Catégories:“文学(翻訳)”

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カンタベリーへ巡礼の旅に出かけようと考えたチョーサーは、旅籠屋で同じくカンタベリーへと向かう巡礼29人と一緒になり、その仲間に入ることに。巡礼たちを見ていた旅籠屋の主人が行く道で2つ、帰る道で2つずつ話をして、一番愉快な話をした人に夕食をご馳走するという趣向を提案し、全員その提案に喜んで従うことになります。巡礼に参加したのは、騎士、近習をしている騎士の息子、盾持、尼僧院長、助手の尼僧、3人の僧、修道僧、托鉢僧、貿易商人、オックスフォードの学僧、高等弁護士、郷士、小間物商、大工、織物商、染物屋、家具装飾商、料理人、船長、医学博士、バースの女房、教区司祭、農夫、家扶、粉屋、召喚吏、免罪符売り、賄い方、チョーサー、そして審判として参加した旅籠屋の主人の計32人。

14世紀のイギリスの詩人・チョーサーによる長大な叙事詩。カンタベリーへ向かう巡礼たちの語る24の物語です。大学の時に授業で読んだんですけど、そういえば全部は読んでなかったんですよね。知らなかった話もあって、今回初の完読となりました。(毎日のように感想をアップしてますけど、まさか1日で3冊読んだわけじゃないです! 本を読むのに感想を書くのが追いつかなくて、溜まってるのです~っ)
「総序の歌」の時点では、1人4つずつの物語が聞けるという話だったんですが、それはさすがに無理だったようで(笑)、結果的には全員が話すところまでもいってません。チョーサーが影響を受けたというボッカッチョのデカメロンでは、10人が10話ずつの全100話を語ってるというのに。でも気高い騎士には気高い物語。下衆な酔いどれ粉屋には下卑た卑猥な話、と参加者それぞれのイメージに合った話が披露されて、参加者のバラエティそのままのバラエティ豊かな作品になってて楽しい~。自分が当てこすられたように感じて、対抗する話を披露する人もいますしね。そして色んな話を1つの大きな話にまとめるのが、旅籠屋の主人の役目。
純粋に物語として読んでも面白いんですけど、むしろ中世の庶民の暮らしを身近に感じられるのが魅力なんだと思います。高尚だったりキリスト教色が濃かったり、教訓的だったりという話もありますが、基本的には下世話な話が多いんです。その中でも多かったのは、強い奥さんの話。妻を管理しようとする夫を出し抜いて結局自分の好きなように行動して、それが露見してもしたたかに開き直る妻の多いこと。あんまりそういうのが続くと、消化不良を起こしそうですが...(笑)
私が一番好きだったのは騎士の物語。これは古代ギリシャを舞台にした三角関係の話です。下世話じゃないヤツ。(笑)(岩波文庫)

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「仕事と日」は、農夫であり詩人でもある兄・ヘーシオドスから、無頼な弟・ペルセースへの訓戒を歌う教訓叙事詩。ヘーシオドスはパンドラの箱の物語や、五時代の説話を引き合いに出しながら、労働の尊さについて語り、人間としてあるべき姿や望ましい行動について語り、農業をするために大切な農事暦まで教えて聞かせます。「ホメーロスとヘーシオドスの歌競べ」も収録。

「仕事と日」は、叙事詩らしくムーサたちへの語りかけから始まるし、ギリシャ神話の神々のエピソードをふんだんに使ってるんですが、実は全編通して、できの良いお兄ちゃんからやんちゃな弟へのお説教。この兄弟は、実際に父親の遺産の土地を巡って争ったり、地元の領主に賄賂を渡して自分の分け前以上を得た弟が、あっという間にその遺産を蕩尽してしまってヘシオドスに泣きついたとか、そんなエピソードがあったようです。ギリシャ時代の叙事詩といえば、ホメロスの「イリアス」や「オデュッセイア」のような英雄譚がまず頭に浮かぶし、同じヘシオドスにだって、「神統記」のように壮大な神話世界の成立を歌う作品があるのに、こんな個人レベルの作品もあったんですねー。兄はともかく、ペルセースは2700年も後まで、情けない弟として名前が残っちゃったんだからスゴイ。しかも、まだまだ残るはず。(笑)
ちなみに五時代の説話とは、ゼウスの前のクロノスの時代に作り出された黄金の種族、銀の種族、ゼウスの時代になって作り出された青銅の種族、英雄たちの高貴な種族(半神で、オイディプス王やトロイア戦争の時代のギリシャ人はこれにあたるらしいです)、そして現在の鉄の種族、と人間の歴史の変遷を5つの時代に分けてみせるもの。オウィディウスの「変身物語」(感想)でも似たような話はあったんですが、金、銀、銅、鉄の4つで、英雄の時代はなかったです。オウィディウスは古代ローマ時代の人なので、古代ギリシャ人のヘシオドスよりも時代的にはかなり後。当然この「仕事と日」も読んでるでしょう。金、銀、青銅、鉄という金属に対して、「英雄」だけバランスが悪いと感じたのかな? ていうか、私ならバランスが悪いと思っちゃうんですけど。まあ、ギリシャ人のヘシオドスには仕方なかったのかもしれないですけど。(笑)

「ホメーロスとヘーシオドスの歌競べ」は、作者不詳の作品。共に詩聖と称せられたホメロスとヘシオドスが、エウボイア島のカルキスで対決する様子を描いた叙事詩。本当にこの2人が歌競べしたとはあまり考えられないらしいんですけど、ギリシャ人の聴衆がホメロスを褒め称えるのに対して、王が「勝利者たるべきは戦争や殺戮を縷々として述べる者ではなく、農業と平和の勧めを説く者でなくてはならぬといって、ヘーシオドスに勝利の冠を与えた」とあるのが興味深いところです。実は政治的な意図がある作品なのかしら?(岩波文庫)


+既読のヘシオドス作品の感想+
「神統記」ヘシオドス
「仕事と日」ヘーシオドス

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美貌の16歳の少年奴隷・ギトンをはさんで争いあう、エンコルピスとアスキュルトス。南イタリアを放浪する彼らの前には、様々な男女が入れ替わり立ち代り現れます。

むむー、なんかエラいものを読んでしまいました...。ローマ帝国5代皇帝ネロの治下、「趣味の権威者」として名高かったという文人・ペトロニウスによる悪漢(ピカレスク)小説とのことなんですが... いやもうほんとローマ文化の爛熟ぶりが分かるというか何というか... 要するに男色とかそういうのなんですけど(笑) 享楽的な生活とその優雅な退廃ぶりが繰り返し描かれていて、その乱れきった様子には正直辟易してしまいました。でもまあ、当時の優雅で洗練された貴族社会とかね、当時の人々の美意識とかね、そういうのを知ることができるという面では興味深いかもしれないです。
フェデリコ・フェリーニの映画「サテリコン」は、この作品を元に作られたのだそう。2人の男を振り回す奴隷の役の少年の写真を見ましたが、すごいです。目がものすごく力強くて色っぽいです。本の中の少年は、尻軽だけど根は結構良い子なんですよ。映画の少年は悪女ならぬ悪少年? きっと本とは全然違うに違いないー。(岩波文庫)

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エーゲ海に浮かぶレスボス島。ある資産家の荘園で山羊の世話をしているラモーンという男は、荘園の山羊が捨てられた赤ん坊に乳を飲ませているのを見つけます。捨て子には珍しいほど立派な産着に包まっているのを見て、ラモーンは赤ん坊を家に連れて帰り、ダフニスという名をつけて、自分たち夫婦の子として育てることに。一方、それから2年ほどたったある日、荘園と地続きの田野で家畜を追っていたドリュアースという男が、岩穴で赤ん坊を見つけます。こちらの赤ん坊も立派な品を身につけており、リュアースの羊が乳を飲ませて世話をしていました。ドリュアースも赤子を家に連れて帰ってクロエーと名付け、自分たち夫婦の子として育てることに。2人の赤子はすくすくと育ち、ダフニスは山羊飼いに、クロエーは羊飼いになります。

古代ローマ時代のロンゴスの作品。レスボス島で狩をしていたロンゴスが、ニンフの森で世にも美しい絵を目にして、そこに描かれた情景に相応しい物語を書き上げたという形式です。この作品が書かれた2世紀末~3世紀初め頃は通俗的な大衆読物が盛んに書かれていて、冒険あり恋愛あり怪奇ありという盛り沢山の作品が人気だったのだそう。それも読者の異国趣味を満足させるために、主人公たちは西に東に大活躍。でもこの「ダフニスとクロエー」の舞台はレスボス島だけ、それもごく限られた牧場地帯の中の出来事を描いた作品ということで、珍しい存在なのだそうです。
でもこの物語の中心となるのは、まだまだ幼いダフニスとクロエー。恋とは何なのかということすら分からないような2人の話なので、広い世界なんて全然必要ないですね。のどかな島の情景、季節の移り変わり共に2人の恋が育っていく様子が叙情的に描かれていて、とても美しいです。もちろん2人の恋の前には、いくつも障害があるんですけど、それも純情な恋の雰囲気を壊すものではなくて、2人の気持ちの結びつきを強める程度のもの。牧歌的な魅力に溢れた美しい小品となっています

岩波文庫にはボナールの絵が使われていますが、シャガールが好きな方には右のような本もあります。シャガール晩年の傑作リトグラフを全42点、挿絵として使っているという贅沢な本なのだそうです。私自身はシャガールは苦手なので多分見ないと思いますが、お好きな方にはいいかも。あと、「ダフニスとクロエー」といえば、ミレーの絵もあればラヴェルのバレエ曲もありますし、三島由紀夫の「潮騒」もこの作品を底本にしてるんだそうです。そんな風に色々な影響を与えてるのも頷ける作品でした。何ていうか、基本に戻った純粋さが力強いです。(岩波文庫)

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ニューヨークで出会って結婚したものの、貧しさのあまり暮らしていくことができず、フランクの両親は子供たちを連れてアイルランドのリムリックへと戻ることに。父のマラキは、口ばかり達者で甲斐性なしの飲んだくれ。暖炉のわきでうめくだけの信心深い母親・アンジェラ。一家がアイルランドに渡ったのはフランクが4歳、すぐ下の弟のマラキが3歳、双子の弟のオリバーとユージーンが1歳の時のことでした。

1997年のピュリッツァー賞伝記部門を受賞したという、フランク・マコート自身の子供の頃を描いた作品です。

子供のころを振り返ると、よく生き延びたものだと思う。もちろん、惨めな子供時代だった。だが、幸せな子供時代なんて語る価値もない。アイルランド人の惨めな子供時代は、普通の人の惨めな子供時代より悪い。アイルランド人カトリック教徒の惨めな子供時代は、それよりもっと悪い。

貧しくてひもじくて、それでも父親はわずかに稼いだ金や失業手当を持ってパブに行ってしまい、子供たちは空腹のまま布団に入る毎日。妹のマーガレットや弟のオリバーとユージーンが死んだのも貧しさのせいだし、フランクの腸チフスや結膜炎ものすごく酷くなったのも、貧しさのせい。仕事が長続きしないのに、ほんのわずかのお金も飲んでしまう父親のせいで、母親は近所の人に食べ物を借りて、子供たちに食べさせる生活。後の方で、フランクが空腹のあまり、フィッシュアンドチップスが包まれていた新聞紙の油をなめるシーンが出てきます。強烈です。「油の染みが一つもなくなるまで、ぼくは新聞をちゅうちゅうと吸う」 ...確かにアイルランドのカトリック教徒の子供たちの悲惨さは、桁違いかもしれないですね。
それでも決してお涙頂戴ではなくて、ほんのりユーモアまじりに語られているのがいいのです。悲惨な状況ではあるけど、フランクたちは決して不幸ではないし...。父親が語ってくれるクーフリンの物語を、フランクが大事に自分だけのものにしていたり、早朝の父親を独り占めして密かに喜びを感じている部分なんて、読んでいるとほんのりと暖かくなります。告解のエピソードも微笑ましいです。幼い頃の告解は司祭が笑いをこらえるのに必死になるような無邪気な内容なんですが、徐々に大きくなって異性への関心が育つにつれて、素直に告解できるような内容ではなくなってくるんですね。そうなると、フランクは教会に行かなければと思いつつも、なかなか入ることができなくなっちゃう。そして、おできのように大きく腫れ上がった罪の意識が自分を殺すことのないようにと1人祈ることに... 一人前の大人になったように見えながら、まだまだ子供の部分を見せるフランクが可愛いです。

「アンジェラの灰」の「灰」とは何なのか、この作品にははっきりと書かれていません。アンジェラが時々眺めている暖炉の灰とか、煙草の灰というのも考えられるんですけど、私は最初この題を見た時に、「ashes to ashes, dust to dust」(灰は灰に、塵は塵に、という埋葬の時の言葉)なのかなと思いました... が、アンジェラはまだ生きてるので、違うみたい。(笑)
あとがきによると、続編の「アンジェラの祈り」を読むと分かるのだそうです。(新潮文庫)


+既読のフランク・マコート作品の感想+
「アンジェラの灰」上下 フランク・マコート
「アンジェラの祈り」フランク・マコート

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夏休みになると、毎年田舎(カンポ)のオジさんの家にやられる9歳のユニオールと12歳のラファ。兄のラファは毎年文句を言うけれど、首都サント・ドミンゴのスラムとはまるで違う生活を、ユニオールは案外気に入っていました... という「イスラエル」以下全10編。

ドミニカ共和国からアメリカに移民した作家・ジュノ・ディアズの自伝的短編集。それぞれの短編は時系列的に並んでいるわけではなくて、主人公のユニオールは9歳だったりティーンエイジャーだったり、物語の舞台となる場所もドミニカ共和国の首都・サント・ドミンゴだったり、田舎町だったり、ニューヨークのスラムだったりと、結構ランダム。でも、それがなぜかとても自然で、その都度、すんなりとその情景に引き込んでくれるんです。
冒頭に、「あなたにこうして / 英語で書いていること自体 / 本当に伝えたかったことを / 既に裏切っている / わたしの伝えたかったこと / それは / わたしが英語の世界に属さないこと / それどころか、どこにも属していないこと」という言葉が引用されています。この言葉はキューバの詩人の言葉なのだそう。でもきっと、ディアズ自身の叫びでもあるんでしょうね。アメリカの大学や大学院に進学している以上、既に英語の方が堪能かもしれませんが、どんな風に書いても英語で書いている以上、元々話したり考えるために使っていたスペイン語とは異質なものとなっているはず。そういうことを考えると、母国語でもないフランス語を日々使い、執筆しているアゴタ・クリストフのことを思い出さずにはいられません。ジュノ・ディアズもアゴタ・クリストフのように、自分の中から母国語が消えていくのを感じていたりするのでしょうか。ジュノ・ディアズの場合は、戦争のためにやむを得なかったアゴタ・クリストフとは状況が全然違うのだけど。でもいくら上手に英語を話しても、英語は彼の母国語ではないんですよね。そしてそれこそが、この短編集に独特の雰囲気を与えているものなのかも。それぞれに余韻の残る短編集です。
でもこの題名、どこから出てきた言葉なんだろう? 原題は「DROWN」... 溺れる、です。直訳して、そのままタイトルにするわけにいかないのは分かるんですけどね。(新潮クレストブックス)

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1949年6月、政府科学顧問のベン・ロックスペイサー卿と国防省科学顧問のヘンリー・ティザード卿に、コンピュータの可能性について科学者に打診するよう依頼された物理学者のC.P.スノウは、スノウの母校ケンブリッジ大学のクライスト・コレッジで非公式のディナーを開催します。招かれたのは、遺伝学者のJ.B.S.ホールデイン、量子力学でノーベル物理学賞を受賞したエルヴィン・シュレーディンガー、20世紀で最大の哲学者の1人・ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン、数学者のアラン・チューリングの4人。その晩、ディナーの席で5人の白熱の議論が繰り広げられることに。

ここに書かれているのは、架空のディナーの情景。中心的な議題は、機械は思考することができるか否かというもの。この議論の中では、あくまでも「考える機械」止まりなんですけど、実質的には「人工知能(AI)の可能性について」ですね。(まだその言葉が生まれてなかったのね)
好戦的なヴィトゲンシュタインと、内向的だけど自信に満ちたチューリングの激しい議論が中心となって、穏やかなC.P.スノウが時折議論の筋道を元に戻しながら、シュレーディンガーとホールデインが自分の専門分野からの考察を挟んで議論をさらに煽るという形式。実際にはこんな話し合いはなかったはずなのに、本当に白熱の議論が行われてるような臨場感がありました。ここに出てくる5人に関しては名前ぐらいしか知らなかったんだけど、学者たちの個性もきちんと書き分けられていて掴みやすかったし、理数系の専門知識が全然なくても、予想したより分かりやすくて面白かった。訳者あとがきに、「精神と機械の本質を浮かび上がらせ、それらに関する知見を高校生にも分かるほど平易に解説」とあるように、入門的な本なんでしょうね。果たして専門的な知識を持つ人にはどうなのかな? あとね、この議論でのヴィトゲンシュタインってちょっと凄いんですよ。ヴィトゲンシュタインについて良く知ってる人には、これはどうなんだろう? ちょっと聞いてみたいところです。 (新潮クレストブックス)

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