Catégories:“2009年”

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小さな蒸気船に乗ってスコットランドの岸辺から西の群島に向かっていたフィオナ・マッコンヴィル。フィオナは群島の中の小さなロン・モル島で生まれて育ち、4年前、10歳の時に街に引っ越したのですが、街の空気が合わず、島に戻っておじいさんとおばあさんと一緒に暮らすことになっているのです。しかしそれはロン・モル島ではなく、もっと大きい島。ロン・モル島は、今では無人となり、かもめと灰色の大きなあざらしがいるだけの島となっていました。しかし無人のはずの島の小屋に明かりが灯っているのを見た人間がいる、浜から風が吹くと流木が燃えるにおいがするなど、蒸気船の船員が奇妙な話をするのを聞いたフィオナは、一家が島から出ることになった日に失った小さな弟のジェイミーのことを再び思い出します。

古くからあるケルトのセルキー伝説を取り入れた現代の物語。セルキーとはあざらし族の妖精。普段はあざらしの姿をしているのですが、時折その皮衣を脱ぎ捨てて人間の女性の姿になって、人間の男性と結婚することもあるんですね。だから羽衣伝説と同じようなパターンの話もあります。矢川澄子さんの訳者あとがきでも引き合いに出されてましたが、私も「妖精 Who's Who」は読みました。今パッとは思い出せないんだけど、他のところでも読んだはず。あ、でもこの作品を読んでる間は、どちらかというとヨナス・リーの「漁師とドラウグ」(感想)を思い出してたんですけどね。これはスコットランドではなくてノルウェーだし、本当は全然違うのだけど。(汗)

読んでいると、スコットランドの島々での人々の素朴な生活の暖かさがしみじみと伝わってきます。決して裕福な暮らしではないけれど、満ち足りた幸福な暮らし。その暮らしに欠けているものがあるとすれば、かつて行方不明になってしまったジェイミーの存在と、捨ててしまったロン・モルでの生活だけなんですね。おとぎ話では、時々際限なく望みをふくらませて全てを失う人間がいますが、この作品に登場する人々はそうではありません。島のやせた土でわずかながらも作物を作り、海で魚を獲り、困っている時はお互いに助け合う暮らしに満足してます。(フィオナのお父さんは強硬に島を出たがったそうなんですけど、奥さん亡くしてるし、それだけツラい思いがあったということなんでしょう) 日本での生活と比べれば、物質的には遥かに貧しいんでしょうけど、精神的には遥かに豊かな暮らし。木のゆりかごを海に浮かべて赤ん坊を育て、流木を焚いて海草のスープを作り... 作中でフィオナが1人で訪れた時のロン・モル島の情景は、本当に美しいですね。ヒースで紫色に染まった野、その中を緑色の道のように流れる小川、島を取り巻く真っ青な海。その直前の霧の場面が幻想的なだけに、この場面の明るい美しさが目にしみてくるようです。
基本的にとても現実的な物語の中に、かつてイアン・マッコンヴィルがロン・モルの岩礁(スケリー)から連れてきた妻、そして今も尚時折生まれる黒髪の子供、あざらしの族の長(チーフスタン)の賢く暖かい瞳といった不思議なことが少しずつあって、でもこの島の情景を背景にしてしまうと、ごく自然なことに見えてきてしまうのが不思議。そこにあるのは「信じる」ことの大切さなんですね。マッコンヴィル一族が一度は全員島を出てしまうという遠回りはありましたが、あざらしたちは一族がまた戻って来るのを信じていたんでしょうし。終盤のあの態度は、だからこそ、だと思うのです。そしてジェイミーがまだ生きて島のどこかにいると信じ続けていたフィオナ。おじいさんもおばあさんも、心の奥底ではジェイミーがまだ生きているのを信じていたはず。そんな信じる力が集まってこその大団円。種を超えた確かな心の絆が感じられるのが、とても素敵な物語です。

そしてこの本自体も、青緑色の表紙や栞の紐、鈍い緑がかった色の文字といった、細かいところにまで気を配っているのが分かる、とても素敵な本です。この青緑色がスコットランドの海の色なんですね、きっと。(集英社)

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分邦ユダヤの王・エロド・アンティパスの宮殿では宴会が開かれていました。王の執拗な視線や、その客たちに耐えかねて宴会を抜けてきたサロメは、月の光に照らされる露台へ。そして砂漠から来た預言者・ヨカナーンに出会います。

「ポポイ」を読んで、無性に読みたくなってしまいました。再読です。
ここに登場するヨカナーンとは、聖書における洗礼者ヨハネのこと。ヨルダン川で人々に洗礼を授けていて、救世主イエスの到来を告げる使者でもあります。そしてこの「サロメ」は、マタイによる福音書(第14章第3-12節)やマルコによる福音書(第6章14-29節)に書かれているヘロデ王と、ヘロデ王妃ヘロディアの娘、そして洗礼者ヨハネの記述をふくらませたもの。ヘロデ王が自分の兄の妃だったヘロディアと結婚したことを、洗礼者ヨハネが「律法では許されないことだ」と言ったため、ヘロディアは洗礼者ヨハネを憎んでるんですね。聖書の中のごく短くそっけない記述が作品としておおきくふくらんだという作品は他にもあるし、例えばアニータ・ディアマント「赤い天幕」(感想)も見事だなあと思ったんですが、これもやっぱり素晴らしいー。

聖書ではヘロディアが娘をそそのかすんですが、こちらの作品でのサロメは自らの意思でヨカナーンの首を欲しがってます。サロメのヨカナーンに対する狂気じみた愛。それは作中で何度も登場する月の描写にも現れてます。
これはヨカナーンに出会う前に、サロメが月を見て言う言葉。

「小さな銀貨そっくり。どう見ても、小さな銀の花。冷たくて純潔なのだね、月は... そうだよ、月は生娘なのだよ。生娘の美しさが匂ってゐるもの... そうとも、月は生娘なのだよ。一度もけがされたことがない。男に身を任せたことがないのだよ、ほかの女神たちみたいに」(P.22)

この時点でのサロメは、その月のような乙女なんですよね、多分。変化の予兆はあるのだけど。でもサロメがヨカナーンに出会い、その白い肌や赤い唇を求めるようになり、やがてエロド王の求め通りに踊ることを了承すると... 月は血のように赤くなるのです。それはまたヨカナーンに「ソドムの娘」と言われてしまうサロメ自身の変化でもあるのでしょう。

聖書の記述によれば、らくだの皮衣を着て腰に革の帯をしめ、いなごと野蜜を食べているという野性的な洗礼者ヨハネなんですが、このヨカナーンの雰囲気はまたまるで違います。むしろとても女性的な美しさを持った人物のように描写されてますね。レオナルド・ダ・ヴィンチの「洗礼者ヨハネ」の絵にどうも私は違和感があるんですが、どちらかといえばあのヨハネに近いです。野の百合のように、山に積もった雪のように、そしてアラビアの女王の庭に咲く薔薇のように白い肌。エドムの園の黒葡萄の房、レバノンの大きな杉林、月も星も見えない夜のよりも黒い髪。そして柘榴の実や、ツロの庭に咲く薔薇の花、珊瑚の枝よりも赤い唇。白い肌に黒い髪、赤い唇とくれば白雪姫なんですが(笑)、聖者のその白い肌に、黒い髪に、赤い唇に、サロメは魅了されるのです。

旧仮名遣いの訳もすごく美しいし、岩波文庫版にはビアズレーの挿絵18点も収められていて、既に挿絵というよりも「サロメ」に触発された独特の絵画世界を見せてくれて、そちらも素晴らしいです。ワイルドはビアズレーが嫌いだったって聞いたことがあるんですけど、読者にとっては既に切っても切れない関係かも。(笑)(岩波文庫)


+既読のオスカー・ワイルド作品の感想+
「サロメ」ワイルド
「幸福な王子」「ドリアン・グレイの肖像」ワイルド
「ウィンダミア卿夫人の扇」ワイルド

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近未来。生首を預かってもらえないか、と婚約者の佐伯に言われた舞は驚きます。それは数日前に、今でも政界で大きな影響力を持つ元首相である舞の祖父の所に乱入したテロリストの首。その晩、祖父が脳梗塞で倒れたため、祖父とテロリストとの密談の内容は不明であり、佐伯は生首を最新の医療技術で保存することによって何らかのことが探り出せないかと考えていました。舞が引き受けると、佐伯は早速生首を舞の元へと運びます。舞はその生首に「ポポイ」という名前をつけることに。

声明文を読み上げて切腹、といえばもちろん三島由紀夫なんですけど、首だけになった美少年と聞いて私がまず思い浮かべたのは「サロメ」。やっぱりこれは「サロメ」でしょう~。生首が舞の部屋にやって来た時に、舞が「私の予想ではそれは銀の盆に乗っているか青磁の水盤に活けてあるはずだったけれど」と思う部分があるのですけど、ここからしても明らかにそうですよね。サロメと舞の印象も、どこか似通ってる気がします。少女から大人の女になる、まさに境目の時期にある女性たち。少女の残酷さも大人の女のエロティックさも持ち合わせてて、男性は振り回されずにはいられない... というか。うーん、うまく表現できませんが。でも美少年の生首にポポイなんて名前をつけて、髭剃りをしたり男性用のパックをしたり、古代ローマ人風に髪型を整えたり、音楽を聞かせたりするなんて、悪趣味極まりないと思うんですけど、それが何とも言えない世界を作り上げていますね。本当はとてもおぞましい情景のはずなのに、この上なく美しくも感じられてしまうのが不思議。...そして読み終えた後に思い浮かべたのは、ボリス・ヴィアンの「日々の泡」でした。話そのものは全然違うんですけど、この作品の首が、あの睡蓮となんだか印象が重なってしまって。
倉橋由美子さんの小説を読むのは、実はこれが初めてなんですが、この作品の中ではそれほど重要ではない登場人物でも既にかなり造形が出来上がってるんですねー。不思議に思って調べてみたら、舞の祖母・桂子を中心とするシリーズがあるようで。彗のことなんかもすごく気になるので、ぜひ他の作品も読んでみたいなあ。(新潮文庫)


+桂子さんシリーズの感想+
「ポポイ」倉橋由美子
「夢の浮橋」倉橋由美子
「城の中の城」倉橋由美子
「交歓」倉橋由美子
「夢の通い路」倉橋由美子
「よもつひらさか往還」倉橋由美子

+既読の倉橋由美子作品の感想+
「偏愛文学館」倉橋由美子

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小さなマルーシャは、兄さんのワーニャとピーターおじいさん、そして黒猫のウラジミールとエスキモー犬のバーヤンと一緒に、森の中の松の木で作った家に住んでいました。ワーニャとマルーシャの両親は2人が小さい時に亡くなっていたのです。2人の一番のお楽しみは、夜になるとピーターおじいさんが話してくれる物語でした。

先日読んだ「アーサー・ランサムのロシア昔話」の前に出ているのが、この本。ランサム自身がロシアで採取したという昔話全21編を、おじいさんが2人の孫に語り聞かせるという枠物語になってます。 めんどりの足の生えた小屋に住む恐ろしい魔女のバーバ・ヤーガ、火の鳥や魔法の馬といった存在はロシアならではだし、そんな物語で活躍するのは3人兄弟の末のイワンだったり~。それに川に恋する「サトコ」や「雪むすめ」といった物語も、ロシアの風土ならではの物語なんですよね。日本の雪女は怖いんですけど、ロシアの雪むすめはとても可憐。
しかも枠物語って大好きなんです。こういうところにアーサー・ランサムらしさが出てるんですね。とってもあったかくて、おじいさんと2人の孫という3人が、自分たちで物語を作り上げていってる感じです。自然にお話の中に引き込まれちゃう。いいなあ、こんなおじいさん、欲しいー。
プーシキンの本にもあった「金の魚」もあれば、エルショーフの「せむしの小馬」のような物語もあり、ラング世界童話集やアファナーシェフの「ロシア民話集」、「ブィリーナ英雄叙事詩」の中で読んだ物語もあって、全体的にはそれほど目新しくないんですが、それでも既に知っている物語とは展開の仕方や結末が少しずつ違うのが楽しいところ。例えば上で挙げた「雪むすめ」も、私が知っていた物語とは結末は同じでも、その途中経過が違うんですよね。そんな中で、とても新鮮に感じられたのは「銀の小皿とすきとおったリンゴの話」。これは3人姉妹が商人の父親にお土産を頼む物語で、それだけなら「美女と野獣」のバリエーションなんですけど、それとはまた違ってて... しかも「銀の小皿と熟れたリンゴの話」というのもロシア民話にはあるんですが(右の本に入ってます)、それともまたちょっと違ってて面白いんです。父親にその2つをどうするのかと聞かれた娘の答は、「お皿の上でリンゴをまわします」というもの。さてまわすとどうなるのでしょう? それは実際に読んでみてのお楽しみ♪(パピルス)


+既読のアーサー・ランサム作品の感想+
「アーサー・ランサムのロシア昔話」アーサー・ランサム
「ピーターおじいさんの昔話」アーサー・ランサム

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33歳の未亡人のリリアが、23歳のキャロライン・アボットと1年のイタリア旅行に出ることになります。チャールズ・ヘリトンが10年前に周囲の反対を押し切ってリリアと結婚して以来、ヘリトン夫人を始めヘリトン家の人々は、リリアをヘリトン家の嫁として恥ずかしくない人間になるように教育し続け、それはチャールズの死後も続いていました。しかしリリアは主婦としても奥様としても落第。ヘリトン家の面々は、リリアが真面目なキャロライン・アボットの感化を受けることを期待して送り出します。そんな期待を知ってか知らずか、イタリアから楽しそうな手紙を頻繁によこすリリア。しかしそんな時、突然リリアが婚約したという知らせが舞い込み、ヘリトン家は大騒ぎに。

「天使も踏むを恐れるところ」とは、18世紀のイギリスの詩人・アレキサンダー・ポープの「批評論」の中の一節「天使も足を踏み入れるのをためらう場所に、愚か者は飛び込む」から取られたもの。無知と軽率さを笑い、賢明で慎重な行動の大切さを説く言葉です。この作品の場合、「愚か者」は明らかにリリア。でも「天使」はどうなんでしょう。訳者あとがきには違うことが書かれていたんですけど、私としてはむしろキャロライン・アボットのように思えるんですが... もちろんあとがきに書かれていた人物も確かにそうなんですけどね。しかもキャロライン・アボットは揺れ動いていて、それほど「賢明」で「慎重」な存在とは言えないんですが。
自由奔放で、裕福で上品なヘリトン家の家風に合わずに結婚して以来というもの窮屈な思いをしてきたリリア。彼女の同伴者となるキャロライン・アボットは、常識的な真面目な女性。そしてハンサムなイタリア男のジーノは、自由でおおらかな精神の持ち主。細かいことに一喜一憂し、自分たちが認められないことは直視しようとしないイギリス勢と、全てをそのまま受け入れて認めるイタリア勢のお国柄も対照的なら、奔放なリリアと真面目なキャロライン・アボットの造形も対照的。そしてそこで右往左往するのは、イギリス人でありながらイタリアを賛美するリリアの義弟・フィリップ。彼の橋渡しにもならない滑稽な姿も印象的です。「愚か者」のリリアなんですが、愚か者なりに自分に正直に求めるものを求め、それを得ることになるんですよね。キャロラインもまた求めてはいるんですが、賢明かつ慎重でありたい彼女には、リリアのように軽率な行動を取ることは許されず...。ただし、軽率な行動はそれなりの結果をももたらすもの。結果的に誰が一番幸せだったんでしょうね。とても滑稽でありながら、同時に深い喪失感も残る作品。全てにおいて両極端な悲喜劇だったように感じられました。(白水uブックス)

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世界各国の猫のおとぎ話ばかり全部で27編が集められている本です。
例えば「長靴をはいた猫」だけでも4つあるし、猫の王が死んで世代交代する物語は3つ。今まで猫のいなかった地方で猫を売って商人が大儲けした物語も3つ。同じ物語の様々なバリエーションが読めるというのがまず楽しいんですよね。「長靴をはいた猫」といえば、やっぱりシャルル・ペローの童話が有名ですけど、ここではまだ長靴をはくようになる前の猫もいれば、恩知らずな主人に怒る猫も...。もちろん世界に散らばる「長靴をはいた猫」は、この4つだけじゃありません。猫以外の動物が活躍するバージョンもあるし、実際私自身、先日ラング童話集でガゼルが主役の物語を読んだばかりですしね。(「むらさきいろの童話集」だったかと) この「長靴をはいた猫」のオリジナルは、ジャッカルが主人公のインドの物語と考えられているんだそうです。
そして、日本の猫の物語も3つ収められてました。ちょっとびっくり。そのうちの1つは小泉八雲が欧米に伝えたものでした。日本に赴任してた外交官が伝えた話も1つ。そんな風に広まっていくものなんですねー。日本の猫といえば、まず油を舐める化け猫が思い浮かんでしまうんですけど(笑)、そういうおどろおどろしいのじゃなくて、もっと後味のいいお話。そしてこの本で嬉しかったのは、編者がそれぞれの作品に全く手を加えていないということ。例えば「ウォルター・スコット卿の猫」は、ワシントン・アーヴィングの「ウォルター・スコット邸訪問記」のままの一節なんです。先日読んだばかりですよー。(感想
この中で私が一番好きだったのは、ルドヤード・キプリングによる「それでも一人で歩く猫」。世界中の動物たちが人間に飼いならされることになってしまっても、猫だけは自分の決して飼いならされることのない本性を失うことがないというお話。

世界中の全ての猫のおとぎ話を集めたら、一体どのぐらいあるんでしょうねー。手元に集まりながらも収録できなかった物語が沢山あったみたいです。確かにちょっと考えただけでも、鼠に騙されて干支に入り損ねた猫の物語とか、逆に他の動物を騙すずる賢い猫の話なんかもあるし... 猫といえば魔女の使い魔でもあるし、そういう話もいっぱいありそうですよね。でもこの本に登場する猫たちは、程度の差こそあれ主人思いの賢い猫たち。毅然としていて他者に媚びませんが、一度信頼した人物にはとても誠実です。...ま、それもまた猫のもつ1面ということで♪(草思社)

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「リンゴ畑のマーティン・ピピン」を書くことによって作家としての地位を確立したエリナー・ファージョン。これは70歳をすぎたファージョンがそれまでに書いた子供向けのお話から27編を自選して編んだ短編集。

気がついた時にはもう私の部屋の本棚に入ってた本、というのが結構沢山あるんですが、これもそのうちの1冊。だからもう何度目なのか分からないぐらいの再読です。いえね、先日ぱせりさんに、このブログを見るたびに「ムギと王さま」の本の小部屋を思い出す、なんて嬉しいお言葉を頂いてしまって! それから久々に再読したくて仕方なかったんです。でも本はまだ持ってるんですけど、今手元になく... 待ちきれなくて、図書館で借りてしまいました。(笑)
でも、私が持ってる本は全訳ではなかったらしいです。そちらは1冊で全20編。この2冊が訳されて初めて全27編が完訳されたんですね。逆に知らない作品を読めて良かったかもー。「天国を出て行く」の最後に収められてる「パニュキス」なんて、なんでそれまで訳さなかったのかしら!と思ってしまうような作品だったし。(石井桃子さんによるあとがきに、その辺りのことも書かれてましたが) でも、今も昔も特別大好きな話というのは変わりませんね。「西ノ森」と「小さな仕立て屋さん」と 「天国を出ていく」... あと「レモン色の子犬」も! 「ヤング・ケート」も! それに忘れちゃいけません、本の小部屋の話!!

その本の小部屋というのは、「ムギの王さま」のまえがきに登場する部屋のこと。ファージョンの子どもの頃に住んでた家は、どの部屋にも本が溢れ出しそうなほど置かれていたらしいんですが、その中に「本の小部屋」というのがあったんですね。で、娘時代のファージョンは、他の部屋の本棚に置いてもらえずに流れ込んできた本がごちゃごちゃ置かれ積まれてる「本の小部屋」で、何時間も何時間も過ごしたそうなんです。...私が育った家も、かなり似たような状態だったんです。どの部屋にも本が溢れ出しそうなほどあって、廊下にも本棚が当たり前のように並んでいて... だからファージョンのこの言葉を、子供の頃から実感として感じていたんだと思います。

本なしで生活するよりも、着るものなしでいるほうが、自然にさえ思われました。そして、また本を読まないでいることは、たべないでいるのとおなじぐらい不自然に。(P.4)

でも、うちにも余った雑多な本が流れ込んでいく部屋はあったんですけど、本専用の小部屋というのはなかったんですよね。それだけに、このファージョンの本の小部屋の描写には憧れてたのでした。多少、埃で目や喉が痛くなったとしても! こんな素敵な場所があったら、ほんと毎日でも入り浸ってしまうだろうな。
ここのブログやサイトは、もちろん私にとっては居心地の良い場所なんですが、他の人にもそんな風に居心地良く感じてもらえてるとしたら、これほど嬉しいことはないかも。なーんて、とっても幸せな気分に浸ってた私です。

ファージョン、やっぱり素敵です。決して派手ではないし、むしろ地味と言われてしまいそうなほどなんですが... でも私にとっては愛しくなってしまうような、宝石のような作品群。エドワード・アーディゾーニの挿絵がまたぴったりで素敵。作品はほとんど全部読んでるはずなんだけど、改めて全作品読み返したくなってきました。(岩波少年文庫)


+既読のファージョン作品の感想+
「ムギと王さま」「天国を出ていく」ファージョン
「年とったばあやのお話かご」「イタリアののぞきめがね」ファージョン
「町かどのジム」エリノア・ファージョン
「リンゴ畑のマーティン・ピピン」「ヒナギク野のマーティン・ピピン」ファージョン
「銀のシギ」エリナー・ファージョン
「マローンおばさん」エリナー・ファージョン
「ガラスのくつ」エリナー・ファージョン
「エルシー・ピドック、ゆめでなわとびをする」「ねんねんネコのねるとこは」エリナー・ファージョン

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