Catégories:“文学(翻訳)”

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黄昏時。騎士・タンホイザーはウェヌスの丘にいたる暗い通い路の下にたたずんでいました。一分の隙もない身仕舞いをしておきながら、この1日の旅行でそれが乱れてしまったのではないかと丹念に直すタンホイザー。その時、かすかな歌声がこだまのように山の上から漂ってきます。タンホイザーは携えた小さな七弦琴(リュート)をごく軽くかきならし、その歌に伴奏をつけ始めます。

ヴィクトリア朝末期の夭折の天才画家・ビアズレーの唯一の散文作品。これ、何箇所かで紹介されていたので存在は知ってたんですけど、タンホイザー伝説を題材にした作品だったんですね! それを知らなかったので、読み始めてびっくりしちゃいました。(紹介記事の一体どこを読んでたんだ、私) ワーグナーもこの伝説を元にオペラ「タンホイザー」を作りあげてますが(感想)、そちらの作品はタンホイザーがウェヌスの城から立ち去ろうと決意を固める場面から始まるんです。こちらはそれとは対照的に、タンホイザーがウェヌスの城に迎え入れられ、享楽的な生活を送り始める場面から。でも未完。
作中にはビアズリー自身による挿画も多々織り込まれていて、この世界観がすごくよく分かるものとなっていました。タンホイザーという人物は、13世紀頃の騎士であり詩人でもあった人物のはずなんですけど、まるで19世紀末のダンディなイギリス紳士みたい。ここで私が思い浮かべたのは、まずオスカー・ワイルド。そんな感じのイギリス的な優雅さを持っていて、デカダンスという言葉がぴったりな人物像です。そして、まさにそんな雰囲気の作品。ウェヌスが中心のはずなのに、異教的な匂いも全然感じられませんでしたし。
よくよく考えてみれば、19世紀末といえばとーーーっても品行方正なイメージの強いヴィクトリア朝で、ここに描かれてる自由奔放な性は、とてもじゃないけどその時期の作品とは思えないんですが... その時代にも、当然のように隠れ家的なサロンはあったんでしょうね。あらゆる道徳観念から解放されて、空中浮遊しているような印象すらあります。ものすごーくエロティックなんだけど、あくまでも優美。でもビアズレーの夭折によって、タンホイザーがウェヌスの丘に入り込んで間もなく、話は唐突に終わってしまいます。このままワーグナーのタンホイザーに雪崩れ込んでしまっても、違和感ないかもしれないなあって思って、なんだか不思議な気もしたんですが... そういえばワーグナーとビアズレーって、ほぼ同時代の人なんですよね。特に不思議はないのかな?(中公文庫)

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英雄となったシーザーの凱旋出迎えるローマの人々。アントニーが3度シーザーに捧げようとした王冠をシーザーは3度とも退けます。しかしキャシアスやブルータスは、シーザーの野望を危惧していたのです... という「ジュリアス・シーザー」。そしてシーザー亡き後のローマ。シーザー暗殺者たちを追討する軍を起こし、さらにギリシャや小アジアに進軍していたアントニーが出会ったのは、エジプトの女王・クレオパトラでした。アントニーはクレオパトラと恋に落ち、その冬をアレクサンドリアで過ごすことに。そんな時、アントニーの妻・フルヴィアと弟がオクテイヴィアスを相手に反乱を起こします... という「アントニーとクレオパトラ」。

「ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以降」(感想)の関連で読んだ本。
「ジュリアス・シーザー」は、もっとシーザー中心かと思っていたので、実は主役でも何でもないことを初めて知ってびっくり。いえ、もちろんシーザーも登場するんですけど、むしろシーザー暗殺という事件をめぐるブルータスの物語だったんですね。もしくはブルータスとアントニー。暗殺後、市民を前にブルータスとアントニーは演説をするんだけど、ここがすごい。「私はシーザーを愛していた。しかし、それ以上にローマを愛していたのだ」と言って民衆を味方につけたブルータスなんですが、自分の演説が終わってもアントニーの演説を聞くようにと市民を説得するんです。でもそれに対してアントニーは。アントニーは決してブルータスを誹謗中傷しないし、それどころかブルータスの人格を褒めちぎるんですけど... さすが弁論術の盛んだった古代ローマ。
そしてこのアントニーは「アントニーとクレオパトラ」にも登場するんですが、こちらは「ジュリアス・シーザー」とは全然違う大人の恋愛物語。「ロミオとジュリエット」のあの若い恋心とは対極にあるかのような成熟した恋愛。2人とも大人ですしね、役者ですよ。私の知り合いの男性(年上・独身)が、「なんかこう、気持ちよく騙されたいわけだ」という意味のことを口癖のように言ってたんですが、こういうことだたったんだな。(ほんと?) 若さで突っ走るわけにもいかない大人にとっては、恋愛における演技力の重要性というのは、実はとても高いのかも。ま、歴史的真実としては、おそらく、純情な男を手玉に取ったしたたかな女という構図なんでしょうけど、この描き方はとてもシェイクスピアらしい気がします。

シェイクスピアは、子供の頃読んだチャールズ・ラムのを皮切りに結構読んでるはずなんですけど、むしろ嫌いだったんですよね。その後ちゃんとしたのを読んでも、何がいいのかよく分からなくて。どこかで読んだような話ばっかだし! でもやっぱりオコサマには理解できないものだったのかも。ここ数年で読み返したり新たに読んだものの方が断然楽しいです。(新潮文庫)


+既読のシェイクスピア作品の感想+
「プークが丘の妖精パック」キプリング 「夏の夜の夢・あらし」シェイクスピア
「ジョン王」ウィリアム・シェイクスピア
「ジュリアス・シーザー」「アントニーとクレオパトラ」シェイクスピア
「ハムレット」シェイクスピア・「新ハムレット」太宰治
「マクベス」シェイクスピア
「トロイラスとクレシダ」ウィリアム・シェイクスピア

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5年前に最愛の妻を亡くした翌日にブリュージュに来て以来、ここに定住しているユーグ。妻と2人で様々な国に住みながら、いつまでも変わらない熱情でもって愛を味わっていたのに、やっと30歳を迎える頃、わずか数週間寝込んだだけで妻は亡くなってしまったのです。今も屋敷の客間には亡き妻の所持品や彼女の手が触れたもの、肖像画、今なお色褪せない妻の金色の髪などが安置されていました。家政婦のバルブが客間を掃除する時は、彼自身が必ず立ち合うほど大切にされている品々。しかしその日夕暮れが近づいて日課の散歩に出たユーグが見かけたのは、1人の若い女。そのパステルカラーの顔色、真珠母の中に暗い瞳を大きく開いた眼、そして琥珀と繭の色のしたたるような正真正銘の金色の髪は、亡き妻に生き写しだったのです。

服部まゆみさんの「時のアラベスク」を読んで以来興味を持っていたのですが、ようやくこちらも読むことができましたー! 19世紀のベルギーの詩人・ローデンバックによる、まるで詩のような味わいのある小説。陰鬱な、それでいてこの上なく美しいブリュージュの街を舞台に繰り広げられていく物語。

最愛の妻を死によって失ったユーグ。その女性を再び得ることができたと思うところから物語は始まります。でも当然、2人の女性は同じ人間じゃないですよね。ジャーヌは踊り子だし、亡くなった妻のような気品ある女性ではないんです。(ユーグはおそらく貴族か、それに準じる階級のはず) そうでなくても、死による思い出には誰も太刀打ちなんてできないもの。死んだ人間は、それ以上老いることもなく、そのまま永遠に美しく昇華され続けていくんですもん。2人は別の存在だと、ユーグ自身、徐々に気づくことにはなるのですが...。
途中、書割ということでブリュージュの風景を始めとする写真が多数挿入されています。ローデンバック自身がはしがきで「その町の風景は、たんに背景とか、少々独断的に選ばれている叙景の主題としてあるだけでなく、この書の事件そのものと結びつく」と語っています。ユーグ自身「死んだ妻には死の都が照応しなければならなかった」と考えてますし、ブリュージュの情景がユーグ自身の心象風景にもなってます。やっぱりこの作品の本当の主役は、ブリュージュの街そのものなんですね。死の影に覆われたブリュージュの街。本来なら、そこには人々の賑やかな日々の営みがあるはずなのに、実際には人々は影でしか感じられないし、ユーグ自身、この街に来た時には既に死の影に囚われてます。そんなブリュージュの街で、ジャーヌだけが浮いた存在になるのも無理もないこと。この作品の中ではジャーヌだけが正反対の「生」、モノトーンの中で1人色鮮やかな存在なんですから。でもこの街は、そんなジャーヌも自分の中に取り込もうとします。
健全な観光都市である現実のブリュージュの街側としては、この「死都」というイメージに憤激したのだそうです。美しい作品だし、ブリュージュもこの上なく美しく描かれてるんですけどね。確かに憤激するというのも、無理ないかもしれないですねー。(岩波文庫)

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「妖婦ミレディーの秘密」から20年後。ルイ13世もリシュリューも既にこの世になく、まだ若いルイ14世が王位に着き、大后アンヌ・ドートリッシュが摂政になっていました。リシュリューの後釜となったのは、アンヌ・ドートリッシュと極秘結婚をしたイタリア人のマザラン。しかし重税を課したこともあり、マザランには人望がなく、世の中はマザラン派とフロンド派に二分されることに。そしてダルタニャンは、未だにトレヴィル銃士隊の副隊長としてくすぶっていました。ダルタニャンに目をつけたマザランは、かつての仲間たちを集めるようダルタニャンに要請します。

「ダルタニャン物語」の第2部。フロンドの乱(1648-1653)のフランス、そして清教徒革命(1641-1649)のイギリスが舞台となります。第1部から20年も経ってしまっているのがびっくりなんですが、その仲間たちもそれぞれの人生を送っていて、今やまるで音信不通状態だなんて! なんてこと!! でもその仲間が20年ぶりに集まることになります。歴史的背景の説明をしなければならないこともあって、前振りはちょっと長いんですが、ダルタニャンがかつての仲間を訪ね歩く頃から俄然面白くなりました。4人それぞれに主義主張や立場は違ったとしても、一度顔を合わせてしまえば良い仲間。でもここにリシュリューがいないのが、なんだか寂しくなってしまうんですよねえ。あれだけ悪役だったのに! あれだけヤなヤツだったのに! でもやっぱり大人物でしたね。小策士なマザランとは器が違ーう。

イギリスではチャールズ1世を助けようとする4人。チャールズ1世って、もっと無能などうしようもない人かと思ってたんですけど、いい人じゃないですか。(笑)...リシュリューもマザランもそうなんですけど、こういう風に歴史上の人物が肉付けされて動き出すのがまた楽しいですね。先日ホフマンで読んだスキュデリー嬢(感想)も登場してましたよ。そういえば、ルイ14世の頃の人でした! ホフマンの作品では老嬢だったスキュデリー嬢なんですけど、この時点ではまだ若く美しい女性。既に兄の執筆を手伝って、才能を発揮し始めているようです。
でもやっぱり第1部の「三銃士」ほどではなかったかな。やっぱりあちらは大傑作でしたね。こちらも面白いんだけど「大傑作」とまではいかないです。第3部への伏線もあるからかもしれません。

上に画像を出しているのは、今も入手可能のブッキング版ですが、私が読んだのは講談社文庫版。これが、文中の注釈や登場人物表にネタバレがあってびっくり... 復刊した時に訂正されてたりするのかしら? 登場人物表なら見ずに済ますこともできるけど、文中の注釈となると、ちょーっとキツいですねえ。(講談社文庫)


+シリーズ既刊の感想+
「ダルタニャン物語」1・2 A・デュマ
「ダルタニャン物語」3~5 A・デュマ

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姪に借りた車で息子のグレアムに会いに行くフランクリン。息子が傍にいるといいアイディアが浮かぶことを懐かしく思い出すのですが、出迎えたのは見栄えのいい筋肉質の20代後半のユダヤ人青年。自分の息子がゲイで、この青年が恋人だというのは一目瞭然。29歳の息子が一度も打ち明けてくれなかったことに一瞬ショックを受けるフランクリンですが、すぐに立ち直り...という「私の伝記作家へ」他、全9編の短篇集。

不安定な精神、そして死。さらにゲイ。それらが全編通して濃く漂っています。登場人物たちがそれぞれに深い孤独を感じていて、背負っているものも重いです。1人でいても、誰か愛する人間と一緒にいても、感じる孤独は同じ。ややもすると、愛する人と一緒にいるのに感じている孤独の方が1人でいる時の孤独よりも深いものかも。ひりひりとした心の痛みと深い悲しみ、絶望。時には愛している人を傷つけていたりもするのですが、それが分かっていながらどうすることもできないやるせなさ。...それでも彼らは、作者の柔らかい視線に包み込まれている分、幸せかもしれない、なんて思ったりもします。作者の視線というフィルターを通して、彼ら1人1人が柔らかく輝いているように見えました。訳者あとがきによると、精神を病む人間やゲイが多いのは、決してそういう人々をテーマにしているのではなく、アダム・ヘイズリット自身がゲイで、父親が精神を病んでいたので、そういう人々やその家族の気持ちを理解できるからなのだそう。ヘイズリットが語っていたという、「短篇小説は、登場人物の人生のなかでいちばん大事な瞬間をとらえることができる」という言葉が印象的です。
この9編の中で私が特に好きなのは「予兆」。「私の伝記作家へ」「戦いの終わり」も良かったな。「あなたはひとりぼっちじゃない」という題名から想像した内容とはちょっと違っていたんですけど、いい方に違ってました。だからといって、題名が似合わないというわけではなく... 「あなたはひとりぼっちじゃない」と、登場人物にそう言ってあげたくなるような作品ばかりでした。(新潮クレストブックス)

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13編の「少女少年小説」+2編のアメリカの新聞漫画。柴田元幸さん編集のアンソロジー。

なんで「少年少女小説」ではなくて、「少女少年小説」なのかはよく分からなかったんですが... 今現在の「少女少年」よりも、かつて「少女少年」だった人々への小説といった方が相応しい作品群かも。って、なんだか講談社ミステリーランドの「かつて子どもだったあなたと少年少女のための」って惹句みたいですが。(笑)
いやあ、良かったです。基本的に短編集やアンソロジーが苦手な私なんですが、ここに入っている作品はどれも好き。これって私にはとってもすごいこと! もちろん短編でも好きな作品はあるし、作家さんによっては短編の方がイイ!ってこともありますが、短編集って読んでるうちにだんだん集中力が途切れてしまいがちなんですよね。それが全然なかったなんて、それだけで感動しちゃいます。(笑)

収められているのは13編。
■バリー・ユアグロー「大洋」は、大洋を発見し、夕食の席で報告する弟の話。「大洋を発見した」なんてことがごく日常的な出来事のように語られるのが楽しいんです。人間の小さな諍いと、それを嘲笑うかのように大きく広がる海の情景と。穏やかで、でも哀しい海。
■アルトゥーロ・ヴィヴァンテの「ホルボーン亭」「灯台」は、どちらも自伝的な作品。「ホルボーン亭」の少年の目に映った魅惑の世界とその微笑ましさ、「灯台」のわくわく感とその後の微苦笑が印象的です。でも具体的にはほとんど何も書かれていないんですけど、それ以上に作品の背後に深い哀しみが潜んでるのも感じられて...。
■ダニイル・ハルムスの作品は、ごくごく短いのが5つ。これがもうどれも良くて! 一度に大好きになってしまいました。特に「おとぎ話」は、最後にくすっと笑わせてくれます。うふふ。
■スティーヴン・ミルハウザー「猫と鼠」は、「トムとジェリー」を文字だけにしたような作品。これだけは、もうちょっと短くても良かったかなって思ったんですけど、この長さだからこそ、鼠の孤独感が際立って見えてくるのかも。
■マリリン・マクラフリン「修道者」は、大人になることに拒否反応を示す主人公、という辺りは正直あまり好きではないんですけど、彼女の祖母や家の庭、アイルランドの海の情景が素敵。これを読んで梨木香歩さんの「西の魔女は死んだ」を思い出す人、多いでしょうねー。
■レベッカ・ブラウン「パン」は寄宿学校を舞台にした物語。圧倒的な魅力を持つ完璧な「あなた」に魅せられている「私」の物語。ほんの一瞬の気の緩みが(でも実は小さなことが積み重なっていっているのだけど)、それまで積み重ねてきたものを崩れ落ちさせてしまうその苦さ。読みながら胸が痛くなってしまいます。さすがレベッカ・ブラウン。
■アレクサンダル・ヘモン「島」は、背景が「青い空・白い雲」という感じなだけに、ユリウス伯父さんの語る話が生々しく迫ってきて... その影が濃く感じられます。
■ウォルター・デ・ラ・メア「謎」は、デ・ラ・メアらしいとてもとても幻想的な作品。見てはいけない、と目をそらそうとすればするほど、そこに目がいってしまうものなんですよね。そして、どうなったんだろう...?

折り込みでウィンザー・マッケイの「眠りの国のリトル・ニモ」とフランク・キングの「ガソリン・アレー」というアメリカの新聞漫画も付いてて、これがまた素敵なんです。こんなのが新聞についてるなんて! そしてこのマッケイがミルハウザーの「J・フランクリン・ペインの小さな王国」(感想)の主人公のモデルになっていたとは~。なるほど~。

13編+αの中で特に気に入ったのは「大洋」「ホルボーン亭」「灯台」「パン」「謎」、そしてダニイル・ハルムスの作品。ダニイル・ハルムスと出会えたのは大収穫ですね。他の作品もぜひ読んでみたいです。(文藝春秋)

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小さな蒸気船に乗ってスコットランドの岸辺から西の群島に向かっていたフィオナ・マッコンヴィル。フィオナは群島の中の小さなロン・モル島で生まれて育ち、4年前、10歳の時に街に引っ越したのですが、街の空気が合わず、島に戻っておじいさんとおばあさんと一緒に暮らすことになっているのです。しかしそれはロン・モル島ではなく、もっと大きい島。ロン・モル島は、今では無人となり、かもめと灰色の大きなあざらしがいるだけの島となっていました。しかし無人のはずの島の小屋に明かりが灯っているのを見た人間がいる、浜から風が吹くと流木が燃えるにおいがするなど、蒸気船の船員が奇妙な話をするのを聞いたフィオナは、一家が島から出ることになった日に失った小さな弟のジェイミーのことを再び思い出します。

古くからあるケルトのセルキー伝説を取り入れた現代の物語。セルキーとはあざらし族の妖精。普段はあざらしの姿をしているのですが、時折その皮衣を脱ぎ捨てて人間の女性の姿になって、人間の男性と結婚することもあるんですね。だから羽衣伝説と同じようなパターンの話もあります。矢川澄子さんの訳者あとがきでも引き合いに出されてましたが、私も「妖精 Who's Who」は読みました。今パッとは思い出せないんだけど、他のところでも読んだはず。あ、でもこの作品を読んでる間は、どちらかというとヨナス・リーの「漁師とドラウグ」(感想)を思い出してたんですけどね。これはスコットランドではなくてノルウェーだし、本当は全然違うのだけど。(汗)

読んでいると、スコットランドの島々での人々の素朴な生活の暖かさがしみじみと伝わってきます。決して裕福な暮らしではないけれど、満ち足りた幸福な暮らし。その暮らしに欠けているものがあるとすれば、かつて行方不明になってしまったジェイミーの存在と、捨ててしまったロン・モルでの生活だけなんですね。おとぎ話では、時々際限なく望みをふくらませて全てを失う人間がいますが、この作品に登場する人々はそうではありません。島のやせた土でわずかながらも作物を作り、海で魚を獲り、困っている時はお互いに助け合う暮らしに満足してます。(フィオナのお父さんは強硬に島を出たがったそうなんですけど、奥さん亡くしてるし、それだけツラい思いがあったということなんでしょう) 日本での生活と比べれば、物質的には遥かに貧しいんでしょうけど、精神的には遥かに豊かな暮らし。木のゆりかごを海に浮かべて赤ん坊を育て、流木を焚いて海草のスープを作り... 作中でフィオナが1人で訪れた時のロン・モル島の情景は、本当に美しいですね。ヒースで紫色に染まった野、その中を緑色の道のように流れる小川、島を取り巻く真っ青な海。その直前の霧の場面が幻想的なだけに、この場面の明るい美しさが目にしみてくるようです。
基本的にとても現実的な物語の中に、かつてイアン・マッコンヴィルがロン・モルの岩礁(スケリー)から連れてきた妻、そして今も尚時折生まれる黒髪の子供、あざらしの族の長(チーフスタン)の賢く暖かい瞳といった不思議なことが少しずつあって、でもこの島の情景を背景にしてしまうと、ごく自然なことに見えてきてしまうのが不思議。そこにあるのは「信じる」ことの大切さなんですね。マッコンヴィル一族が一度は全員島を出てしまうという遠回りはありましたが、あざらしたちは一族がまた戻って来るのを信じていたんでしょうし。終盤のあの態度は、だからこそ、だと思うのです。そしてジェイミーがまだ生きて島のどこかにいると信じ続けていたフィオナ。おじいさんもおばあさんも、心の奥底ではジェイミーがまだ生きているのを信じていたはず。そんな信じる力が集まってこその大団円。種を超えた確かな心の絆が感じられるのが、とても素敵な物語です。

そしてこの本自体も、青緑色の表紙や栞の紐、鈍い緑がかった色の文字といった、細かいところにまで気を配っているのが分かる、とても素敵な本です。この青緑色がスコットランドの海の色なんですね、きっと。(集英社)

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