Catégories:“文学・作家研究”

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井辻朱美さんのファンタジー論に引き合いに出されていた、「指輪物語」のJ.R.R.トールキンの妖精物語論。2冊並んでますが、基本的に同じ本です。どちらにもまず妖精物語についての文章があって、C.S.ルイスに宛てた詩「神話を創る」(「妖精物語について」では「神話の創造」という題名)が。そして、「妖精物語の国へ」には「ビュルフトエルムの息子ビュルフトノスの帰還」が、「妖精物語について」には「ニグルの木の葉」が収められています。

なぜ同じような本を2冊読んだかといえば、メインの「妖精物語について」を読んでいても、ちっとも頭の中に入って来なかったから(^^;。
この2冊は訳者さんが違うのです。「妖精物語の国へ」は杉山洋子さん、「妖精物語について」は猪熊葉子さん。最初杉山訳を2回読んでもピンと来なくて、違う訳の本も読めば、きっと頭の中で内容を補い合ってくれるだろうと思って猪熊訳を読んだんですが、訳文はどうも一長一短、結局猪熊訳も2回読み、最後には2冊並べて読み比べてしまいました...。まあ、それだけ読み返した甲斐があって、ようやく頭に入ったんですが。(そこまでしなくちゃ入ってこない頭ってば)

やっぱりメインは「妖精物語について」でしょう。字が読めるようになって以来、妖精物語を愛してきたというトールキン。妖精物語を「子供っぽくてばかげている」「子供用の話だ」と一段低く見ようとする動きに対して繰り広げている、一種の擁護論ですね。妖精物語とは何なのか、その起源と効用とは何なのか、考察しています。これが発表されたのは、「ホビットの冒険」を刊行後、「指輪物語」を書いてる途中、でも壁にぶつかってる最中だったようで、なんだかムキになってるなあ、なんて感じる部分も。(笑)
特に印象に残ったのは、ファンタジーは本来文学に向いているという辺り。例えば絵画の場合だと、心に描いた不思議なイメージを視覚的に表現するのは簡単すぎるので、逆にばかげた作品や病的な作品が出来やすい。これが演劇になると、元々舞台上に「擬似魔術的な第二世界」を作り上げているので、「さらにファンタジーや魔術を持ち込むのは、まるでその内部にもうひとつ、第三の世界を作るようなもの」という理由で相性が悪い。その点、ファンタジーは、言葉で語られるのに向いているという話。映画についても書いてあれば良かったのに。でも、ディズニーは大嫌いだったようですが、映画化についてはやぶさかでなかったようですね。

お2人の訳はかなり違っていて、例えば神話や妖精物語を嘘だと言ったC.S.ルイスの言葉は、杉山訳は「銀の笛で嘘を奏でる」、猪熊訳は「銀(しろがね)のように美しいが嘘だ」。個人的には、日本語として硬すぎるように感じられる部分は多いものの、猪熊訳の方が好みです。(でもやっぱり硬いんだよね...)(ちくま文庫・評論社)


+既読のJ.R.R.トールキン作品の感想+
「農夫ジャイルズの冒険 トールキン小品集」J.R.R.トールキン
「妖精物語の国へ」「妖精物語について」J.R.R.トールキン
「シルマリルの物語」上下 J.R.R.トールキン
「ビルボの別れの歌」「指輪物語『中つ国』のうた」J.R.R.トールキン
「ブリスさん」「サンタ・クロースからの手紙」J.R.R.トールキン
「仔犬のローヴァーの冒険」J.R.R.トールキン
「ホビットの冒険」上下 J.R.R.トールキン
「指輪物語」J.R.R.トールキン
「サー・ガウェインと緑の騎士」J.R.R.トールキン
「終わらざりし物語」上下 J.R.R.トールキン

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カルヴィーノの「なぜ古典を読むのか」に引き続きの評論系。とは言っても、今回はファンタジーなので全然違うんですが、こちらも面白かったです。考えてみたら、こういう本って、今までほとんど読んだことがなかったんですよね。ゴチャゴチャにギッシリ詰め込まれた引き出しの中みたいになってた頭の中が、ちょっと整理されたような...。

この2冊を通して一番印象に残ったのは、博物館に関する話。恐竜や古代文明を求めて井辻さんが博物館めぐりをされていた時に気づいたのは、博物館という場所が、外界とは切り離された凝縮された場所だということ。最も古い時代の物は必ず最下階に展示され、そこから徐々に上昇するにつれて現代に近づいていき、出口には必ず土産物屋やカフェが置かれて「現実へのなだらかな再接続が準備されている」ということ。ああ、言われてみればそうかもしれないですね。そして目を転じてみると、テーマパークのアトラクションも、閉ざされた建物に入ることによって、短い死と再生を体験するもの。そうやって空間を創り出し、体験することこそがファンタジーの核であり、ファンタジー作品を支えているのはそういった空間なのではないか。それに気づいた時、井辻さんはファンタジーを「場所」や「空間」という隠れたコードから読み直すようになったのだそうです。
「ファンタジーの森から」には、「幻想文学」に連載されていたファンタジー論が収められているんですが、まだそれだけで1冊にするほどではなかったようで、歌人としての井辻さんの作品やエッセイも入ってます。井辻さんの短歌は初めて読んだんですが、こんな風に神話や古代世界を歌ってらしたとは... 素敵~。たとえば俵万智さんや穂村弘さんの口語短歌(って言うんですかね?)の存在は、何もなくても目に入ってくるけど、こういうのもあったんですね! もっと読んでみたいです。そして「ファンタジーの魔法空間」は、「ファンタジーの森から」に書かれた論を、もう一歩進めて整理した感じ。特に「家」について論じた章がすごいです。井辻さんは評論本を他にも何冊か書いてらして、これは比較的初期の2冊。次はもう少し新しいのを読んでみようと思ってます。「ファンタジーの魔法空間」もとてもいいのだけど、まだ途上のような、もっと綺麗に整理できる余地があるんじゃないかという気もするので。そして、どちらの本にもトールキンの「妖精物語について」についてかなり引き合いに出されていました。こちらも読まなくては~。

トールキンといえば、「指輪物語」における回想シーンと歌謡の多さ、そしてその役割に関する話が面白かったです。あらすじを聞いただけではそれほど楽しいとは思えない話が、なぜそれほど魅力的なのか。その理由として井辻さんが挙げているのは、「そこでは時間がその瞬間に生まれ、どの瞬間にも停止しうるような、立ち止まりうる相を備えていたからだ」ということ。確かに「指輪物語」には、最近のジェットコースター的作品にはない、ゆったりとした流れがあります。古い叙事詩や神話によく見られるような、時には本筋とは関係ない部分が延々と描かれている部分。怒涛のように展開して、見事に収束する話も面白いんだけど、そういうのは「ああ、面白かった」だけで終わってしまうことも多くて、忘れるのも早いんですよね。(全部ではないですが) でも「指輪物語」みたいな作品は、じっくりと自分のペースで読めるし、読み終わった後、何度でもイメージの中で反芻できるんです。それが1つの大きな違いとも言えそう。そうか、そういうゆったりとした、今の時空から切り離されたような部分も、私が「指輪物語」や古い神話、叙事詩に惹かれる大きな要素なんだな、と再発見なのでありました。...自分で気付けよって感じですが(^^;。(岩波書店・アトリエOCTA)


+既読の井辻朱美作品の感想+
「風街物語 完全版」井辻朱美
「エルガーノの歌」「パルメランの夢」井辻朱美
「幽霊屋敷のコトン」「トヴィウスの森の物語」井辻朱美
「ヘルメ・ハイネの水晶の塔」井辻朱美
「遙かよりくる飛行船」井辻朱美
「ファンタジーの森から」「ファンタジーの魔法空間」井辻朱美
「夢の仕掛け 私のファンタジーめぐり」井辻朱美
「魔法のほうき」井辻朱美
「ファンタジー万華鏡」井辻朱美

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「なぜ古典を読むのか」という問いの下に、カルヴィーノが定義した「古典」の14の定義。そしてホメロス「オデュッセイア」に始まり、オウィディウス、プリニウス、バルザックやトルストイ、ヘミングウェイ、ボルヘス、レーモン・クノーまで、30人ほどの作家とその著作を取り上げていきます。


まず古典に関する14の定義なんですが...
全部書くとさすがにマズいかなと思うので、特に印象に残ったものだけ抜粋。

1.古典とは、ふつう、人がそれについて、「いま、読み返しているのですが」とはいっても、「いま、読んでいるところです」とはあまりいわない本である。

これにはニヤリ。あ、でも「読んでいる」も「読み返している」も一緒だとカルヴィーノは書いてます。その理由も。

2.古典とは、読んでそれが好きになった人にとって、ひとつの豊かさとなる本だ。しかし、これを、よりよい条件で初めて味わう幸運にまだめぐりあっていない人間にとっても、おなじぐらい重要な資産だ。
3.古典とは、忘れられないものとしてはっきり記憶に残るときも、記憶の襞のなかで、集団に属する無意識、あるいは個人の無意識などという擬態をよそおって潜んでいるときも、これを読むものにとくべつな影響をおよぼす書物をいう。

要するに、若い時に古典を読んで十分理解できなかったとしても、その後ほとんど忘れてしまったとしても、知らないうちに自分の血肉となっているのが古典。だから「よりよい条件」とは言えないような若い時に読んでも大丈夫。だからといって、若い時に読んでいなくて、壮年または老年となった時に初めて読んでも、それは「比類ない愉しみ」をもたらすから、これまた大丈夫。

9.古典とは、人から聞いたりそれについて読んだりして、知りつくしているつもりになっていても、いざ自分で読んでみると、あたらしい、予期しなかった、それまでだれにも読まれたことのない作品に思える本である。

古典を読む時には、できるだけ原典だけを直接読むべきだ、というのは他の定義の所に書かれていたんですが、この定義にも当てはまるでしょうね。確かに、解説本や研究本によって妙な先入観が入ってしまうこともあるでしょうし、そういった本は原典以上に雄弁にはなり得ないかもしれないのですが... でも、たとえばその本に対して自分が理解しきれてないと思った時なんかに、色々な考え方について知りたくなってしまうことがあるのも事実。その場合は、先に原典を読んでいればオッケーでしょうか。(笑)
そしてこの定義のところに書かれていた「古典は義務とか尊敬とかのために読むものではなくて、好きで読むものだ」という言葉に、本当にただ「好き」だけで読んでいる私のようなへっぽこ読者は、大きく励まされるのでありました。(笑)


でもこの「なぜ古典を読むのか」ということだけで1冊書かれているのかと思いきや、最初の1章だけでした... あらら。
その後の文章は、主にある文学叢書の「まえがき」として書かれたものだそうなんですが、文体も違っているし、内容的にもちょっとバラバラな印象。しかもここで紹介されているのは、古い時代のいわゆる古典作品だけではなくて、「現代の古典」と言われるような、20世紀の作家の作品も結構入ってるんです。私は狭義の意味での古典作品について読みたかったので、ちょっと残念。でもカルヴィーノにとっての古典の定義の中に、「古代のものにせよ、近、現代のものにせよ、おなじ反響効果をもちながら、文化の継続性のなかで、すでにひとつの場を獲得したもの」という文章があるので、仕方ないですね。狭義の古典に拘らない人には、逆にブックガイドとして楽しめるんじゃないかと思います。私自身、もし今これほどまでに古典の気分になっていなければ、もっと楽しめたんじゃないかと。...うーん、今読んだのは、ちょっと勿体なかったかも。あ、もちろん、ホメロス~クセノポン~オウィディウス~プリニウス~アリオスト辺りは本当に面白かったし、興味深かったですけどね。(みすず書房)


+既読のイタロ・カルヴィーノ作品の感想+
「宿命の交わる城」イタロ・カルヴィーノ
「不在の騎士」イタロ・カルヴィーノ
「レ・コスミコミケ」イタロ・カルヴィーノ
「なぜ古典を読むのか」イタロ・カルヴィーノ
「まっぷたつの子爵」「木のぼり男爵」イタロ・カルヴィーノ
「イタリア民話集」上下 カルヴィーノ
「魔法の庭」イタロ・カルヴィーノ
「見えない都市」イタロ・カルヴィーノ
「マルコヴァルドさんの四季」カルヴィーノ
「冬の夜ひとりの旅人が」イタロ・カルヴィーノ
「柔かい月」イタロ・カルヴィーノ
「カルヴィーノの文学講義」イタロ・カルヴィーノ
「パロマー」カルヴィーノ
「くもの巣の小道」イタロ・カルヴィーノ
「むずかしい愛」カルヴィーノ

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prince.jpg以前ブログの記事にも書いた、フランス語研究会での勉強の一環として読んでいた「星の王子さま」が、とうとう読み終わりましたー。わーい!
フランス語は以前にも勉強してことがあるんですが、もうすっかり忘れてるし、「星の王子さま」をいきなりフランス語で読んでもちんぷんかんぷんなので(笑)、その時にも書いた通り、仏語版と英語版を対訳っぽく使用しました。同じヨーロッパの言語ということで文の構造も語順も似てるので、日本語訳と照らし合わせるよりも分かりやすかったです。(なんて書くと、まるで国際人のような錯覚に陥りそうですが・笑)

原書で読んで初めて気づく部分もあって、そういう部分に出会うと、原書で読んでみてよかったなあって思いますね。例えば王子さまが、自分の星を出る時に薔薇の花と別れの挨拶を交わす場面。私が持ってる内藤訳では、こう訳されてます。

「さよなら」と、王子さまは花にいいました。

原書ではこんな感じ。

--Adieu, dit-il a la fleur.

ここでポイントとなるのが、フランス語には"au revoir"(オールボワール)と"adieu"(アデュー)という2つの別れの挨拶があるということ。普段使うのは「また会いましょう」的な"au revoir"で、それに対して"adieu"は、「二度と会わない相手」もしくは、「また会うことはあるかもしれないけれど、そうそう簡単には会えない相手」に対する挨拶の言葉。
日本語だと「さよなら」という一言にしかならないんですが、このほんの一言の短い台詞に、王子さまはその言葉に「もう二度と会えないかもしれない」という気持ちを込めていたんですねえ。こういう部分に、ぐぐっと来ちゃうんですよー。日本語で読んでるだけでは、分からなかった部分。でも日本語にそれほどの思いを込められる言葉なんて、ないですものね。実際、書店で「星の王子さま」の訳本を4~5冊確かめてみたんですけど、この部分の訳はどれも「さようなら」か「さよなら」でした。

そして途中から原書と合わせて読んでいたのは、瑛里さんに教えて頂いていた「星の王子さまをフランス語で読む」。これは題名の通り、「星の王子さま」をフランス語で読み解いていく本です。でも、全くの初心者向けという感じではないですね。案外文法に関する説明が多いので(もっと文章の流れを追うのかと思ってたので、ちょっとびっくり)、少しでも文法を齧ったことのある人の方が良さそうです。
この本によると、フランス人の子供なら8歳か9歳ぐらいで読めるのだそう。ということは、実はかなり苦戦していた私のフランス語読解力は、幼稚園児かそれ以下ということかなあ。(笑)

そして4月からのNHKラジオのフランス語講座の応用編では、3ヶ月コースで「『星の王子さま』を読もう」が始まります。一度読了したとはいうものの、かなり流し読みしてしまってる部分もあるので、こちらを聞いてきちんと読み直す予定。ラジオ講座の放送時間は、午前7時25分~午前7時45分、午後1時20分~午後1時40分(再放送)、応用編は金曜日と土曜日です。(NHK第二放送)

Antoine de Saint-Exupery
Le Petit Prince」(仏語版) 「The Little Prince」(英語版)

「星の王子さまをフランス語で読む」(ちくま学芸文庫)

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臨床心理学者であり、心理療法家でもあった河合隼雄さんの児童書解説本。以前、「ファンタジーを読む」を読んだ時から(感想) 読みたかった本です。でも「ファンタジーを読む」で紹介されてる作品は結構読んでたから良かったんですけど、こちらは読んでない本も沢山。河合隼雄さんの考察は素晴らしいと思うんだけど、あらすじを最初から最後までとても丁寧に紹介される方なので、それだけですっかり読んだ気になってしまうのだけが難点なんですよね。それにやっぱり自分が知ってる本について読む方が面白いし、中に紹介されてる作品を先に読んでからにしようかな、なんて思ってたんですが。
とりあえず「飛ぶ教室」なら読んでるから、ちょっと読んでみよう... なんて思ったら! 止まらなくなっちゃいました。ケストナーの「飛ぶ教室」は私も子供の頃から大好きで、何度も何度も読んでる作品なんですけど、河合隼雄さんの文章や引用文を読んでるだけで、もう泣きそうになっちゃって(^^;。
それにリンドグレーンのピッピシリーズの章も良かったし~。でも「長くつしたのピッピ」が、「あしながおじさん」に触発されて出来た作品とは知らなかったです。リンドグレーンの母国語のスウェーデン語だと、「長くつしたのピッピ」は「Pippi Langstrump」で、「あしながおじさん」は「Pappa Langben」なんですって。そっくり! 英語の「Pippi Longstocking」と「Daddy-Long-Legs」ならピンとくるのかもしれないけど(私はこなかった)、日本語じゃあちょっと分からないですよね。そうなんだー、面白ーい。
紹介されている作品は、「飛ぶ教室」(ケストナー)、「まぼろしの小さい犬」(ピアス)、「思い出のマーニー」(ロビンソン)、「ぼんぼん」「兄貴」「おれたちのおふくろ」(今江祥智)、「ヒルベルという子がいた」(ヘルトリング)、「長くつ下のピッピ」「ピッピ船にのる」「ピッピ南の島へ」(リンドグレーン)、「ねずみ女房」(ゴッデン)、「ふたりのひみつ」(ボーゲル)、「つみつみニャー」(長新太)、「首のないキューピッド」(スナイダー)、「砦」(ハンター)、「わたしが妹だったとき」(佐野洋子)。私が読んでいたのは、恥ずかしながら「飛ぶ教室」と「ピッピ」だけ。「まぼろしの小さい犬」や「ねずみ女房」も読んでみたいな。(講談社+α文庫)


+既読の河合隼雄作品の感想+
「猫だましい」「ファンタジーを読む」河合隼雄
「子どもの本を読む」河合隼雄

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昨日に引き続き、ファンタジー系のブックガイドとなるような本です。今回は、臨床心理学者だった河合隼雄さんの著書。

「猫だましい」は、「トマシーナ」(感想)の解説が河合隼雄さんだったことから知った本。猫だましいとは、猫「たましい」と「だまし」を掛けたタイトルとのこと。本当はこの「猫だましい」の方が本命で、「長靴をはいた猫」、「空飛び猫」、「100万回生きたねこ」、「こねこのぴっち」、「トマシーナ」、「猫と庄造と二人のおんな」、その他モロモロ昔話に登場する猫の話から「綿の国星」まで、古今東西の猫の話が登場して、きっとすごく楽しめるだろうと思ってたんですけど... うーん、「ファンタジーを読む」を先に読んだせいか、少し霞んでしまいました。「ファンタジーを読む」の方が、1つ1つの作品に対する掘り下げが丁寧で、「そうだったのか!」が色々とあって面白かったです。

その「ファンタジーを読む」は、お馴染みのファンタジーの名作13冊に、心理療法家としての観点から新たな解釈が加えられたもの。13冊中、私の既読は9冊。あらすじが丁寧に紹介されているので、未読でも全く困らないんですが... やや丁寧すぎるきらいもあるので、やっぱり実際に自分で読んでからの方がいいかも。未読の4冊には、近々読もうと思っていた「七つの人形の恋物語」(ギャリコ)も入っていて、それを読んでからにすれば良かった... とちょっぴり後悔しました。
でも知ってる作品については、「そうか、そうだったのか」がいっぱい。特に「マリアンヌの夢」と「人形の家」、「ゲド戦記」には、納得できる部分が色々とあって良かったです。そして「北風のうしろの国」(マクドナルド)のところで出てきた、「ファンタジーが深くなる、あるいは、無意識界への下降が深くなると、それはきわめて死と近接したものとなる」という言葉にも、なるほど!でした。
でもリンドグレーンの「はるかな国の兄弟」については、もう少し書いて欲しかったかな...。これは私も子供の頃読んで、挿絵は綺麗だし物語は幻想的だし、大好きな作品だったんですが、子供心に色々な「不思議」が残ってしまっていたんですよね。この本では、その「不思議」は解消されず仕舞いのまま。(いつかこの「不思議」が解消される日は来るのかしら?)

そしてこの「ファンタジーを読む」と対になるような、「子どもの本を読む」という本もあったんですね。知らなかった。こちらもぜひ読んでみたいです。(新潮文庫・講談社プラスアルファ文庫)


+既読の河合隼雄作品の感想+
「猫だましい」「ファンタジーを読む」河合隼雄
「子どもの本を読む」河合隼雄

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昨日の「西行花伝」に引き続きの西行。でもこちらは物語ではなく評伝ということで、またちょっと違う西行の姿が見えてきました。「西行花伝」の西行は、少年時代から利発で、源重実の語る雅(みやび)な心について真面目に考え込むような少年。若いころから、人間的にかなり出来てるんですけど、白洲さんを通して見る西行はそれほど人間が出来てなくて、結構荒々しい面も持ってたみたい。若いころは好き嫌いがひどくて癇癪持ちで、世話になっている人でも、一旦見切ってしまうと簡単に縁を切ってしまったとか。出家の時に実の娘を縁から蹴落としてる、鎌倉中期に描かれた絵なんかも載ってて、かなりびっくりです。それもそのはず、西行の先祖には平将門を討った荒くれ者の俵藤太がいたから、なんだそうですが... そういうものなんですかね?(笑) あと、出家した後も待賢門院のところの女房たちとか、通りすがりの遊女相手に粋な歌のやりとりをしてみたりという艶やかさもあったり。もちろん「西行花伝」の西行が絶対とは思ってなかったんですけど、やっぱりかなり違うものなんですね。面白いなあ。
白洲正子さんご自身が、西行縁の地を辿って色々な旅をしてらっしゃるので、そういう紀行文的楽しみもあるし、能や歌舞伎、その他様々な資料に残る逸話を引き合いに出しての説明も興味深かったです。白洲正子さんの潔さのある文章もいいですね。(新潮文庫)

ということで、西行はこれで一旦オシマイ。次は坂口安吾氏の「桜の森の満開の下」を読もうかと思ったんですけど、あいにくとまだ満開じゃないんですよね。てか、まだほとんど蕾だし! なので、咲き揃うまでもうちょっと待つことにします。(^^ゞ


+既読の白洲正子作品の感想+
「日本のたくみ」白洲正子
「西行」白洲正子
「遊鬼」白洲正子

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