Catégories:“小説以外”

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須賀敦子さんの全集の文庫版第4巻。この巻に収められているのは、少女時代から大学時代にかけて読んだ本とその本にまつわるエピソードを描いた「遠い朝の本たち」、1988年から1995年にかけて発表された書評を中心とした「本に読まれて」、1991年から1997年にかけて発表された単行本未収録の「書評・映画評ほか」の3編。「本に読まれて」は再読。

須賀敦子さんの全集で1巻の次に手に取ったのは、本にまつわるエッセイが中心の4巻。「遠い朝の本たち」では、どんな本が須賀敦子さんの血肉となっていったのかよく分かります。その本に出会うきっかけとなった、周囲の人々の存在の大きさも。特にイタリアに行った後も、日本語が駄目にならないようにと森鴎外訳の「即興詩人」を送ってきた父親の存在は印象的。
そして「本に読まれて」「書評・映画評ほか」では、本当に沢山の本が紹介されています。本を読んで感じたことを素直に表現しているだけといった感じなのに、こんなに過不足なく紹介しているというのが、やっぱりスゴイなって思っちゃう。しかもさらりと深いんです。やっぱりいいなあ。実際には、その「素直に表現する」ということが、すごく難しいと思うんですけどね... これは「遠い朝の本たち」の中の「葦の中の声」の章に繋がってくるんでしょうね。アン・リンドバーグのエッセイを読んだ時に須賀さん感じたこと。

アン・リンドバーグのエッセイに自分があれほど惹かれたのは、もしかすると彼女があの文章そのもの、あるいはその中で表現しようとしていた思考それ自体が、自分にとっておどろくほど均質と思えたからではないか。だから、あの快さがあったのではないか。やがて自分がものを書くときは、こんなふうにまやかしのない言葉の束を通して自分の周囲を表現できるようになるといい、そういったつよいあこがれのようなものが、あのとき私の中で生まれたような気がする。

私には、須賀さんの文章こそ「均質」で「まやかしのない言葉」に感じられるな。でも強く憧れてるだけじゃあ、須賀さんのように、そういった文章が書けるようにはならないんですよね。(河出文庫)


+シリーズ既刊の感想+
「須賀敦子全集1」須賀敦子
「須賀敦子全集2」須賀敦子
「須賀敦子全集3」須賀敦子
「須賀敦子全集4」須賀敦子
「須賀敦子全集5」須賀敦子
「須賀敦子全集6」須賀敦子
「須賀敦子全集7」須賀敦子
「須賀敦子全集8」須賀敦子

+既読の須賀敦子作品の感想+
「トリエステの坂道」須賀敦子
「本に読まれて」須賀敦子
「ヴェネツィアの宿」「コルシア書店の仲間たち」須賀敦子
「こうちゃん」須賀敦子・酒井駒子

+既読の須賀敦子翻訳作品の感想+
「インド夜想曲」アントニオ・タブッキ
「なぜ古典を読むのか」イタロ・カルヴィーノ
「ある家族の会話」ナタリア・ギンズブルグ

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須賀敦子さんの全集の文庫版第1巻。まだ7巻が出てないし、先日出たばかりの3巻はまだ買ってないし、読むのがもったいないような気がしてしばらく寝かせてたんですけど、読まない方がもったいないので(笑)、ようやく読み始めました。この中に収められてるのは、「ミラノ霧の風景」「コルシア書店の仲間たち」「旅のあいまに」の3つ。「コルシア書店の仲間たち」だけは既読。(感想) 「ミラノ霧の風景」「コルシア書店の仲間たち」は独立した本にもなっているのだけど、「旅のあいまに」は全集でしか読めない作品なのかな? これはミセス誌に連載されていたエッセイ。

そして「ミラノ 霧の風景」は、須賀さんがイタリアにいた13年間の日々や知り合った友人たちとのエピソードが綴られてるエッセイです。これがどうやら須賀さんのデビュー作だったようですね。

乾燥した東京の空には1年に1度あるかないかだけれど、ほんとうにまれに霧が出ることがある。夜、仕事を終えて外に出たときに、霧がかかっていると、あ、この匂いは知ってる、と思う。10年以上暮らしたミラノの風物でなにがいちばんなつかしいかと聞かれたら、私は即座に「霧」とこたえるだろう。

という冒頭の文章からしてとても印象的。ロンドンの霧も目じゃないほどのミラノの霧は、今はそれほどひどくなくなってしまったそうなんですけど、ミラノに霧が出るなんて全然知らなかったな。私が以前イタリアに行ったのは10月だったし、まだ霧なんて全然なかったし。先にこの本を読んでいたら、11月に行きたいと思ったかしら。でも飛行機がちゃんと降りてくれなきゃ困るから、やっぱりそういうのは旅行者には向いてないですね。(笑)
読んでいて一番印象に残るのは、須賀さんのしなやかな強さ。自分自身をしっかり持ってらっしゃること。日本にいてもイタリアにいてもどこにいても、周囲の環境に呑まれてしまうことなしに、しなやかに須賀さんらしさを持ってらしたのでしょうね。この本の中にも、普段親しくしてるイタリア人たちが急に遠い存在に感じられてしまったというエピソードが書かれているし、ここには書かれていないような嫌な思いもきっと色々とされたのだろうなとは思うんですが...。日本文学をイタリア語に翻訳する仕事で知り合った編集者のセルジョや、ご主人と知り合うきっかけとなったマリア、コルシア書店で精力的に頑張っていたガッティなど、須賀さんが大切に思うお友達がそれぞれにくっきりと鮮やかに描かれています。読んでいて心地いいとはこのことなのかしら。と思ってしまうぐらい没頭してしまいました。しばらくこの文章に浸ろうと思います。(河出文庫)


で、次は2巻を読もうと思ったのだけど!
手に取ってみたら、本のカバーは確かに2巻になってるのに、中身はなんと1巻でした...。もう買ったお店のレシートなんてないんですけどぉ。河出書房に言ったら、取り替えてもらえるものでしょうか... がっくり。2巻に入ってる「ヴェネツィアの宿」も「トリエステの坂道」も既読なので、とりあえず後回しにしようっと。


+シリーズ既刊の感想+
「須賀敦子全集1」須賀敦子
「須賀敦子全集2」須賀敦子
「須賀敦子全集3」須賀敦子
「須賀敦子全集4」須賀敦子
「須賀敦子全集5」須賀敦子
「須賀敦子全集6」須賀敦子
「須賀敦子全集7」須賀敦子
「須賀敦子全集8」須賀敦子

+既読の須賀敦子作品の感想+
「トリエステの坂道」須賀敦子
「本に読まれて」須賀敦子
「ヴェネツィアの宿」「コルシア書店の仲間たち」須賀敦子
「こうちゃん」須賀敦子・酒井駒子

+既読の須賀敦子翻訳作品の感想+
「インド夜想曲」アントニオ・タブッキ
「なぜ古典を読むのか」イタロ・カルヴィーノ
「ある家族の会話」ナタリア・ギンズブルグ

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「ナルニア国物語」のC.S.ルイスの自叙伝。幼かった時のこと、家族のこと、特に兄との親密だった関係のこと、母との別離とそれに伴う家族関係の変化のこと、寄宿学校での教育やそこで得た友人たちとのこと。そして兵役を経てオックスフォード大学に復学したこと。幼年期から、モードリン学寮の特別研究員に選ばれ、キリスト教を受け入れるようになった頃までのことを辿っていきます。

本来は、無心論者だったC.S.ルイスが紆余曲折を経てキリスト教を信じるようになった過程を書こうとした本のようなんですけど、実際にはあまり宗教的な匂いが感じられなかったです。キリスト教について大きく取り上げられているのは2度だけでしたしね。1度目は、ほのかに持っていた信仰心を失ってしまった14歳の頃。そして30歳過ぎに信仰心を取り戻した時が2度目。そのキリスト教の信仰を取り戻したことが書かれている章は、意識的に書かれずに終わってしまったことも多かったようで、かなり抽象的なんです。これじゃあインパクトがあるどころか、ほとんど印象にも残りません...。唯一、キリスト教という心の支えを得たことで、「喜び」を失ってしまったようなところは興味深かったんですが。
それより、他のエピソードがものすごく面白かったです! 特に子供時代の回想部分が素晴らしい~。ルイスと兄の過ごした日々がすごくリアルに蘇ってくるようだし、それにルイスが読んでいた本! ルイスの本の好みは、私自身が好きなジャンルでもあるので、ものすごーく興味深く読めました。特にロングフェローの詩「オーラフ王の伝説」の中の「テグネールの頌詩」で、初めて北欧神話に出会った時の感動は印象的。この作品、読んでみたいなあ。日本語には訳されてないのかしら。そしてこの本を読んでたら、他にも「私も読みたいと思っていたんだった...!」という本を色々思い出しちゃいました。
そして様々な生活描写の中に、ナルニアの面影が垣間見えるようで懐かしかったです。特にルイス自身の母が亡くなる場面では、「魔術師とおい」のディゴリーと母親の関係を思い出すし、もしかしてノック先生は「ライオンと魔女」のカーク教授のモデル? ルイスと兄は、3歳の年齢の差のせいで違う寄宿学校に入ることになるんですけど、新学期の寄宿舎に向かう時は途中の駅まで一緒で、その学期が終わって帰省する時はその駅で再会するんですね。こういうところを読むと、ついついペベンシーきょうだいがカスピアン王子のふく角笛に呼び出される場面を思い出しちゃう。ナルニアを知らなくても読める本だとは思いますが、やっぱりこれはナルニアを知っていてこその本かもしれないですね。(ちくま文庫)


+既読のC.S.ルイス作品の感想+
「マラカンドラ」「ペレランドラ」C.S.ルイス
「サルカンドラ」C.S.ルイス
「顔を持つまで 王女プシケーと姉オリュアルの愛の神話」C.S.ルイス
「悪魔の手紙」C.S.ルイス
「喜びのおとずれ C.S.ルイス自叙伝」C.S.ルイス
「カスピアン王子のつのぶえ」他 C.S.ルイス

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吉野朔実さんの「犬は本よりも電信柱が好き」の「京都マニア」の章に紹介されていた本をくまなく読もう企画第3弾。この章では8冊紹介されていて、既に感想をアップしている入江敦彦さんの本4冊の他に、「桂離宮-日本の庭園美6」という本も見てるので(これは普通の写真集なので、感想は書きませんが)、これで5冊目。「草菜根」(中東久雄)と「京 花背 摘草料理」(中東吉次)は、料理本なので見ないかも。となると後は「人が見たら蛙に化(な)れ」(村田喜代子)だけなんですけど、この「遊鬼」を読み始めた途端、この「人が見たら蛙に化れ」という言葉が何度も出てきてびっくりでした。そう繋がるのかあ。「人が見たら蛙に化れ」は骨董の世界を描いた小説で、これも面白そうなんですけど... 大丈夫かな、結構分厚いので今の私には気分的にちょっと重いのだけど。読めるかな。

というのはともかく、「遊鬼」です。白洲正子さんという方は、とても恵まれた環境に生まれ育った方だと思うんですけど、やっぱりそれを生かせるかどうかは本人にかかってますよね。それを見事に生かしきった方だったんだなあ、と改めて思いました。この「遊鬼」は、彼女が師と仰いだり友人として付き合った人々のことなどを書き綴った随筆集なんですが、才能があるところには才能がある人が集まるというか、個性は別の個性を呼ぶというか、本当に強烈な人がいっぱい。そして、そんな強烈な才能と個性の持ち主に囲まれて、様々なことを貪欲に吸収されたんですね。「大往生 梅原龍三郎」の章の最後に、「それからひと月も経たぬうちに白州は亡くなった。つづいて加藤唐九郎、そして梅原先生、私にもどうやらこの世は色あせて、味けないところになって行くようである」とあるんですが、その気持ちも分かるような...。図書館で借りた本で、感想を書くのが期限に間に合わなかったので、ちゃんとメモできなかったんですが、含蓄のある言葉もいっぱいありました。洋画家の梅原龍三郎さんが描いたと仰る薔薇の絵が見つからなくて困ったという話に対する小林秀雄氏の言葉とかね。さらりと書かれているんだけど、ものすごくインパクトがありました。
特に強く印象に残ったのは、タイトル「遊鬼」の元となった鹿島清兵衛の生き様を描いた「遊鬼 鹿島清兵衛」。これは凄まじいです。事実は小説より奇なり、とはこのことか。あと、この本の表紙の桜の絵を描いた早川氏の「創る 早川幾忠」という章も、なんだかとても好きだったなあ。(新潮社)


+既読の白洲正子作品の感想+
「日本のたくみ」白洲正子
「西行」白洲正子
「遊鬼」白洲正子

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17世紀の数学者フェルマーが書き残した様々な定理のうち、その死後350年経っても誰1人証明できないままに残ってしまった「フェルマーの最終定理」に関する本。以前ごとうさんに、「ノンフィクションが嫌いでないならば、お勧め」と、教えて頂いた作品です。いや、ノンフィクションは実際あまり得意ではないんですけど... 数学は好きな方だったし... とは言っても「フェルマーの定理ってどんなんだっけ?」状態だったんですけど(笑)、ちょっと面白そうだったので読んでみました。

そもそもフェルマーの定理というのは、古代ギリシャ時代のピュタゴラスの定理を発展させたもの。ピュタゴラスの定理というのは、「直角三角形の斜辺の二乗は、他の二辺の二乗の和に等しい」というアレです。方程式にすると、「x2 + y2 = z2」ですね。そして、この場合式の指数は2なわけなんですが、これを3やそれ以上の数にすると、それまで無限の解を持っていた式が、全く整数解を持たない式となってしまうというんですね。これがフェルマーの最終定理と呼ばれるもの。
フェルマーは何か定理を見つけるたびに愛読書だった「算術」という本の余白に書き込んでいて、その書き込みは48にも上ったのだそう。でもそのほとんどの証明は書かれてなくて(きちんと証明されていなければ定理とは言えないんでしょうけど、フェルマーにとっては定理だった)、それを後の数学者たちが1つずつ解いていってるんですね。でもこの定理に関しては、フェルマーの死後誰1人として解くことができなくて、それで「最終定理」なんて名前で呼ばれるようになったというわけです。「この定理に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる」なんてふざけたことを書き残してたらしいんですよ! 全く、人が悪いというか悪戯好きというか、とんでもない人ですね、フェルマーってば。(笑)
で、この定理の証明に成功したのが、プリンストン大学にいたアンドリュー・ワイルズ。10歳の時に初めてこのフェルマーの最終定理を知って以来、それを解くのに憧れて、結局数学者になってしまったという人なんです。

この定理の証明を延々と書かれても、きちんと理解できるのは世界でもほんの一握りの人間だけだそうだし、高校まで数学を勉強した程度じゃあ、何言ってんだかぜーんぜんワケわかんないって状態になるはず。でもこの本では、そういう証明方法とかじゃなくて、フェルマーの定理やその元になったピュタゴラスの定理のこと、それに関わってきた数学者たちの歴史なんかが丁寧に書かれることによって、とても読みやすい本になってました。数論の歴史、ですね。女性数学者たちの歴史なんかも面白かったし、この定理の証明に複数の日本人数学者が大きな役割を担っていたというのがねー、読んでてなんだか嬉しかったり。極東の人間なんてろくすっぽ取り上げられないで終わってしまうことも多いらしいんですけど、きちんと書かれていたのが良かったですね。しかも、一度は完全に証明できたかと思われた証明に致命的な欠陥が発見されて、一時は最早解決不可能かという様相を呈するんです。ドラマティックな盛り上がりも十分。面白かったです。(新潮文庫)

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吉野朔実さんの「犬は本よりも電信柱が好き」の「京都マニア」の章に紹介されていた本をくまなく読もう企画第2弾。「京都な暮らし」は、実際は紹介されてなかったんですけどね。これは京都の四季折々の慣習や何かの本。
ということで、「京都人だけが食べている」「京味深々 京都人だけが食べている2」がメインだったわけなんですが、ああー、美味しそうでした! 美味しそうなお店がいっぱい紹介されてました。特に行きたくなったのは、吉野朔実さんも絶賛のなかひがし(懐石)かな。つるやの丼はやっぱり美味しそうだし、西陣江戸川のうな重も。新福菜館本店の炒飯のこの色もそそる... あと、わざわざ京都で?って感じもしますけど、吉加寿のお好み焼きや蛸虎のたこ焼きもちょっと試してみたくなったし、冷麺大好きの私としては、年中冷麺が食べられるという中華のサカイ本店にも行ってみたーい。お菓子関係では、松屋藤兵衛(和菓子)、緑寿庵清水(金平糖)、濱長本店(ところてん)辺り。そして生麩餅や麩饅頭目当てで中村軒と麩嘉。生麩大好きなんです。
 
でも、肝心の桂離宮付近のお店は、中村軒と隆兵そばしか載ってなくてざんねーん。(一応事前リサーチの一環ですから) どちらもその日お店がお休みなんですよぅ。中村軒の生麩餅食べたかったな。で、嵐山まで範囲を広げてみても、新八茶屋とサガパーというところしか載ってない... しかもこれは2つともソフトクリームのお店。私はソフトクリームは食べられないし。これはやっぱり、嵐山には「よそさん」相手のお店が多いってことかもしれないな。(実際多いんだけど)
文章のはしばしに見え隠れしてる京都人のプライドも、第三者として読めば面白いです。これで時々ふっと引きずり寄せられることさえなければ良かったんですけどね。...こればっかりは、わざわざ他の地方を引き合いに出さなくても京都万歳だけでいいじゃないですかーって言いたくなっちゃう。でもとりあえず、今回読む入江敦彦さんの本はこれでオシマイです。ああ、おなかいっぱい。ごちそうさまでした。(光文社知恵の森文庫・幻冬舎文庫)


+既読の入り江敦彦作品の感想+
「京都人だけが知っている」入江敦彦
「京都人だけが食べている」「京味深々 京都人だけが食べている2」「京都な暮らし」入江敦彦

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「東京や大阪が基本的にそこで生まれ育った者たちによって紹介されるのに対し、京都は、なぜか京都人以外に語られることが多い」という京都について、京都人として語ってしまった、京都出身でロンドン在住のエッセイスト・入江敦彦さんの本。

先日読んだ吉野朔実さんの「犬は本よりも電信柱が好き」の「京都マニア」の章に紹介されていた本をくまなく読もう企画(なんやそれ)第1弾。入江さんの本、京都でバカ売れしてるらしいですねーと言う吉野朔実さんに対して、入江さんの答は「京都人は京都マニアですからね」というもの。これには思わずニヤリとしました。確かにその通りかもー。
京都人が書いた京都の本、確かに面白いです。「よそさん対策」のことを始めとして、京都人特有の論理にはなんとなく聞き知ってた部分も多いのだけど、愛憎相半ばするって感じながらも、そこここに京都人としてのプライドが見え隠れしてるのが面白かったし、もちろん知らなかった話もちょこちょこと。例えば、入江敦彦さんはお母さんに「平野さんに産んでしもうて私が悪かった」なんて言われたそうなんですが、その表現は全くの初耳! 平野さんというのは平野神社のことで、北野天満宮の先にあることから、「北野を越えて」=「汚のう肥えて」を掛けて不細工な人を意味する京言葉なんですって。これにはびっくり。
ただ、京都に関しての「憎」には屈折した(笑)愛情が感じられたからいいんですけど、その他の場所に対して、はっきり見下してるのが感じられてしまうのがちょっと... だったかな。別に私だって生粋の大阪人じゃないけど、その辺りには少々不愉快になりました。そんなこと今更強調されなくても、大阪が京都からも神戸からも「一緒にせんといて!」って思われてるっていうのは、前々から言われてることだし!
でもまあ、大阪と京都の仲の悪さについては、この本に書かれてる通りみたいですね。丁度近くにいた生粋の大阪人に、大阪人が京都人を嫌いって本当なのかと聞いてみたら、本当だと言ってました。「おー、ほんまやで。あいつら常識が通用せえへん。異国や異国。」ですって。えええ、そうなんだー。長年大阪に住んでるのに、全然知らなかった。まあ、全員が全員そう思ってるってわけでもないでしょうけど。まだまだ私も大阪人度が低いんだな。(笑)
ま、そんなこんなで色々思うところはあった本でした... が(笑)、全体的には面白かったです。そういえば、そろそろ千枚漬の季節ですね。食べたいなあ~。(洋泉社)


+既読の入り江敦彦作品の感想+
「京都人だけが知っている」入江敦彦
「京都人だけが食べている」「京味深々 京都人だけが食べている2」「京都な暮らし」入江敦彦

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