなところも...。それでも、これこそが人間の営みであり、人生なのだと、これがダブリンなのだという感じ。ジョイスはダブリンのことを愛していたのかしら。私としては、決して愛してはいないけれど、「愛憎半ばする」なんて強い感情があるわけではないけれど、それでもどうしてもそこから離れられないという存在だったような気がします。要するに腐れ縁?(笑)(新潮文庫)

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5月のはじめ、かなり遠くまで散歩に出かけた初老の作家・グスタアフ・フォン・アッシェンバッハは、ふいの旅行欲におそわれて、ヴェニスに向かうことに。そしてヴェニスで出会ったのは、ポーランドの上流階級らしき一家。その中でも14歳ぐらいの美しい少年に,アッシェンバッハは目を奪われます。蒼白な肌に蜜色の巻き毛、まっすぐとおった鼻とかわいい口、やさしい神々しいまじめさを浮かべている顔... アッシェンバッハはじきに彼の姿を目で追い求めるようになり、そのうち少年の後を追い、つけまわすようになります。

最初は、気軽に読み解かれるのを拒否するかのような長い文章が続いていきます。でもそれが第3章でヴェニスに到着した頃から、徐々に変わり始めるんですね。長く装飾的だったはずの文章は短くなり、歯切れが良くなり、みるみるうちに読みやすくなって...。これはきっと、アッシェンバッハの精神的な変化を表したものでもあるんでしょうね。そして素晴らしいのは、やっぱりヴェニスに到着した後の物語。
物語の展開としては、比較的単純なんです。老作家がタッジオと呼ばれる美少年に出会い、その美しさや存在に心を奪われ、次第に夢中になっていくというだけのもの。アッシェンバッハは美少年を付け回してはいるんですが、2人の間に具体的な接触はありません。美少年に付きまとう執拗な視線だけ。でもこの出会いによって、老作家の世界がどれほど変わったことか。既に老醜の域に入っているアッシェンバッハの執拗な視線は、少年に薄気味悪さを感じさせたでしょうし、周囲にいる人間にとっても、滑稽で奇異な光景だったはず。そうでなくても、辺りには不穏な空気が流れていて、ものすごく不安を掻き立てるような空気。足場のバランスが悪すぎて、まっすぐ立っていられないような感覚。でもその中で、アッシェンバッハの心だけはこの恋によって純化して、非常に美しいものへと昇華していくんですね。
そして結果的にこの恋が連れてきたのは死なんですが... でもたとえ少年が死の天使だったとしても(私のイメージとしては、ギリシャ神話で神々に不死の酒ネクタルを給仕するガニュメデスなんですが)、老作家の旅が結果的に死の天使に搦めとられるためだけのようなものだったとしても、それは彼にとって最高に美しく幸せな日々だったはず。そんな純粋な日々が、愛おしく感じられてしまうのです。

ただ、この作品気になってしまったのは訳。解説に訳の素晴らしさについて触れられてたんですが、元々は旧字・旧仮名遣いの訳だったんでしょうし、そういう形で読まないと、その素晴らしさは堪能しきれないのではないかと... なんだかもったいなかったような気がしてしまいます。

そして「ヴェニスに死す」といえば、やっぱりヴィスコンティの映画! と思って右にDVDの画像をはりつけてみましたが... うーん、私が知ってるものとはちょっと違うなあ。この映画での老作家は、確かマーラーがイメージになってるんですよね。老作家ではなくて老作曲家で。私は気になりつつ観てなかったんですが。ああ、今こそ観てみたいぞ!(岩波文庫)

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ピアニストの思考の流れを、例えば右手や左手、足、肘、鍵盤、ペダル、椅子、眼、耳、ステージ、衣装、メイク、調律、アンコール、プログラムといったテーマごとに読みきりエッセイを書いてはどうかと提案され、その項目を見た途端に思考がすさまじい勢いで回転し始めたという青柳いづみこさん。30代の女性ピアノレスナー(ピアノの先生ってことみたいですね)を対象に、ムジカノーヴァに連載していたエッセイです。

いやあ、面白かった。音楽と本を結びつけるエッセイが多い青柳いづみこさんですが、これはほぼ純粋に音楽の話ばかり。30代の女性ピアノレスナーが対象だというのはあとがきを読むまで知らなかったんですが、最初の「曲げた指、のばした指」からして、もうほんと私にとってはタイムリーな話題で! だって私は子供の頃に「曲げた指」で習ってたのに、今は「のばした指」でも弾けるようになろうとしてるとこなんですもん。たとえばバッハなら「曲げた指」でもいいと思うんだけど、ショパンとかシューマンみたいなロマン派を弾こうと思ったらやっぱり「のばした指」の方が綺麗な音色で弾けると思うし、実際ショパンのエチュードなんかは「のばした指」じゃないと技術的に難しい部分もあるみたいですね。あと脱力の概念なんかも、私が子供の頃は全然なかったんですよねえ。そして、ここに書かれてる「さかだち体操」や「タイの練習」は青柳さんオリジナル? もっと詳しく知りたい! 一応本には図も載ってるんだけど、これだけではちょっと分かりづらいし、やってみても合ってるのかどうか謎なんです。だって、たとえば「小指をさかだちさせたままの状態で薬指を根元から動かしてみる。たいてい、ガチンガチンに固まっていてうまく動かせない」とあるんですけど、薬指、簡単に動いちゃいます。脱力できてるってことならいいんだけど、どっちかといえば、やり方が違うような気もするー。いやーん、実地に指導していただきたくなってしまうー。

前半は、実際に自分でもピアノを弾く人向けかもしれないですね。でも後半は、ピアノを弾かない人でも楽しめるようなエピソードも満載です。例えば色んなピアニストのこととか。ポリーニは大抵の曲は1回弾けば覚えられたとか(完璧に弾きこなすだけでなく、そんなことまでできたとは、びっくり!)、アルゲリッチが、プロコフィエフの「協奏曲第3番」を一度も弾いたことがなかったのに、寝てる間に練習してるのが聞こえてきていただけで覚えてしまって、弾けるようになってしまったとか。寝てる間に聞いた曲が弾けるって、一体...?! それってすごすぎでしょう! 人間技とは思えないー。
いや、ほんと勉強になりました。図書館で借りて読んだんだけど、手元に欲しいぐらい。「指先から感じるドビュッシー」にも技術的なことが載ってるそうなので、そちらも読んでみようと思います。...でも本もいいけど、やっぱりそれより一度実地にレッスンを受けてみたい。私の場合、どう考えても青柳いづみこさんのお弟子さんたちのレベルには程遠いので、到底無理なのだけど。ああー、うまくなりたいなー。(中央公論新社)


+既読の青柳いづみこ作品の感想+
「モノ書きピアニストはお尻が痛い」「ショパンに飽きたら、ミステリー」青柳いづみこ
「水の音楽 オンディーヌとメリザンド」青柳いづみこ
「ボクたちクラシックつながり」青柳いづみこ
「ピアニストは指先で考える」青柳いづみこ
「指先から感じるドビュッシー」青柳いづみこ
「ピアニストが見たピアニスト」青柳いづみこ
「六本指のゴルトベルク」青柳いづみこ

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ケーバーン山のふもとのグラインド村に生まれたエルシー・ピドックは、生まれながらのなわとび上手。3歳の時になわとびのつなを作ってもらって以来、一日中なわとびばかり。5つになった頃には誰にも負けないほどになり、6つの時にはエルシー・ピドックの名前はその州に知れ渡り、7つになった頃にはケーバーン山に住む妖精でさえエルシーの名前を知っていました... という「エルシー・ピドック、ゆめでなわとびをする」。
そして、どんなとこでも寝てしまうネコ。ピアノの上でも窓の棚でも、部屋の真ん中でも、ブランコの上でも、部屋の真ん中でも、ブランコの上でも... という「ねんねんネコのねるとこは」。

ファージョンの絵本2冊。
「エルシー・ピドック~」の方は、「ヒナギク野のマーティン・ピピン」でマーティン・ピピンがシルビアのために語ったお話だけを取り出して絵本にしたものです。このお話そのものも元々大好きなんですが、そのお話にシャーロット・ヴォーグの絵の柔らかい線、淡い緑を基調にした色合いがとてもよく似合っていて素敵~。夢がたっぷり~。で、お話そのものも素敵なんですけど、やっぱり石井桃子さんの訳もとてもいいんですよね。中でも「アンディ・スパンディ、さとうのキャンディ、アマンド入りのあめんぼう! おまえのおっかさんのつくってる晩ごはんは、パンとバターのそれっきり!」というなわとび歌が、子供の頃から大好きなんです。

「ねんねんネコのねるとこは」は、ファージョンの言葉にアン・モーティマーの絵がつけられた絵本。短い言葉に可愛いネコ。どのページにも気持ち良さそうに寝てるネコがいて、その表情が可愛くて、思わず撫でたくなってしまう~。ネコってほんと、いつ見ても幸せそうに寝てますものねえ。そして見開きの左ページと右ページのさりげない繋がりも楽しいのです。すぐ読み終えてしまうような絵本ですが、ネコが大好きというのが伝わってきて楽しい絵本です。(岩波書店・評論社)


+既読のファージョン作品の感想+
「ムギと王さま」「天国を出ていく」ファージョン
「年とったばあやのお話かご」「イタリアののぞきめがね」ファージョン
「町かどのジム」エリノア・ファージョン
「リンゴ畑のマーティン・ピピン」「ヒナギク野のマーティン・ピピン」ファージョン
「銀のシギ」エリナー・ファージョン
「マローンおばさん」エリナー・ファージョン
「ガラスのくつ」エリナー・ファージョン
「エルシー・ピドック、ゆめでなわとびをする」「ねんねんネコのねるとこは」エリナー・ファージョン

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