Catégories:“文学(翻訳)”

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小さな町のラテン語学校に通っていた10歳の頃。シンクレールが近所の少年2人とうろついているところにやって来たのは、普通の小学校に行っている13歳ぐらいの強く荒っぽい少年・フランツ・クローマー。クローマーはシンクレールたちを手下のように扱い、クローマーを恐れていたシンクレールも内心面白くないながらも、それに従うことに。そして自分の身なりやしつけの良さが彼らの反感をそそっているのを感じたシンクレールは大げさな泥棒の話を作りだして語り、それが天地店名にかけて本当のことだと誓ってしまうのです。そしてその日からシンクレールはクローマーに脅されることになるのですが...。

感想はのちほど。(新潮文庫)


+既読のヘルマン・ヘッセ作品の感想+
「メルヒェン」ヘルマン・ヘッセ
「デミアン」ヘルマン・ヘッセ

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モストアッケル通りに住むある若い未亡人に子供が生まれ、かねてから挨拶を交わしていた、隣人のビンスワンゲルさんが名づけ親となります。そして1つの願い事を言うようにと言われた未亡人は、みんながわが子を愛さずにはいられないようにということを願うのですが... という「アウグスツス」他、全9編の短篇集。

ヘッセによる創作童話集。童話とは言ってもグリムやペローのようなものではなくて、どちらかといえばトルストイのような雰囲気。でも民話を膨らませたトルストイとは違って、こちらは純然たる創作です。そして童話とは言っても子供向けではなくて、むしろ青少年から大人向けの深みのある物語ですね。どれもすごく良かった~。ヘッセは「車輪の下」を読んだことがある程度なんですが、それも全然覚えてなくて...。改めて、色々と読んでみたくなりました。

特に良かったのは、やっぱり表題作の「アウグスツス」かな。これは「愛されること」の意味を考えさせられます。若い母親は「愛されること」こそが一番の幸福と考えて、息子のためにそれを願ったわけなんですが... 「愛されること」は、確かにすごく幸せなことですよね。誰だって他人は好かれたいはず。少なくとも嫌われたいとは思ってないはず。でも「愛されること」は、確かに幸せの1つではあるものの、それは一番良いことというわけではなくて...。1人の人間が日々生活し、様々な感情や行動を積み重ねてこその「愛されること」なんですね。ただ「愛される」だけではダメ。もちろん、他の人間が同じことを願ったとしても、同じ結末を迎えるとは限らないのですが。これを読んで、設定も展開も結末も全然違うんですが、オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」を思い出しました。
あと私が好きだったのは「別な星の奇妙なたより」かなあ。これは、ユートピアとも言える美しい村が雷雨と大水と地震によって破壊され、死者のための花もなくなってしまったため、1人の若者が王様に花をもらいに行くことになるという話。この村には悲しみや憎しみ、嫉妬や殺人といった悪は存在しないので、若者もそういうのをおとぎ話で読んだことがあるだけなんです。でも王都への旅の途中に生々しい戦争を目の当たりにして...。この辺りは、やっぱり第一次大戦中に書かれたということなんだろうな。この作品もそうなんですけど、陰惨さと苦しさ、そして幻想的なまでに美しい情景が対照的な作品、主人公も絶望に打ちのめされたかと思えば歓喜に打ち震えることになって、極端から極端へ走るというのが多かったかも。ヘッセ自身も、感情の振れ幅の大きな人だったのかしら。そしてこれまた全編通して感じられるのは、母の大きな存在。ヘッセ自身、心の奥底で母親を求め続けていたんでしょうね。
訳者解説に「小つぶではあるが、最もヘッセらしい物語を集めている」とある通り、物語の1つ1つは小粒かもしれないんですが、乾いた心に沁み込んでくるような繊細で美しい物語ばかり。でもヘッセ自身は、「詩人」のハン・フォークのように、自分自身の言葉を切望して、探し求め続けていたんでしょうね。「詩人」では、言葉は最終的に音楽にとって代わられることになるんですが... ヘッセの中ではどうだったのかしら? (新潮文庫)

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レア・ド・ロンヴァル49歳。金に困らない裏社交界(ドウミ・モンド=高級娼婦の世界)の女として生きてきた彼女と、いまや25歳の美しいシェリは6年も続いている関係。しかしそのシェリが18歳のエドメと結婚することになって...。

魅力的な年上の女性と美しい青年の恋。フランスの文学には、そういう設定が多いですよね。でもその1つ1つの作品が、それぞれにまるで違う表情を見せているような気がするのは、さすがおフランスといったところでしょうか。恋愛物には年季が入ってますものね。(笑)
49歳のレアと25歳のシェリ。2人の関係は6年続いているので、始まったのはレアが43歳、シェリが19歳の時ですね。女性の43歳から49歳って、結構変化が激しいような気がするなあ...。それでもずっと一緒にいれば、その変化もごくなだらかなものなんでしょうけど、シェリが結婚してしまって、レアがシェリと距離を置くことになるのが、結果的にすごく大きかったような気がしますー。シェリの母親もレアと同じく高級娼婦だったし、娼婦相手に遊びたおしてるシェリの女性を見る目は相当肥えてて、そんなシェリの目から見れば、若く美しいながらもまだまだ子供っぽいエドメの魅力は、レアに遠く及ぶものではなかったはずなんですが...。これから年老いていくレアと、これから花開いていくエドメ。
年を重ねて尚美しいレアも、絶世の美青年ながらもまだまだ子供っぽく我儘坊やといった風情のシェリもどちらも魅力的。でも、今はまだ可愛いお人形さんみたいなエドメも、これからどんどん魅力的になっていきそうな予感。でも結局のところは、レアが自分の気持ちに負けてしまっていたんだろうなあ...。
本当は違う結末を読みたかったところなんですが、でもこの作品には生半可な同情は似合わないでしょうね。この息詰まるような結末こそが、やっぱりこの作品の一番の魅力だったような気がします。ああもう本当に、切なくて美しくて残酷なお話でしたー。やっぱりフランスだな。 (岩波文庫)

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へレスポントス海峡を挟んで向かい合うセストスとアビュドスの町。アビュドスに住む青年・レアンドロスは、セストスにある古い塔に住む、愛と美の女神・アプロディテ祭祀の美しい巫女・ヘーローと許されざる恋に落ちてしまいます。そして毎晩ヘーローが掲げる炬火の明かりを頼りに海峡を泳いで渡り、忍び逢うのですが、ある冬の嵐の晩、炬火の火は風に吹き消され、方向を見失ったレアンドロスも力尽きて溺れてしまうのです。そして翌朝、浜辺に打ち上げられたレアンドロスの亡骸を見たヘーローは塔から身を躍らせて自殺... というギリシャ神話の物語を元にした作品。

感想はのちほど。(東京創元社)

+既読のミロラド・パヴィチ作品の感想+
「帝都最後の恋 占いのための手引き書」ミロラド・パヴィッチ
「風の裏側 ヘーローとレアンドロスの物語」ミロラド・パヴィチ

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実在しない書物の書評を書くという試みは、例えばホルヘ・ルイス・ボルヘスの「伝奇集」初秋の「ハーバート・クウェインの作品の検討」にも見られるもの。そのアイディア自体はラブレー、そしてそれ以前の昔にまで遡ります。しかし「完全な真空」が一風変わっているのは、そういった書評集だけを集めたアンソロジーを目指している点なのです... という、架空の本に対する書評を集めた本。

スタニスワフ・レムの作品を読むのは初めて。SFは苦手だし、あまり読む機会はないかなと思ってたんですが、ボルヘスの「伝奇集」(感想)を読んだ時に、これが楽しめたらぜひレムを、とオススメいただいたので読んでみました。いや、難しかった。古典文学からSFまでなんて幅広い! どんな知性の持ち主なんでしょう、レムという人は。これは私には全部は理解しきれないよ... 知力はもちろん、そこまでの読解力もまだ身についてないです。でも面白かった!
ええと、真空というのは、物質が何も存在しないという状態。なので「完全な真空」というのは、まったくの空っぽということですね。確かに存在してない本に関する書評を書くというのは砂上の楼閣のようなものだし、「完全な真空」と言えるのかも。でもこれのどこが「からっぽ」? いや、確かに「からっぽ」なんだけど。(笑)

まず面白いのは、この「完全な真空」という本そのものも、レム自身によって書評が書かれているということ。これがちょうど序文のように読めるんですけど、こういう構造(こういうのをメタって言うんですかね?)がものすごくソソるんですよねえ。そして他の書評が15冊分。その中には架空のノーベル賞授賞式での演説原稿なんかも混ざってるので、全部が全部書評というわけじゃないんですが。
私が一番好きだったのは「ギガメシュ」。これは、パトリック・ハナハンという作家が、同郷人であるジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」や「フィネガンズ・ウェイク」に対抗するかのように書いたという作品... 「オデュッセイア」は結局のところ古代バビロニアの叙事詩「ギルガメシュ」の剽窃に過ぎないと主張するハナハンは、自分なりの「ギルガメシュ」を「ギガメシュ」として書いたというんですね。ここで説明されているのは、なぜ「ギルガメシュ(GILGAMESH)」から「L」の文字を落として「ギガメシュ(GIGAMESH)」という題名とされたのか(「L」は「Lucipherus」「Lucifer」を表す... 存在はしているのだけれど目には見えない)ということに始まって、言葉遊びのオンパレード。でも単なる言葉遊びと侮るなかれ。これがもう、どこまで広がりを見せるのかと思っちゃうようなもので、すんごいツボです。「ユリシーズ」や「フィネガンズ・ウェイク」というのも、こういう作品なのかな? もしかしたら、私、好きかも? いや、もちろん、読むのは大変でしょうけど。以前から気になってたんだけど、ますます読みたくなってきたーー!
何も無いことを書き続ける「とどのつまりは何も無し」も面白いし(この「完全な真空」とちょっと似た存在ですね)、世界の古典文学をばらばらに解体して読者が好きなように再構成できる「あなたにも本が作れます」も~。コウスカ教授が自分のの出生の確率を太古の昔にまでさかのぼる「生の不可能性について/予知の不可能性について」のしつこさも楽しいです。でも、ここに書かれた書評の元になった本を実際に読んでみたいと思わなかったのは、なぜなんだろう? それはほめ言葉となるのでしょうか。それとも? このまま書かれたら、さぞすごい作品になっただろうな、というのもあるのに。(実際、書きあげるだけの能力はないが、書かないでおくのはもったいないアイディアもある、とのことでした)

いやいや、レムというのは、ものすごい人だったようですね。ボルヘスもそうだったけど、自分と同じ「人間」とはちょっと思えない... 怪物? アイディアの奔流が怒涛のように流れ出してくる人だったんでしょうね。こういう人の頭の中を覗いてみたい。「知性」が目に見えるように蠢いていそうです。今度読む時は、架空の作品への序文集だという「虚数」にしてみようと思うんですが、その前に自分の読書力をもっと鍛える必要アリ。いや、いつまで頑張っても、このレベルまでは鍛えられないかもしれないな。(国書刊行会)

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ギリシャ軍によるトロイ城包囲が7年過ぎた頃。アガメムノンやユリシーズたちは、ギリシャ軍の華・アキリーズを戦場に駆り立てようとしていました。しかし自分の力や名声に酔いしれ、すっかり高慢になっていたアキリーズは、毎日パトロクラス相手にふざけたり、アガメムノンらを嘲るばかり。なかなか戦争に参加しようとしないのです。そんな時、トロイ軍の将軍・イーニーアスがギリシャの軍営を訪れます。それはプライアム王の息子であり、トロイ軍の大将であるヘクターからの一騎打ちの申し出。ユリシーズの提案でヘクターの相手に決まったのは、エージャックス。そしてその頃、パリスの弟のトロイラスは、クレシダに一途に恋をしており、クレシダの叔父であるパンダラスに仲を取り持ってくれるよう頼んでいました。

ギリシャ・ローマ時代の神話や出来事を題材に取ったような後世の作品で何が困るって、人名が違ってしまうこと。先日ラシーヌの戯曲を読んだ時も、「フェードル」がパイドラのことで、「アンドロマック」がアンドロマケーのことで、なんてところで苦労したんですが、こちらもそうでした。トロイラスやクレシダ、アガメムノンはまあいいとして、ユリシーズはオデュッセウス、アキリーズはアキレウス、エージャックスは大アイアース。プライアム王はプリアモス王、ヘクターはヘクトル、イーニーアスはアイネイアースのことなんです。確かにシェイクスピアは英語で書いてるから、私が馴染んでいるギリシャ語読みとは違っていても仕方ないんですが...。英語読みだと軽いですね。なんだか調子出ないなー。(笑)
でも、シェイクスピアの戯曲の中ではかなり評価が低い作品のようなんですけど、人名がきちんと飲みこめてしまえば、これが結構面白く読めました。まず可笑しかったのは、ヘクターと戦うことが決まったエージャックスを、ユリシーズやアガメムノン、ネスターやダイアミディーズがおだてつつ、実は虚仮にしているところ。そしてギリシャ陣営にやって来たクレシダをギリシャの将軍らが歓迎しているところ。これはどっちも日本語で読んでも笑えるような訳になってるんです。読みながら思わずくすくす笑いが漏れてしまったほど。訳者の小田島雄志さん、スゴイ!

この作品では「トロイの城壁が七年にわたる包囲にも屈せず」とあるんですが、アキリーズがアガメムノンに対して怒っているので、おそらくホメロスの「イーリアス」と同時期の話なんでしょうね。(「イーリアス」はトロイ戦争の10年目) この「トロイラスとクレシダ」はタイトル通り、トロイの王子・トロイラスと、トロイの神官でありながらギリシャに寝返った神官カルカスの娘・クレシダという2人の悲恋物語ではあるんですが、それと平行して進んでいくのはトロイ戦争の顛末。というか、むしろ戦争の方が比重としては重いかもしれません。戦う気をまるで失っているアキリーズを、それと悟らせないように遠回し遠回しに戦場に引っ張り出すユリシーズの知略の物語。戦争ばかりだと観てる人が飽きてしまうだろうからと、ちょっと恋物語を入れて潤わせてみましたーという感じ?
人物の造形は、ホメロスの「イーリアス」とは、結構違ってました。一番目についたのは、ユリシーズに対するアキリーズの態度。「イーリアス」では、アキリーズはアガメムノンに対しては敵意を燃やしながらも、ユリシーズに対して敬愛の情を示してたんですよね。アガメムノンが折れて出た時も、ユリシーズが仲介役となったほど。でもこっちの作品でのアキリーズは、親友のパトロクラス以外の人間は全て見下してるんです。ユリシーズのことも。しかもアキリーズがヘクターを討ち取る場面が! これはないだろうという卑怯なやり口なんです。それまでのギリシャ陣営とヘクターの正々堂々としたやり取りからすると考えられなーい!

でも、やっぱり評判があまり高くないだけあって、ちょっと不思議な作品でもありました。それは、唐突に終わってしまうこと。ここで終わる? これから後はどうするの? もう呆気にとられてしまうような幕切れ。これは一体何だったんだーー。この作品は、シェイクスピアの作品の中でも「問題劇」という扱いをされてるそうなんですが、それも納得。現代の小説でも、ここまで読者に丸投げの作品はあんまりないんじゃないかしら。それに一応悲劇に分類される作品のようなんですが、とてもじゃないけど悲劇とは思えません。確かに愛は破局を迎えるんですけど、それでもこれって喜劇なんじゃ...?

シェイクスピアの作品に先んじて、チョーサーも同じ題名の作品を書いてるんですよね。日本では「トロイルス」という題名で訳されているようです。こちらではクレシダの造形がかなり違うようなので、そちらもぜひ読んでみたいなあ。そして「イーリアス」と並んでトロイ戦争についての筋の主な材源となっているという、ジョン・リドゲイド「トロイの書」、ウィリアム・キャクストンの「トロイ史集成」、チャップマン「イリアッド」も読んでみたいです... が、この3つは、どうやら日本語には訳されてないみたい... 残念。(白水uブックス)


+既読のシェイクスピア作品の感想+
「プークが丘の妖精パック」キプリング 「夏の夜の夢・あらし」シェイクスピア
「ジョン王」ウィリアム・シェイクスピア
「ジュリアス・シーザー」「アントニーとクレオパトラ」シェイクスピア
「ハムレット」シェイクスピア・「新ハムレット」太宰治
「マクベス」シェイクスピア
「トロイラスとクレシダ」シェイクスピア

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フランス軍が敗北し、プロシャ軍がルアン市に入場。プロシャ軍は厳しい軍規によってこの町を支配するものの、噂になっていたような残虐行為をここでは一切せず、ルアン市民も徐々に平生の姿を取り戻します。ドイツ軍将校のつてを利用して司令官から出発許可証をもらい、10人が大きな乗合馬車で一緒にディエップに向けて出発することに。ブドウ酒問屋を営むロワゾー夫妻、上流階級に属する大物のカレ=ラマドン氏夫妻、ユベール・ド・ブレヴィル伯爵夫妻、修道女2人、共和主義者のコルニュデ、そして太った娼婦... その体つきからブール・ド・シュイフ(脂肪のかたまり)と呼ばれている女性でした。

乗合馬車に乗り合わせた10人の作りだす1つの世界。他にも登場する人間はいますが、中心となるのはあくまでもこの10人だけ。しかしここには、1つの完全な世界が作り出されています。
一言で言ってしまえば、とても嫌な話。そしてとても身につまされる話。でも人間の本当に醜い部分を、こんな風に描きだしてしまうのは、やっぱり凄いなあと思いますね。もしここに自分がいたら、どうなんでしょう。そう思わずにはいられません。心の奥ではダメだと分かっていても、やっぱり安易な方へと流れていってしまうのではないかしら...。誰が入れ替わっても、これ以外の結末というのはあり得ないんじゃないか、そう思えてしまうような、ものすごく底力のある作品。
社会的弱者であり、お上品な人たちに蔑まれる娼婦。でも他人のことを思いやり、我慢するということを知っているのは、みなに蔑すまれる「脂肪のかたまり」だけなんですね。どれほど立派な服装をしていても、教養があったとしても、顔立ちが美しかったとしても、それは単なる外側の飾り物。同じ人間をこんな風に踏みつけにしていいはずがないんだけど... でもこの面々は、目的地に着いて解散した途端、娼婦のことなんて忘れてしまって、きっともう一生思い出さないんだろうな。もしこの物語がキリスト教的寓話なら、最終的に天国の門で聖ペテロにどう扱われるかまで描かれるところですが、そうじゃないですしね。これは現実に起こりうること。他の人々のために自分を殺すことを知っている娼婦だけど、彼女が最終的に救われるとは限らないわけです。だからこそ人生の縮図を感じさせるし、娼婦の思いが一層響いてくるんでしょう。

...それでも俗人どもはまだ仕方ないかも。でもね、この修道女って...!(岩波文庫)

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ローマ帝国の五賢帝の1人、皇帝ハドリアヌスももう60歳。死病に侵されるハドリアヌスがマルクス・アウレリウスに宛てた手紙。そしてそこで語る自らの生涯。

フランスではこの作品の影響で、ハドリアヌス帝が一番人気がある皇帝となったのだそうです。それもなるほどと納得させられてしまうような、無駄がそぎ落とされた美しい文章で構築されていく、静謐で高貴な世界でした。狩とギリシャ文化を愛したハドリアヌス。ヒスパニアに生まれ、ローマで教育を受け、青年時代に軍隊生活が始まり... ハドリアヌスにとっては聡明な守護神だったトライアヌスの妻・プロティナの存在。即位。粛清事件。そして帝国内を視察する旅から旅の生活。塩野七生さんの「ローマ人の物語 賢帝の世紀」(感想)に登場するハドリアヌスとは、ほんの少し印象が違う、でもどちらにも共通しているのは、間違いなく賢帝だったということ。何といっても皇帝在位中の業績が素晴らしいですしね。常に皇帝としての義務を果たしつつ、トライアヌスが拡大した帝国内をくまなく巡察し、既存の公共施設を修理、国境の防衛線を強化、地域ごとの問題を解決してローマ帝国の平和を維持していった人なんですから。

それでも、ユルスナールの作り上げた格調高い世界、そして塩野七生さんが繰り返し書く、現代人にとって理想像のように見えるローマ人の世界を読みながらも、本当にそうだったのかな?という思いもよぎってしまうのを止められない私。というのは、以前読んだペトロニウスの「サテュリコン」(感想)のせいですね。これがもう、ローマ文化の爛熟ぶりが良く分かるというか何というか、もう本当に辟易してしまうほどの退廃ぶりを描いた作品だったので...。
ペトロニウスというのは、ネロ帝時代の文人。ネロ帝の側近だった人なんですね。だから日々ネロ帝の華やかな生活の恩恵を受けていたでしょうし、そういう特殊な部分を描いた作品なのかもしれないんですが... でもローマ人の生活の乱れぶりについては、先日読んだタキトゥスの「ゲルマニア」(感想)にも、ちらりちらりと出てきたんです。この作品は、ゲルマニア地方の風土や、そこに住む様々なゲルマニア系民族の慣習・性質・社会制度・伝承などをローマ人に紹介するもの。なのでローマ人に関してはほとんど書かれていないんですが、品行方正なゲルマン人の暮らしぶりに対して、ローマ人の乱れ切った生活ぶりを嘆くような部分があるんです。このままではいつかゲルマン人にやっつけられてしまうだろう、という不安と。ネロ帝の時代は紀元37年から68年まで。ハドリアヌス帝は117年から138年まで。実際それほど離れているわけではないので、世の中だってそう大きく変わらないはず。タキトゥスの「ゲルマニア」が、その中間の98年に書かれたとされているんだから尚更。

でも... そんなことは既に関係ないんでしょうね。実際のローマ帝国がどうであったにせよ、そんなことは大した問題ではないんでしょう。確かにハドリアヌスだって若い頃から女性関係は結構盛んだったようだし、アンティノウスという美少年を寵愛したりしてるんだけど、それも含めて、ここに描かれているのは、あまりにも美しい世界。もうひれ伏すしかないほどの。ここに描かれたハドリアヌスは確かに生きているし、ユルスナールが描き上げたかったのは、ハドリアヌス帝の姿を借りたこの人物なのだと思えてきます。
ユルスナールは、この作品の構想を20歳から25歳の間に盛ったにも関わらず、実際に今ある状態の作品として書くまでには長い年月を経なければならなかったんだそうです。ああ、分かる気がする...。ユルスナールですら、この物語を書きあげるには、ある程度の年齢を重ねることが必要だったんですね。(白水社)


+既読のマルグリット・ユルスナール作品の感想+
「東方綺譚」マルグリット・ユルスナール
「ハドリアヌス帝の回想」マルグリット・ユルスナール

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「私」の恋人が逆進化。ある日まで彼は「私」の恋人だったのに、次の日は猿になり、それから1ヶ月たった今では、海亀なのです... という「思い出す人」他、全16編の短編集。

読み始めてまずびっくりしたのが、そのシュールさ。だって、恋人がある日突然猿になってしまって、それからヒヒになったりいろいろして、今は海亀なんですよ! しかもそんなことを、語り手の彼女が淡々と語り続けるんです。怒りも困惑も悲しみもなくて、ましてや狂気のかけらもなくて、ただ事実を事実として認めて、見守りつつ語るだけ。彼女は、覚えておくことこそが自分の仕事だと感じてるんですね。元々、少女の頃に既に特定の願いごとがもたらす結果を学んでしまったからと、星にはただ「善いこと」だけを願っていたような女性ではあるんですが... それでも、ね。普通ならパニックを起こしたり、元に戻れるよう神頼みになったり、もしくはすっかり諦めてしまって、その「元恋人」を捨ててしまったり... あと他にどんな選択肢があるのか今ぱっと思い浮かびませんが、彼女のように、ただ淡々と「見守り続ける」というのは、あまりないような。でも、彼女は当然のようにそうしてる。そして、そんな一種独特の雰囲気が、この作品だけでなくて、全ての作品に共通しているんです。何が起きても動じない神経の太さというのではなくて、とてもとても繊細なのに、何が起きてもただ受け止める度量を持つ人々の姿が描かれています。そこには無理な明るさも過剰な暗さもななくて。シュールでありながら、そこからあと1歩を踏み出してしまわない絶妙さ。そしてその絶妙なセンスがものすごく美しいのです。

訳者あとがきによると、エイミー・ベンダーはイタロ・カルヴィーノ、オスカー・ワイルド、ジェイムズ・ボールドウィン辺りの作品が好きなんだとか。キャリル・チャーチルの戯曲「クラウド・ナイン」、オリヴァー・サックスのエッセイ、ガブリエル・ガルシア=マルケスの「百年の孤独」が大好きで、その後村上春樹の奇妙な宇宙に入り浸ることになったんですって。ああ、分かる気がする! という私は、ジェイムズ・ボールドウィンもキャリル・チャーチルもオリヴァー・サックスも読んだことないんですが(汗)、カルヴィーノとワイルド、そして「百年の孤独」に村上春樹と聞けば、なるほど納得です。特にカルヴィーノが好きな方は、一度試してみる価値があるかと~♪ (角川文庫)

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ヴァレーゼに住むビアンキさんは薬のセールスマン。7日間のうち6日間はイタリアじゅうを西から東へ、南から北へ、そして中部へと旅してまわっています。そんなビアンキさんに幼い娘が頼んだのは、毎晩1つずつお話をしてほしいということ。女の子はお話を聞かないことには眠れないのです。そしてビアンキさんは約束通り、毎晩9時になるとどこにいようが家に電話をかけて、娘に1つお話を聞かせることに。

ロダーリによるショートショート全56編。電話で娘に語る小さな物語という設定通り、どれも小さなお話なんですが、これが本当に楽しくて! だって空からコンフェッティは降ってくるし、回転木馬は宇宙に飛んでいくし、鼻は逃げていくし...! ロダーリの頭の中ってどうなってるんだろう。次から次へとアイディアが湧き出してくるのかな~。時にはオチがなくても、全くのナンセンスでも、ロダーリの手にかかると楽しく読めてしまうのが不思議なほど。どれも奇想天外だし、読者の気を逸らさないどころか、全く飽きさせないはず。さすがロダーリ。
私が特に好きだったのは、散歩をしながら体をどんどん落してしまう「うっかり坊やの散歩」や、一見何の変哲もない回転木馬の話「チェゼナティコの回転木馬」、数字の9が計算をしている子供に文句を言う「9を下ろして」、春分の日に起きた出来事「トロリーバス75番」辺り。でも読後に本をパラパラめくってると、やっぱりどれも捨てがたいー。この本は手元に置いておきたいな。ちょっと疲れた時なんかに、1つずつ読むのもいいかもです。^^(講談社)


+既読のジャンニ・ロダーリ作品の感想+
「猫とともに去りぬ」ロダーリ
「チポリーノの冒険」ジャンニ・ロダーリ
「うそつき国のジェルソミーノ」ジャンニ・ロダーリ
「パパの電話を待ちながら」ジャンニ・ロダーリ

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日本に帰化し、「小泉八雲」と名乗るほどに日本を愛していたラフカディオ・ハーン。彼が日本各地に伝わる伝説、幽霊話などを再話した、有名な「耳なし芳一のはなし」を始めとする17編の「怪談」と、「蝶」「蚊」「蟻」にまつわる3編のエッセイ「虫の研究」。

ラフカディオ・ハーンは、アイルランド人の父とギリシャ人の母の間に生まれて、アイルランド、フランス、イギリスで教育を受けた後にアメリカに渡ってジャーナリストになり、さらに紀行文を書くために来日したという人物。日本では高校や大学の英語教師をつとめ、小泉節子と結婚し、その後帰化。イザベラ・バードやアーネスト・フェノロサらと並ぶ日本紹介者として有名ですね。そのラフカディオ・ハーンが、妻である節子から聞いた怪談話をきっかけに、日本古来の文献や民間伝承に取材して創作したという短篇集です。原文は英語で書かれていて、これはそれを日本語に翻訳したもの。

「耳なし芳一」や「雪女」といった話は、もう本当に有名ですよね。最早ラフカディオ・ハーンの手を離れてるのではないかと思うほど、一般に浸透した昔話となっていますが、その他の話もよく知られているものが多いです。でも知っている物語でも、改めて読むと思っていたのとはまたちょっと違っていてびっくり。例えば「耳なし芳一」は、主人公の芳一は目が見えないので、基本的に視覚的な描写というのがないはずなんですが、これがものすごく映像的なんです。特に芳一が甲冑に身を固めた武者に連れられて「さるやんごとないお方」を訪れる場面。芳一の耳に聞こえてくる音からでも、情景が立ち上ってくるみたい。「雪女」も、子供用の絵本からはちょっと味わえない、しみじみとした哀切感と夢幻的な雰囲気があって素敵だったし...。可笑しかったのは「鏡と鐘」。「ちょっと言いかねる。」で終わってしまうところが絶妙なんですよね~。(これだけじゃあ意味が分からないと思うので、ぜひ読んでみて下さい♪) しみじみとした美しさのある「青柳ものがたり」もとても好きな作品。今回改めて読んでみて、純粋に物語としての面白さが楽しめたのはもちろんのこと、その端々から江戸~明治時代の時代背景を伺い知ることができたのも楽しかったです。そしてラフカディオ・ハーンの再話能力のすばらしさも。この「怪談」の日本的な部分があくまでも日本らしく描かれているのは、ラフカディオ・ハーンはキリスト教に対してそれほどの信頼を置いていなかったというのが大きく関係しているような気もするのですが... どうでしょう。
そして意外な収穫だったのが「虫の研究」。これは虫にまつわる3編のエッセイなんですが、ここでは生まれながらの日本人ではないラフカディオ・ハーンの視点から語られることが、単なる虫に関する意見だけでなく、文化論・文学論にも発展するようなものだけにとても興味深かったです。蟻社会を人間社会に重ね合わせた「蟻」も哲学的だし、どこか近未来小説みたいで(というのは私が「一九八四年」を読んだところだから?)面白かったです。(岩波文庫)

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世界がオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つの超大国に分裂した近未来の社会。真理省の記録局に勤める党員・ウィンストン・スミスの仕事は、<ビッグ・ブラザー>率いる党の方針転換や様々な出来事によって、次々に変更を余儀なくされる歴史を改竄し続けること。歴史は次から次へと改竄され、しかし改竄された証拠は何ひとつとして残らず、全ての嘘は歴史へと移行したとたんに永遠の昔からの真実とされてしまうのです。そんな体制に、ウィンストン自身、強い不満を抱いていました。そんなある日、ウィンストンに接触してきたのは黒髪の若い美女・ジュリア。ウィンストンはジュリアと恋に落ち、テレスクリーンによる監視や思想警察の目をかいくぐってジュリアと逢い引きを重ね、やがては伝説的な裏切り者が組織したという<ブラザー同盟>に加わることになるのですが...。

ええと、普通は村上春樹さんの「1Q84」からこちらにくる方が多いと思うし、そもそもこの本がハヤカワから新訳で出たのもその流れなんでしょうけど、私はこっちだけ。以前ブラッドベリの「華氏451度」(感想)を読んだ時に、この作品もシャレにならないぐらい怖いという話を聞いて興味を持っていたのでした。しかも現在読破中のハヤカワepi文庫だし!(嬉) その「華氏451度」は1953年に書かれた作品ですが、こちらは1949年に書かれた作品。こちらの方がほんの少し早いですね。典型的なディストピア小説です。
こういう作品を読むといつも思うんですけど... 発表された当時も世論を騒がせたんでしょうけど、実際に書かれた時よりも現代の管理社会の中で読んでこそ、この怖さが実感できるかもしれませんね。近未来として書かれていたことが、実は全然未来の話じゃないってことに気がつかされることが多いんですもん。恐ろしいほどの合致。本を読んだ人が、そこに書かれているものを作り出そうとしたわけでもないでしょうに。たとえば星新一さんの「声の網」(感想)を読んだ時も思ったんですけど、素晴らしいSF作家が書く作品って、未来を恐ろしいほど見通してますね。

この作品は、その「声の網」や「華氏451度」ほど、まさに「今」という感じではなかったのだけど... 実はそうでもないのかな。もう既に「ニュースピーク」とか「二重思考」が生活の中に入り込んでいるのかな。こういう思考的なものって、気がついたらすっかり支配されてるんだろうなと思うと怖いです。ちなみに「ニュースピーク」は、言葉をどんどん単純化・簡素化する新語法。それによって思考をどんどん単純化して、思想犯罪に走れないようにするもの。反政府的な思想を持っても、それを十分に書き表すことができなくなってしまうというわけです。そして「二重思考」は、「戦争は平和なり、自由は隷属なり、無知は力なり」という言葉に代表されるように、矛盾する2つの事柄を同時に等しく信じて受け入れることができるようになること。そもそも歴史を改竄し続ける「真理省」、戦争を生み出し続ける「平和省」、思想犯を拷問にかけて人間性を矯正する「愛情省」という各省の名称自体が二重思考の産物。そして考えてみると、確かにピンチョンが解説に書いているように、現代アメリカの「国防省」もまた、新たな戦争を作り出す省なんですよねえ。ああ、ウィンストンとジュリアの物語自体もまた、そうなのかも。まずこういった高度に思想的な物語の中にロマンスが存在すること自体、二重思考なのかもなんて思ったりもします...。そして「愛すること」の反対は、「無関心なこと」でしょうか。うーん。
来るべき社会の姿を含め、様々なことを考えさせられる作品です。(ハヤカワepi文庫)

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弁護士のアタスン氏と遠縁のリチャード・エンフィールド氏が恒例の日曜日の散歩をしている時に出たのは、ロンドンの繁華街の裏通りにあるドアの話。それはエンフィールド氏が初めてハイド氏を見かけた場所。早足で歩いていたハイド氏は、懸命に走っていた少女と正面衝突し、倒れた少女の身体を平然と踏みつけたのです。悲鳴をあげている彼女をその場に置き去りして歩み去るハイド氏に、エンフィールド氏は思わずの小男の襟首をつかんで現場に引き立てることに。そして少女の家族とやがて現れた医者と共にハイド氏を非難するのですが...。このハイド氏は、相手に嫌悪感を抱かずにはいさせないタイプの小男でした。

作品を読んだことのない人でも、「ジキルとハイド」といえば知ってますよね。既に有名になりすぎていて、改めて読む気がしないという人も結構いそうです。結構スリリングなサスペンスですごく面白いので、ネタがあまりに有名になってしまってるのが勿体ないなーと思うのですが... ネタを全然知らずに読めば、どきどきワクワクしながら読めるはず。でも有名な作品になってしまうと、ネタばれなしに読むのってほんと難しいですね。という私は、ふと読みたくなって、久しぶりの再読です。中学か高校の時に読んで以来。まあ、その時もネタを知りつつ面白く読んだのですが、今回はさらに面白く読めました。
でも今回ちょっと意外だったのが、というか、すっかり忘れていたのが、ジキルとハイドの分かれ具合。なんとなくカルヴィーノの「まっぷたつの子爵」(感想)のような感じに思ってたんですけど、そうじゃなくて! ジキル博士は確かにいい人なんですけど、それでも若い頃には結構放埓な生活を送っていたという人。ハイド氏が登場した後も、その性格は基本的にまるで変わっていないようです。そもそも、最初に登場する時に「きれいに顔をそった五十歳の博士は、多少狡そうなところもあるが、知性と善意にあふれている」とあるんですね。ここの「多少狡そうなところもあるが」というのが気になるーーー。だってこの時点では既に、なんですもん。ハイド氏のおかげで、悪の部分が抜けきったわけじゃなかったんだ! となれば、そりゃハイド氏の方が純度が高い分(?)強いでしょう。ジキル博士は、世間一般が好人物だと考えている、普通の人間のままなんですもん。
そうか、そうだったのか。この辺り、色々と突っ込んで考えていくと面白そうです。スティーヴンスンは、その辺りのことはどう考えてたのかしら。あまり深く考えていなかったのか、それとも考えつくした結果がこの作品なのか。こういうのって卒論のテーマにもいいかもしれないですね?って卒論を書く予定なんて、実際には全然ないんですけど。(笑)(岩波文庫)


+既読のスティーヴンスン作品の感想+
「新アラビア夜話」スティーヴンスン
「ジーキル博士とハイド氏」スティーヴンスン

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現代、古代のゲルマニアのことについて知ることができる文献といえば、まずユリウス・カエサルの「ガリア戦記」、そしてタキトゥスの「ゲルマーニア」。これは帝政期ローマの歴史家であったタキトゥスによる「ゲルマーニア」です。西暦100年前後に書かれた作品。ゲルマニア地方の風土や、そこに住む様々なゲルマニア系民族の慣習・性質・社会制度・伝承などについて書かれているもの。

いやあ、面白かった! 塩野七生さんの「ローマ人の物語」を読み進めているので、大体の流れがつかめてるというのが大きいと思うんですけど、ほんと楽しめました。岩波文庫の古典物は基本的に注釈が多いし、これもほんとに注釈のテンコ盛り。時には、注釈ページが章そのものの何倍もの長さの時もあるんですけど! 1章ずつがすごく短くて、その章ごとに注釈が入ってるので、1章読んで続けて注釈を読むと、まるでその章の解題みたいに読めたのも良かったです。
第1部は「ゲルマーニアの土地・習俗」、第2部は「ゲルマーニアの諸族」と分かれていて、「ゲルマーニアの境域」「ゲルマーニアの太古」「ゲルマーニアにおけるヘルクレースとウリクセース」「ゲルマーニーの体質」...などの章が、全部で46章。タキトゥスは実際にゲルマニアを訪れたことがなくて、ここに書かれていることは他者からの伝聞が主らしいし... だから信憑性も疑われていて、実際、ゲルマン民族といいながらケルト民族の話も混ざってたりするんですが、それでもタキトゥスの態度はとてもリベラルだと思うし、何より読み物として面白いから許しちゃう。(許すって)

面白かったのは、ゲルマン民族の金髪碧眼、そして立派な体躯をローマ人(タキトゥスも含めて)が羨んでいたようだということ。そうか、やっぱりそういうのって羨ましいものなんですねー。金髪のカツラなんかもあったみたいですよ! 他民族との婚姻がほとんどなくて、その特徴は純血主義的に保存されていたようです。(それが後の民族主義に繋がるのか、なんて思っちゃうけど) 当時既に爛熟していたローマ人社会とは対照的に、ゲルマン民族は全般的に品行方正な暮らしを営んでいて、不義密通なんかもほとんどなかったようです。破廉恥罪(!)を犯した人物は、頭から簀をかぶせられて泥沼に埋め込まれることに。処罰の執行を見せしめにするべき「犯行」と、隠蔽されるべき「恥行」が区別されてるところも面白いなあ。姦通した女性は、夫によって髪を切られて裸にされて、家を追い出され、鞭を持った夫に村中追い掛け回されたんだとか...。夫を失った女性が再婚ということも、まずなかったようです。でもゲルマン民族といえば、ドイツ人のあの勤勉なイメージが思い浮かぶんですけど、この頃はまだ全然みたい。ゲルマン人の1日は日没に始まって翌日の日没に終り(宴会がメインなのか)、成人男性が好きなのは狩、そして戦争。何もない時はひたすら惰眠をむさぼる生活。朝起きればまず沐浴して食事。ビールやワインを好み、タキトゥスも「彼等は渇き(飲酒)に対して節制がない。もしそれ、彼等の欲するだけを給することによって、その酒癖をほしいままにせしめるなら、彼等は武器によるより、はるかに容易に、その悪癖によって征服されるであろう」(P.108)なんて書いているほど。

巫女のウェレダのエピソードは、密偵ファルコシリーズにも登場してたので懐かしかったし、ゲルマン神話のヴォーダン(北欧神話のオーディン)が、風の神であり、飛業、疾行の神であり、死霊の軍を率いる神だからと、ローマ神話ではそれほど地位の高くない印象のメルクリウス(ギリシャ神話のヘルメス)になぞらえられているのも可笑しいし。(ヘルメスって一応十二神に入るけど、下っ端の使いっ走りのイメージなんだもん ←私は好きなんですけどね) それにオデュッセウスがその漂泊の間に北海やバルト海の方まで流されて、ゲルマーニアの土地を踏んだことがあるんだとか...。オデュッセウス自身の手によって神にささげられた神壇や、ギリシャ文字を彫りこんだ記念碑まで残っているとは、びっくりびっくり。タキトゥス自身は、「わたくしには、こういう事柄を、一々証拠をあげて立証るす気もなければ、敢えてまたこれを否認する心もない。要は人々、各々その性に従い、あるいは信を措き、あるいは措かなければよいのであろう」(P.36~37)と書いてるんですけどね。(この人のこういう態度が好きなんです)
それにしても感じるのは、ローマ人はゲルマン民族にいずれやられるだろうとタキトゥスが強い危惧を抱いていること。悲観的と言ってしまえばそれまでだけど、爛熟・腐敗したローマに対して、素朴な力強さのあるゲルマーニアを認め、賛美しているように感じられる時もありました。ゲルマン民族はタキトゥスにとって「高貴な野蛮人」だったんですね。 (岩波文庫)

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ある日、何か変わったことをやってみたい、新奇なものに接したい、大洋の果てにどんな人種がいるか調べてみたいという考えをおこした「私」は、50人の若者や最上等の舵取りを集め、食料や水、武器を揃え、「ヘラクレス」の柱を出発します... という「本当の話」他、全10編の短編集。

80編以上あるというルキアノスの短編のうち10編を収めた短編集。
この中でまず面白いのは、やっぱりまず表題作の「本当の話」! これはルキアノス本領発揮の対話式ではなくて、一人称の叙述で書かれている旅行記なんですが、もうほんとスバラシイー。元々は、この頃よく書かれてた突拍子もない旅行譚の上をいくパロディを書こうという意図のもとに書かれた作品なのだそうで... いやあ、ここからしてルキアノスらしいわ! この題名「本当の話」というのは、「この中には本当のことは何一つない」という文章を受けての「本当の話」ということなんです。ふふふ。
まるで「アルゴナウティカ」(感想)みたいに若者50人を連れて出立したルキアノス。「ヘラクレス及びデュオニュッソス神到来の地点」では、ぶどう酒の川や岩の上の巨大な足跡を見つけたり(ぶどう酒の川にいる魚の内臓には酒粕が詰まっていて、そのままでは酒気が強すぎて食べると酔っ払ってしまうらしい)、ダフネーのように半分木で半分人間の女性を見つけたり(そういう木に仲間が誘惑されて、その仲間も木になってしまう)、つむじ風に巻き込まれて船ごと月に行くことになって、月に味方をして太陽と戦争をしたり、ようやく地球に戻るものの、船ごと鯨に飲み込まれたり、鯨のおなかを脱出した後は、水平線の彼方の「神仙の島」に辿り着いたり。
まあ、ルキアノスよりも前にホメロスの「オデュッセイア」(感想)があるので、先駆者ってわけでもないんですけど、そういうのが好きな人には絶対オススメ。後世のシラノ・ド・ベルジュラックの「月世界旅行記」(感想)とか、スウィフトの「ガリバー旅行記」とか、「ほらふき男爵の冒険」とか... アリオストの「狂えるオルランド」(感想)とか、ダンテの「神曲」(感想)とか! そんな作品に多大な影響を与えているはず。実際、似たような場面もちらほらと~。きっとみんな愛読してたのね。(笑)
ホメロスといえば、ルキアノスが神仙の島でホメロスと出会って、本当の生国がどこなのか聞いたり、作品の真偽を疑われている部分を確かめたり、なんでイーリアスをアキレウスの憤怒から書き始めたのか質問したり(聞いてみたい気持ち、私にもよく分かるよ!)、そんな部分がまた面白いんです。作品の真偽に関しては、近代に言われ始めたことなのかと思ってたんですが、ルキアノスの時代にも既にそういう疑問はあったのか!

他にも「空を飛ぶメニッポス」では天界、「メニッポス」では地獄への旅が再度登場するし... ソフォクレスの「オイディプス王」は世界初のミステリだと思ったけど、これはきっと世界初のSF作品ですね。その他の作品もそれぞれ面白いです。「哲学諸派の売立て」と「漁師」も2作セットで面白かったし。ただ、ギリシャの哲学者たちについての私の知識が浅くて、堪能しきれずに終わってしまった部分も... その辺りを勉強し直して、いずれ再読したいなー。(ちくま文庫)


+既読のルキアノス作品の感想+
「神々の対話」ルーキアーノス
「遊女の対話」ルーキアーノス
「本当の話」ルキアノス

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遊女たちによる15の会話「遊女の対話」他、全4編の短篇集。

んんー、先日読んだ「神々の対話」の方が断然面白かったなと思いつつ...
まあ、こちらも対話形式の表題作「遊女の対話」が、結構面白かったんですけどね。ええと、遊女とはいっても、古代ギリシャにおける遊女は、結構きちんと認められた存在だったようです。古代ギリシャ時代は、食料品の買い物ですら男性の仕事。一般女性はひたすら家の中にいて、つつましく家庭を守り夫を助けるべき存在。特に年頃の娘の顔などは何かの祭礼の折に垣間見るしかない! そのため、宴会などで場を取り持つのは、もっぱら遊女の仕事。でも男性と対等に会話を交わすためには、相当の才能と知恵と教養が必要となり、次第に男性顔負けの教養を身につけた才気溢れる遊女が登場することに... というと、なんだかまるで江戸時代の花魁みたいですね。で、職業柄卑しめられるどころか、むしろその美貌と才能によって自由に華やかに生きている女性として、もてはやされる存在だったんだとか。(うーん、「遊女」という言葉じゃない方が良かったような気もする...)
でもこの「遊女たちの会話」に登場しているのは、そこまでの高級遊女ではなくて、もっと一般的な遊女たち。遣り手婆にいいようにされてたり、男どもの甘言に惑わされながらも、逞しく生きていく女性たち。時にはそんな彼女たちを一途に愛する男性もいるんですが、大抵の男たちは彼女たちの手練手管に鼻の下を伸ばし、都合のいいことばかりを言ってるんですね。まあ、女性たちだって、あの手この手で男性をしっかりつかまえておこうとするんだけど。国が違っても、時代が違っても、男女の間のやりとりは同じなんだなあ。心変わりや嫉妬、取った取られた結婚するしないなんて騒ぎとか、自分を魅力的に見せるテクニックや、恋を成就させるためのおまじない。その辺りが可笑しいです。やっぱりルキアノスって、ショートコントの才能があったと思うわー。
でもあとの3編は... 「嘘好き、または懐疑者」はまだしも、「偽予言者アレクサンドロス」「ペレグリーノスの昇天」は今ひとつ。どちらも実在の人物だそうなんですけどね。私にはその面白みがあんまりよく分からなくて、残念でした。(岩波文庫)


+既読のルキアノス作品の感想+
「神々の対話」ルーキアーノス
「遊女の対話」ルーキアーノス
「本当の話 ルキアノス短篇集」ルキアノス

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丁度春になろうとしているベネチア。カフェバンドも一週間前から戸外で演奏するようになっていたある朝、ヤネクは観光客に混じって座っているトニー・ガードナーを見かけます。トニー・ガードナーはヤネクの母が大好きだった歌手。共産圏の国でレコードの入手が難しかったにもかかわらず、ほぼ全てのLPを持っていたほどだったのです... という「老歌手」他、全5編の短編集

カズオ・イシグロ初の短編集。でも短編集とは言っても、その主題はどれも同じ。カズオ・イシグロは、本書全体を五楽章からなる一曲として味わってもらうために、これらの5作品を全て書き下ろしたのだそうです。「ぜひ五篇を一つのものとして味わってほしい」とのこと。
確かにこれは、主題が繰り返し変奏され続けていく一編の音楽のような作品ですね。男と女の間にあるもの、そして人生の黄昏。副題に「音楽と夕暮れをめぐる~」とありますけど、ここでの「夕暮れ」は、一日のうちの時間的なものももちろんあるんですが、むしろ人生そのものにおける「夕暮れ」を意味しているのでしょうし... そして登場人物たちは文字通り音楽を演奏したり聴くことを好んでるんですが、ここでの「音楽」とは、この作品そのものなんでしょう。ジャズでもクラシックでも、1つのテーマが形を変えながら何度も登場すること、ありますよね。まさにあれです。
5編のうち、一番印象に残ったのは最初の「老歌手」。始まりはどうだったであれ、今は深く愛し合っている彼らの姿に人生を感じます。甘やかなほろ苦さと、ふとよぎる切ない哀しさ。そしてこの「老歌手」に登場するリンディ・ガードナーは、表題作「夜想曲」に再登場。どれもそれぞれに良かったんだけど、この2編が一番好きだったな。(早川書房)


+既読のカズオ・イシグロ作品の感想+
「日の名残り」カズオ・イシグロ
「遠い山なみの光」カズオ・イシグロ
「わたしたちが孤児だったころ」カズオ・イシグロ
「浮世の画家」カズオ・イシグロ
「私を離さないで」カズオ・イシグロ
「充たされざる者」カズオ・イシグロ
「夜想曲集 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」カズオ・イシグロ

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皇帝ネロンが寝ている部屋の戸口で番をするかのように待っていたのは、ネロンの母・アグリピーヌ。自室に戻るように言われたアグリピーヌは、自分が日一日と邪魔者にされつつあること、ネロンがとうとうブリタニキュスに向かって牙をむいたこと、そしてブリタニキュスの恋人・ジュニーをかどわかしたことを、腹心の侍女に向かって訴えます... という「ブリタニキュス」。
ベレニスに密かい会いにきたのは、コマジェーヌの王・アンティオキュス。彼は以前からベレニスを愛しており、しかしベレニスと皇帝ティチュスが相思相愛のため、口を閉ざしたまま、この5年間ローマに滞在していました。しかしティチュスが皇帝に即位し、とうとうベレニスを妃にするつもりだということを聞き、ベレニスに別れを告げに来たのです... という「ベレニス」。

ラシーヌの、古代ローマを舞台にした悲劇2つ。「ブリタニキュス」では、皇帝「ネロン」なんて名前になってますけど、これはネロのことです。それまでは一応善政を敷いていたネロが暴虐と狂気の道へと突き進むターニングポイントとなった物語、でいいのかな? 既に実の母・アグリピーヌの存在を疎ましく思ってるし、妻・オクタヴィーとは上手くいってないし、義弟のブリタニキュスとジェニーと仲を妬んでるんですね。で、ジュニーをかどわかすんですけど、このジュニーにすっかり心を奪われてしまって...。ネロンがジュニーに惹かれたのは、ただ単にブリタニキュスとジュニーの関係への羨ましさからなんですよね、きっと。もしジュニーの心が手に入ったら、その途端、どうでも良くなっちゃったんじゃないかなあー。ここに描かれてるネロって、なんだかただ単に愛情不足で育ってしまった子供みたい。やっぱりあのお母さんが普通のお母さんじゃなかったというのが不幸の始まりかも。帝王教育はしてくれても、何かあった時にぎゅっと抱きしめてくれるようなお母さんじゃないですものね。(と勝手にイメージしてますが)

そして「ベレニス」は、ローマ市民が異国の女王であるベレニスの存在を認めないという理由から、相思相愛であるベレニスとティチュスが別れなければならなくなるという悲劇。物語の中心となるのはこの2人なんですが、キーパーソンとなるのは、ベレニスに密かに思いを寄せ続けていて、しかもティチュスからの信頼は厚いアンティオキュス。
ベレニスが愛しているのは、ティチュスという1人の男性。相手が栄えあるローマ帝国の皇帝であるということは、彼女にとっては二次的な問題でしかないんですが、ティチュスは彼女を愛しながらも、ローマ帝国のことを頭から振り払うことができないんですね。そういう誠実な男性だったからこそ、彼女も惹かれたというのはあるんでしょうけど...。ただ愛し愛されることだけを望んできたベレニスにとって、自分がローマ帝国と天秤にかけられることはその誇りが許さなくて。そして相思相愛の2人の前に今まで沈黙を守ってきたアンティオキュスは、動揺する2人を前にとうとう心情を吐露してしまうことに。
3人が3人ともそれぞれに相手のことを誠実に真っ直ぐに愛しているのに、一旦その愛情が捩れて絡まり合ってしまうと、結局は苦悩しか生み出さないんですねえ。3人の思いがそれぞれ切々と迫ってきます。そしてティチュスの「ああ、父上がただ、生きていて下さったなら!」という言葉。ラシーヌの悲劇は4つ読みましたが、これがダントツで好き。緊迫感たっぷりで、素晴らしいー。おそらく実際に演じられる舞台でも観客を呑み込まずにはいられなかったのでは。そして、この作品を読んで、とても読みたくなったのが「ローマ人の物語」のティトゥス部分。思わず「危機と克服」の巻を読み返してしまいましたよ。テイトゥスとベレニケのことについてはほとんど何も書かれてなくて残念なんだけど、そのお父さんのヴェスパシアヌスは、やっぱりかなり好き♪(岩波文庫)


+既読のラシーヌ作品の感想+
「フェードル/アンドロマック」ラシーヌ
「ブリタニキュス/ベレニス」ラシーヌ

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ノールウェイ王の不意打ちに、スコットランドのダンカン王のもとで獅子奮迅の働きを見せるマクベス。戦いが終わり、マクベスとバンクォーが通りがかった荒地に現れたのは、3人の魔女でした。魔女たちは口々に「グラミスの領主様」「コーダの領主様」「いずれは王ともなられるお方」と呼びかけます。確かにマクベスは現在グラミスの領主。しかしコーダの領主はまだまだ元気で勢いが盛んであり、王も同様。不思議に思うと同時に困惑する2人。しかし2人を王宮で出迎えたロスとアンガスは、マクベスにコーダの領主と呼びかけます。ノールウェイ王を密かに援けていた裏切り者のコーダの領主は処刑が決定し、その地位は今やマクベスのものだというのです。

シェイクスピアの四大悲劇の1つ。四大悲劇の中では一番好きな作品。一番短いんですけど、シンプルながらもエッセンスのように凝縮している作品だと思います。戯曲という形式上、小説のような説明とか描写がないというのは当然なんですが、1つ1つの台詞が実はすごく色んなことを含んでるんですよね。それでも、説明不足としか思えない部分があるのですが...。と、感じていたら、当初書かれた作品から多くの場面が割愛されているとも考えられているのだそうです。なるほど、そうだったのかー。
野心はあるにしても、心は正しかったはずのマクベスが、魔女の予言をきっかけに大それた罪を犯し、幻影に悩まされ、自滅していくという悲劇。小心者と言われるマクベスも強気のマクベス夫人も、結局のところ、魔女の手の平で遊ばされていたようなものなんですねえ。悪人にはなりきれない、ごく平凡な人間にしか過ぎなかったというわけで。魔女の予言は、きっとマクベスの性格も見越してのことだと思うんですが、もしマクベスが自分の良心に負けなければ、結末を急がなければ、一体どうなっていたんでしょうね? コーダの領主の地位だって何もせずに手に入ったんだから、王位もそうなるはずだとは思わなかったのかな? そういうことを考えること自体、最早無意味なのかな? マクベスの人生は、魔女によって破滅させられたようなもの。元々そういった資質があったとはいえ、やっぱり魔女の言葉さえなければ、と思ってしまうのですが... 第1幕第1場の「きれいは穢ない。穢ないはきれい」という魔女の台詞が暗示的。そしてこれらの魔女は、先日読んだハインリヒ・ハイネの「精霊物語」によると、元々の伝説の中では3人のワルキューレだったんだそうです。戦死者を選ぶ役割を持つワルキューレにとって、マクベスへのこの予言はなんと相応しい役回り!
子供の頃に読んだ時は、「マクベスを倒す者はいないのだ、女の生み落とした者のなかには。」という部分には正直あまり感心しなかったんですが... なんかこじつけっぽくて。でも「マクベスは滅びはしない、あのバーナムの大森林がダンシネインの丘に攻めのぼって来ぬかぎりは。」の方は、実際に森が攻め上ってくるという絵画的な場面描写と相まって、とてもインパクトが強かった覚えがあります。ちなみに実在したスコットランド王としてのマクベスは、従兄のダンカン1世を殺害して王位を奪い、自分の王位を脅かす者を次々と抹殺したのは事実としても、善王だったようですね。...それだけ殺しておいて善王と言えるのかどうかは分かりませんが。(笑)(新潮文庫)


+既読のシェイクスピア作品の感想+
「プークが丘の妖精パック」キプリング 「夏の夜の夢・あらし」シェイクスピア
「ジョン王」ウィリアム・シェイクスピア
「ジュリアス・シーザー」「アントニーとクレオパトラ」シェイクスピア
「ハムレット」シェイクスピア・「新ハムレット」太宰治
「マクベス」シェイクスピア
「トロイラスとクレシダ」ウィリアム・シェイクスピア

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山の中に住む魔女に育てられた妖精のラウテンデラインの前に現れたのは、30歳の鋳鐘師・ハインリッヒ。湖の中に転がり落ちた鐘と一緒にハインリッヒも谷底に転げ落ちたのです。瀕死のハインリッヒは、自分を世話してくれるラウテンデラインを一目見て心を奪われます。しかしそこにハインリッヒを探しに来た牧師や教師、理髪師がやってきて、ハインリッヒを取り戻し、妻のマグダ夫人や子供たちのところに連れて帰ることに。

5幕物の戯曲で、オットリーノ・レスピーギが歌劇にも仕立てている作品。泉鏡花の「夜叉ヶ池」「海神別荘」「天守物語」、特に「夜叉ヶ池」にも大きく影響を与えているのだそうです。そして野溝七生子は、この作品のヒロイン・ラウテンデラインに因んで「ラウ」と呼ばれていたのだそう。

一読して驚いたのは、まるでフーケーの「ウンディーネ」(感想)みたいだということ。ラウテンデラインは、実際にはウンディーネのような水の精ではないはずなんですけど、でもその造形がすごくよく似ています。ただその日その日を楽しく暮らしていたラウテンデラインは、ハインリッヒを知ることによって初めて泣くことを知るんですね。ここで「泣く」というのは、ウンディーネが愛によって魂を得たのと同じようなこと。ラウテンデラインの場合は、ウンディーネほどの極端な変わりぶりではないのですが。それに作品全体の雰囲気もよく似てます。ハインリッヒに夢中になるラウテンデラインのことを周囲の精霊たちが面白く思わないのも同じだし、水が重要ポイントになるところも。ラウテンデラインは本当は水の精じゃないはずなのに、これじゃあまさに水の精。そして3杯の酒による結末も。魂を失って、愛を忘れてしまうところも。ああ、ここにも「水の女」がいたのか!と思いつつ。
2人の子供と妻の涙の壷、そして響き渡る鐘の音。ラウテンデラインの腕の中にはハインリッヒ。ああ、なんて美しい。水の魔物・ニッケルマンや牧神風の森の魔、そしてゲルマン神話の神々の名前もまた、異教的で幻想的な雰囲気を盛り上げていました。

ウンディーネは魂を持たない存在だけど、人間の男性に愛されて妻になると魂を得るという設定は、元々パラケルススによるものなんですね。水辺や水上で夫に罵られると、水の世界に戻らなくてはならないというのと、夫が他の女を娶れば命を奪うというのも。その辺りのパラケルスス関連の本も読んでみたいな。(岩波文庫)

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かつてウェストファリア地方のトゥンダー=テン=トロンク男爵の城館にいたのは、生まれつき品行が穏やかで無邪気なカンディードという青年。しかしある日のこと、カンディードと美しい男爵令嬢のキュネゴンドが接吻しているところを男爵が発見し、カンディードは城館から追い出されてしまうことに... という表題作「カンディードまたは最善説(オプテイミズム)」他、全6編。

18世紀フランスの啓蒙思想家・ヴォルテールによる哲学コント6編。コントというのはフランス語で、短い物語のこと。要するに哲学的な主題を持つ短い物語のことですね。ヴォルテールは、悲劇や喜劇や叙事詩といった前世紀の古典主義を終生信奉しながらも、人間の不幸や挫折、幸福の探求とといった主題はもっと現実的で真実味のある形(つまり小説や哲学コント)で扱うのがふさわしいと考えていたようです。そして、あからさまに告白したり感傷に浸ることを嫌って、自身の抱える問題や懐疑、苦悩をコントの主人公の青年の姿を借りて表現し、重大で深刻な時ほど照れ隠しのように茶化してみせたのだそう。
SF的設定の「ミクロメガス 哲学的物語」、ペルシャになぞらえながらも実はフランスの実態を描いている「この世は成り行き任せ バブーク自ら記した幻覚」、バビロン時代の賢者の中の賢者をめぐる寓話「ザディーグもしくは運命 東洋の物語」、完全な賢人を目指しながらも、早くも美しい女にたぶらかされて、とんでもない結末を迎えることになる1日を描いた「メムノン または人間の知恵」、ライプニッツの最善説への懐疑が徐々に大きくなってきている「スカルマンタドの旅物語 彼自身による手稿」、そしてとうとう最善説を風刺するところまでたどり着いてしまう表題作。作品は書かれた年代順に並べられているので、ヴォルテール自身の人生を知ると、その実体験が全てその哲学コントに登場してるのが分かって、その変遷がすごく興味深いです。
どれも面白かったんだけど、私が一番楽しく読めたのは「ザディーグ」。でも、これは絶対以前読んだことがあるんだけど! どこで読んだんだろう? その時はヴォルテール名義ではなくて、童話集みたいなのに登場してたような気がするんですが... それも前半の半分か3分の1だけ。どこで読んだんだか、今パッとは思い出せません。ああ、気になるー。この「ザディーグ」、古代バビロンが舞台で「千一夜物語」のように楽しく読める物語なんですけど、その主題は人間の幸福や人生について考えるとても深いもの。本来なら「カンディード」が一番評価されてる作品なんでしょうけど... この2作品は分量もかなりあって同じぐらいの読み応えがあるんですけど、私としては風刺色の強い「カンディード」よりも、もっと正面から素直に書いてるような「ザディーグ」の方が好みでした。(岩波文庫)


+既読のヴォルテール作品の感想+
「バビロンの王女・アマベッドの手紙」ヴォルテール
「カンディード」ヴォルテール

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デンマークのエルシノア。ハムレット王が亡くなって2ヶ月足らずだというのに、ガートルード王妃は、王位を継いだ亡き王の弟・クローディアスと再婚。そんな時、エルシノア城の銃眼胸壁の上の狭い歩廊に、今は亡きハムレット王の亡霊が現れます。甲冑に身を固め元帥杖を手に見張りの目の前を何も言わずに通り過ぎる亡霊。その話を聞いたホレイショーは自分も亡霊の姿を目にすると、早速ハムレット王子に告げることに。そして亡霊と対峙したハムレット王子は、父の死の顛末を聞かされることになるのです... という本家本元の「ハムレット」。
そしてシェイクスピアの「ハムレット」から登場人物の名前と大体の環境を借りて書き上げた、2つの不幸な家庭の3日間の物語だという、太宰治の「新ハムレット」。

いわずと知れた、シェイクスピアの四大悲劇の1つ「ハムレット」。私はシェイクスピアはあまり好きじゃないし、色んな版で何度か読んでる割にその偉大さも今ひとつ理解できないんですが、四大悲劇は結構好き。特に「マクベス」。
ええと、今ひとつ感心しない理由の1つは、シェイクスピアのどの作品にも元となる話があって、あまりオリジナリティがないということなんですけど... まあ、それはあんまり説得力がないというのは、自分でも分かってます。(笑) でもこの「ハムレット」が書き上げられる数年前に、よく似た戯曲がロンドンで上演されていたのだそうで、そんなことを知ってしまうと、益々...。(笑) まあ、それ以前に明らかな元ネタ本があるので、その同時代の劇作家もそちらから取ったんでしょうけどね。でも今回訳者による解題を読んで、「エッダ」や「ベオウルフ」にもハムレットの原型が存在するとされていると知ってびっくりです。そう言われてみると、似てるなあ、なんて思いながら読んでた話もあったような...。(←ダメダメな記憶力)
「ハムレット」自体には改めてあまり感想はないんですが、この福田恆存氏による解題が良かったです! 福田恆存氏は訳も素晴らしいけど、この解題が本当に素晴らしいー。特に「ハムレットの最大の魅力は、彼が自分の人生を激しく演戯していることにある」という言葉。「ハムレットの演戯法はハムレットに教わることだ。シェイクスピア劇の演戯法はシェイクスピアに教わることだ。そのハムレットは演戯をし、演戯しながらそれを楽しんでいる。そういうハムレットを役者は演戯すればいい。演戯ということが既に二重の生であるがゆえに、そこには二重の演戯がある」ですって。なるほどね。そういうところを楽しむべき作品なんですね。やっぱり本で読んでどうこう言うのではなくて、演じられている「ハムレット」を観るべきなんでしょうね。シェイクスピアだって座付き脚本家として、演じられるための作品を書いてたんですものね。

そしてその「ハムレット」を読んだので読んでみたくなったのが、太宰治「新ハムレット」。太宰治自身、「人物の名前と、だいたいの環境だけを、沙翁の「ハムレットから拝借して、ひとつの不幸な家庭を書いた。それ以上の、学問的、または政治的な意味はみじんもない。狭い、心理の実験である」としている通りの作品。
大きな流れは同じなんですが、細かい部分は結構違います。「新ハムレット」のハムレットは、叔父とそれほど不仲ではないですし、以前は懐いていたのに、母親をとられた寂しさや戸惑いから反抗しているみたい。先王の幽霊騒ぎは、ここでは単なる噂話。そしてハムレットは結婚する気満々です! ここでのオフィーリアの造形が、まるで今時の女の子みたいでびっくりですよ。それに作品そのものもとても現代的。書かれた当時は、きっととても斬新だったんでしょうね。太宰治といえば一昔前の人、というイメージだったんですけど、そうではなかったようで...(笑)
行間から登場人物たちの気持ちを推し量らなければならない原作とは違って、こちらでは登場人物が滔々と雄弁に自分の気持ちを語ってるのが面白いし、ハムレットを初めて日本に紹介した坪内逍遥の訳をからかってるようなところも楽しいし...(「アリマス、アリマセン、アレワナンデスカ」というのは、確か「はいからさんが通る」に出てきてたから知ってたけど、「すまいとばし思うて?」は知らなかったよ)、ポローニヤスから息子・レアティーズへの細かすぎるほど細かい遊学の心得も可笑しいし~。太宰治自身も同じことを言われたのかな? それとも自分自身の経験を踏まえた言葉? 人は死ぬんですけど、むしろ喜劇に変わってしまったような印象さえありました。とは言っても、このハムレットは、やっぱり太宰治自身なんでしょうね。ハムレットの台詞の端々に、太宰治自身が見え隠れしているようです。

「みんな、みんな可哀想だ。僕には昔から、軽蔑感も憎悪も、怒りも嫉妬も何も無かった。人の真似をして、憎むの軽蔑するのと騒ぎ立てていただけなんだ。実感としては、何も分からない。人を憎むとは、どういう気持ちのものか、人を軽蔑する、嫉妬するとは、どんな感じか、何もわからない。ただ一つ、僕が実感として、此の胸が浪打つほどによく分る情緒は、おう可哀想という思いだけだ。僕は、この感情一つだけで、二十三年間を生きて来たんだ。」(P.294)

「新ハムレット」には5編が収められているんですけど、表題作以外もそれぞれに良かったです。私が一番気に入ったのは「古典風」。取り立てて大きな出来事が起きるわけでもないのに、読ませてくれるんですよねえ。間に挿入されている手帳のメモ書きや、主人公が書くネロの伝記なんかも面白かったし。この作品、副題が「ーーこんな小説も、私は読みたい。(作者)」なんです。私だって読みたいよ!(笑)(新潮文庫)


+既読のシェイクスピア作品の感想+
「プークが丘の妖精パック」キプリング 「夏の夜の夢・あらし」シェイクスピア
「ジョン王」ウィリアム・シェイクスピア
「ジュリアス・シーザー」「アントニーとクレオパトラ」シェイクスピア
「ハムレット」シェイクスピア・「新ハムレット」太宰治
「マクベス」シェイクスピア
「トロイラスとクレシダ」ウィリアム・シェイクスピア

+既読の太宰治作品の感想+
「惜別」太宰治
「ハムレット」シェイクスピア・「新ハムレット」太宰治

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冥土の王様から1日だけ暇をもらって浮世を見に来たというカロオンは、丁度出会ったヘルメスに、ぜひ地上を案内して欲しいと頼み込みます。ヅェウスの用で忙しいヘルメスですが、カロオンには日頃世話になっていることもあり、オリュンポスやオッサ、ペーリオン、オイテー、パルナッソスといった山々を積み上げてその上に座り、2人で下界の人々の様子を見ることに... という「カロオン」他、全7編の作品集。

「本当の話」が読みたかったルキアーノス、この本が復刊した時に一応買ってたんですが、旧字旧仮名遣いで訳が古いままだし(だって「ゼウス」が「ヅェウス」ですよ!)、活字もすっかり潰れてて読みにくそうなので、しばらく放置してしまったんですよねえ。でもいざ読んでみたら。これが面白いのなんのって! ギリシャ神話好きには堪らない、風刺の効いた短篇集でした。読んで良かったーー。
特に面白かったのは、上にもあらすじを書いた「カロオン」と、表題作の「神々の対話」。「カロオン」というのは、冥府の河ステュクスの渡し守のカロンのことです。闇の神・エレボスと夜の女神・ニュクスの息子であるカロンは、生まれてこの方ずっと冥府に暮らしてるんですね。地上に出てくるのは、今回が初めて。仕事で時々冥府を訪れるヘルメスとは顔馴染みなので、その関係でヘルメスに地上を見せてまわってくれと頼むんですが... このヘルメスとカロン、そして彼らが覗き見る人間たちの会話に風刺がたっぷり効いていて可笑しいし楽しいし。ギリシャ神話に語られているエピソードが、将来起きる出来事として予言されていたり。もうニヤリとさせられっぱなしです。
そして表題作の「神々の対話」は、様々な神々たちの素顔を覗き見るような楽しさのある作品。自由と引き換えにテティスにまつわる秘密をゼウスに話すプロメテウスとか、ヒュアキントスの死を嘆くアポロンなんかは、普通に神話のエピソードをそのままなぞったものなんですけど、自分の浮気癖を棚に上げて、もっと優美な姿で女性に近づきたいとエロスに文句を言うゼウスとか(いつも牛とか金色の雨とかだからね)、まさにガニュメデスを口説いている最中のゼウスとか(好色親爺めッ)、ヘルメスの手の早さや音楽の才能に目を細めているようなアポロンとか(まるで父親みたいだ)、ヘラとレト(アポロンとアルテミスのお母さんね)の我が子自慢と嫌味の応酬とか(コワイコワイ)、使い走りばかりさせられて愚痴ってるヘルメスとか、可笑しい会話がいっぱい。トロイア戦争の元となった金の林檎のエピソードで、アプロディテがパリスを買収する場面なんて、現実感ありまくり。まるでギリシャ神話版ショートコント。これは今の時代でも笑えるセンスですね。素晴らしいー。
金持ちにあこがれる靴直しの青年をうまく言いくるめてしまう鶏の話「にわとり」も面白かったし... この鶏は、前世で様々な人生を体験していて、そのうちの1人は哲学者のピュタゴラスなんですよ! あと「無学なる書籍蒐集家に与う」は本当に皮肉たっぷりで~ ローマ時代にも応接間に全集を飾って悦に入るような人たちがいっぱいいたんですね。積読本が多い読者には、ちょっぴり耳が痛い話かも。(笑)(岩波文庫)


+既読のルキアノス作品の感想+
「神々の対話」ルーキアーノス
「遊女の対話」ルーキアーノス
「本当の話 ルキアノス短篇集」ルキアノス

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民衆の間で信仰されてきた小人や巨人、そして妖精たち。しかしそういった存在が息づいていた民間信仰は、人々の生活にキリスト教が入ってくるに従って邪教と見なされるようになり、徐々に人々の生活圏から排除されることになります。キリスト教が世界を席巻するに従って排除されていったのは、ギリシャ・ローマの神々たちも同様。それらの神々は、地上の古い神殿の廃墟や魔法の森の暗闇の中に生きる悪霊とされてしまうのです。...そんな風に追いやられ、呪われることになった神々や精霊たちに関するエッセイ。「流刑の神々」がギリシャ・ローマの神々に関して、「精霊物語」は民間信仰の小人や巨人、妖精たちについてです。

ハイネによるエッセイ2編。両者の成立には17年という歳月の隔たりがあるそうですが、古代の自然信仰やギリシャ・ローマの神々に対する信仰が、キリスト教の浸透によって邪教として抹殺されていくことになったことということで、そのテーマは同じです。
新しいものに古いものが駆逐されるというのはよくあることだし、例えば日本にも、文明開化によって西洋の文化が入ってきた途端、日本古来の文化がないがしろにされるようになったという歴史がありますよね。でも西洋文化に流れてしまったのは国民性というのも大きかったはずだし、結局「和洋折衷」で、新しい物に負けそうになりながらも、古い物も残るところには残っています。そもそも日本は、古くから仏教と神道が両立してきた国。キリスト教が異教に対して行ったような徹底的な排除というのは経験してないんですねえ。でももし徳川幕府が鎖国してキリスト教を締め出さなかったら、今頃どうなってたのかしら?
キリスト教に限らず宗教というのは激しさを持ってることが多いのだけど(特に初期)、それでもキリスト教の激しさってすごいですね。隣人には寛容なはずのキリスト教も、異教徒に対しては驚くほど非寛容。あの徹底した排除っぷりは、ほんとすごいと思います。古来の信仰や、それにまつわる文化、その中に息づいていた異教の神々たちを完全に駆逐してしまおうとするんですもん。でもキリスト教がどれだけ網を張巡らしても、古代信仰の一部は、邪教や迷信と決め付けられ変容しながらも零れ落ちていくんですね。そしてあるものは伝説として残り、あるものは祭りなどの習俗に残り、抹殺されずに農民たちの間に残った物語はグリムによって採取されて本として残ることになるわけで。

「流刑の神々」は、若き日の柳田国男にも多大な影響を与えた作品なんだそうです。なるほど、こういうのを読んでいたのですね。ワーグナーの「タンホイザー」や「さまよえるオランダ人」「ローエングリン」といった作品群を思い起こさせる伝説も紹介されてたし、他にも色んな伝承に触れられたり、紹介されてるのが面白かったー。中でも興味深かったのは、シェイクスピアの「マクベス」の魔女は、その元ネタとなった古い伝説の中では、3人のヴァルキューレだったという話! そうだったんだ! 「流刑の神々」で紹介されてる、うさぎ島に住む老人がユピテル(ゼウスね)だったなんて話も面白かったし、牧童として暮らしていたアポロンや、今もまだ祭りを行っているバッカス... いつまででも読み続けていたくなっちゃいます。でもドイツの人なのに、ギリシャ神話を取り上げてる割に、ゲルマン(北欧)神話についてはあまり触れてないのが少し不思議。ハイネがユダヤ人だったということは... 関係あるのかしら?(岩波文庫)

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トロイア戦争でヘクトールはギリシャのアキレウスに倒され、トロイア落城後、ヘクトールの妻のアンドロマックはアキレウスの息子・ピリュスの奴隷となることに。ピリュスの婚約者のエルミオーヌは、ヘクトールの忘れ形見・アスチアナクスの殺害を要求し、アンドロマックに心を奪われたピリュスは、そんなエルミオーヌを疎ましく思います。そこにエルミオーヌを愛するオレストが登場して... という「アンドロマック」。
アテネの王・テゼーとアマゾーンの女王・アンチオープとの子・イポリットは、この6ヶ月というものテゼーが行方不明であることに居ても立ってもいられない不安を覚え、父を探す旅に出ると言い出して... という「フェードル」。

フランスの劇作家・ラシーヌによる悲劇2作。どちらも古代ギリシャの3大悲劇詩人の1人・エウリピデスの悲劇作品が元になってます。こんなところでギリシャ神話絡みの作品が読めるとは迂闊にも知らなかったんですけど! 名前の訳が違いすぎて、話に入り込みにくくて困りました...。だってアンドロマックというのは、ギリシャ読みだとアンドロマケーのこと。ピリュスはネオプトレモスだし、フェードルはパイドラのことで、テゼーはテーセウス。イポリットはヒュッポリュトスのことで、アンチオープはアンティオペー。アルファベットで見たらそれほど変わらないでしょうけど(ギリシャ文字はアルファベットとはまた少し違うけど)、カタカナ表記では違いすぎですよぅ。従来のギリシャ読みを採用してくれたら、もっとずっと読みやすくなったはずなのに。

「アンドロマック」は、エウリピデスの「アンドロマケー」がモチーフとなっている作品なんですけど、元話とは結構違っていてモチーフを借りてきただけ。それだけにラシーヌらしさというのもあるのかな? オレストはエルミオーヌに、エルミオーヌはピリュスに、ピリュスはアンドロマックに、しかしアンドロマックはヘクトールを思い続けて... という片思いの連鎖が繰り広げる物語は、これはこれで結構面白いです。こんなにみんな前言を翻してばかりでいいのかしら?なんて思ったりもするのだけど。(笑)
「フェードル」は、やっぱりエウリピデスの「ヒュッポリトス」に題材を取っている作品ですが、こちらの方は元の作品にかなり忠実。これは元々それほど好きな話ではないし、比べてしまうと元話には見劣りするかな... 元話ではヒュッポリトスがアプロディテをないがしろにするところで悲劇が起きるんですけど、こちらはそんな神懸りではなくて、もっと人間ドラマになってるんですね。それがちょっと物足りなかったりして。
結局「アンドロマック」の方が面白かったんですが... でも結論から言えば、私はやっぱりエウリピデスの作品の方が好きだなあ。というのは、やっぱり名前の訳の問題も大きいのかなあ。でもラシーヌにはローマ時代を舞台にした「ブリタニキュス/ベレニス」というのもあるそうなので、そちらも読んでみようと思います。「ブリタニキュス」は皇帝ネロ、「ベレニス」は皇帝ティトゥスとベレニケの話ですって。どんな感じなのかしら~。(岩波文庫)


+既読のラシーヌ作品の感想+
「フェードル/アンドロマック」ラシーヌ
「ブリタニキュス/ベレニス」ラシーヌ

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ワルシャワのゲットーとも言えそうなクロホマルナ通りにラビの息子として生まれ、ヘブライ語、アラム語、イディッシュ語とタルムードによって育てられたアーロン。一番仲が良かったのは、天才児と言われたアーロンとは対照的に、周囲から知恵遅れと思われていた少女・ショーシャ。ショーシャは9歳になっても6歳のような話し振り、2学年遅れて通っていた公立学校からも、もう通わなくていいと言われてしまうほど。それでもショーシャと遊ぶ時だけは、アーロンは他の誰にも言えないようなこと、空想や白昼夢のことまで全部言うことができたのです。しかし1914年に第一次大戦が始まり、アーロンの一家もやがてワルシャワを去ることに。

アイザック・シンガーの自伝的小説。アイザック・シンガー自身、ポーランドのユダヤ人家庭に生まれているし、アーロンと年齢的にもほぼ同じなら、住んでた場所も経歴も家族のこともかなり重なってるみたいです。大きく違うのは、ショーシャのことだけ。この作品ではアーロンはショーシャに20年ぶりに再会することになるんですが、現実でアイザック・シンガーが再会できたのはショーシャではなく、ショーシャの娘だったんだとか。そう考えると、この作品はアイザック・シンガーが送りたかった人生というか、失われた人生というか、そんな感じがしてきます。

もうこのショーシャがとにかく可愛らしくて! 第一部では知恵遅れのイメージが強いんですけど、第二部のショーシャは1人の恋する女の子。もうこれは反則でしょ!ってぐらい可愛い。そして主人公も、そんなショーシャを大切に愛してます。ただ、それだけに、そのまま済むはずがないだろう、なんて思ってしまったりもするのだけど...。
でもそんなショーシャの可愛らしさに比べて、アーロンの魅力がイマイチだったかな。主人公に作者自身が色濃く反映されているせいで、妙なとこで謙虚だった? アーロンは女性にも不自由してないし、年上の友人たちにも可愛がられてるし、アメリカから来た女優のベティとその情人のサム・ドレイマンにも初対面でとても気に入られるんですよね。で、とんとん拍子に芝居の脚本を書くことが決まっちゃう。本当なら、かなり魅力的な才能溢れる青年のはずなんですけど、何なんでしょうね、この冴えなさは...。文才についても最後までよく分からないままで、でも最終的には世界的な作家になってたようだし、なんかこの辺りがどうもね。自伝的ではあっても小説として書くのであれば、もう少し書き込んで欲しかったところです。でも同じ書かれていないといえば、ナチスによるホロコーストも同様なんですが、こちらは書かれていないのが逆に良かったんですけどね。登場人物たちは第一次世界大戦も第二次世界大戦も体験してるし、ヒトラーの名前は何度も登場するし、戦争の犠牲になった人もいるのに、まるで戦時中という感じがしなくって、私にはそれがとても読みやすかったです。

作中で登場する「世界の本」というのが素敵。こういう本が存在すると思っただけで、いいことも悪いことも、全てが受け入れられそうな気がします。 実際には再会することのなかったショーシャもまた、この本の中にいるんですね。そうか、この作品はシンガーにとって「世界の本」そのものだったのかも。だからこそ、悲惨な戦争の描写もほとんどなかったのかもしれないなあ。(吉夏社)


+既読のアイザック・B・シンガー作品の感想+
「お話を運んだ馬」「まぬけなワルシャワ旅行」I.B.シンガー
「やぎと少年」アイザック・B・シンガー
「ショーシャ」アイザック・B・シンガー

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暮れなずむ夏の日々の、遠い大聖堂の塔が沈みゆく陽に茜色に染まる頃。幼いオデット・ダントルヴェルヌは灰色の古城をこっそり抜け出しては、翳りゆく庭園にじっと佇み、小鳥たちの声に耳を傾けていました。蝋燭の灯りのともる仄暗い居間に戻ると、レースの祭壇布に刺繍している叔母のヴァレリに「どこに行っていて?」と聞かれ、「小鳥さんたちが夜のお祈りをするのを聞きに行っていたの」と答えるオデット。かつてインドから帰る途中の船が沈んで両親を失ったオデットは、預けられていたパリの聖鳩修道院から、夫を失った叔母に引き取られたのです。ある8月の美しい晩、幼いオデットは自分も司祭に聞いた少女ベルナデットのように、聖母マリアを探しに行こうと思い立ちます。

山本容子さんの繊細な銅版画がとても美しくて手に取った本です。原題の副題は「けだるい大人のためのおとぎ話」。作者のロナルド・ファーバンクは、20世紀初頭にロンドンの裕福なアッパーミドルの家に生まれた作家で、ガラス細工のような文体、極端なはにかみ性、飲酒癖、奇癖などで当時のロンドンのインテリの間ではいわば伝説的な人物だったのだそう。
この物語の少女オデットは作者と同じく、もしくはそれ以上に裕福な家に生まれ育った少女。幼い頃に両親を失うものの、引き取ってくれた叔母に大切に育てられています。世の中に存在する醜いものを何も知らないまま、素直に純粋に真っ直ぐ育つ少女。...司祭の話す聖母マリアと少女ベルナデットの物語に感動し憧れて、自分も聖母マリアと会いたいと願っていたその時までは。
実際に少女が出会ったのは、聖母マリアとは程遠い女性。いわゆる「世界最古の職業」の女性ですね。でもオデットにとっては、彼女もまた外の世界の真実を教えてくれる聖母マリアのような存在だったのかも。この一晩の経験で、人生は美しい夢だけではないと知るオデットなんですが、そのことを受け入れつつ、自分に与えられた役割を見事に果たしつつ、オデットは大人への第一歩を踏み出すのですねえ。オデットが夜の庭園で摘んでいた深紅の薔薇が、朝の陽光の中、道端に散らばっている場面が暗示的。でもこの出会いは、おそらく2人ともにとって幸せなものとなったと思うんですが... 果たして作者のロナルド・ファーバンクが初めて世間を知った時はどうだったんだろう?

帯には「小川洋子さん推薦!」で「いたいけな少女が聖母の遣いとなる秘密の一夜は、銀の十字架のように清らかで枯れた薔薇のように妖しい。」という言葉があります。うわあ、まさにまさにまさに。やっぱりすごいな、小川洋子さんは。(講談社)

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家で子供を生むのが普通だった1860年代、病院での出産を決めた若き日のロジャー・バトン夫妻。夫妻は南北戦争後のボルチモアで社会的にも経済的にも恵まれた地位にあったのです。9月の早朝、赤ん坊がもう生まれたかどうかを確かめるために病院に急いでいたバトン氏が見つけたのは、かかりつけのキーン先生。しかし医師や看護婦たちの奇妙な態度に、バトン氏は恐れを抱き...。

今まで「グレート・ギャツビー 」しか知らなかったスコット・フィッツジェラルド。(とは言っても、私が読んだ時は「華麗なるギャツビー」だったんですが) この「ベンジャミン・バトン」は、今まで未訳だった短編が、映画化を期に翻訳されたということのようです。金目当てで沢山の短編を書いてるフィッツジェラルド、いいものはいいけど悪いものはとことん悪いのだそう。名作とされている物以外読む必要がなくて、翻訳する必要さえないというのが日米双方の研究者の間で共通了解となっているのだとか。そうだったのか...!

で、この作品。どこまで書いてしまっていいものなのか、正直迷ってしまうのだけど... でも既に色んなところで普通に書かれているようなので書いてしまうと、要するに、生まれた時に70歳ぐらいの老人の姿だったベンジャミン・バトンが、生きていくうちに徐々に若返っていくというSF的設定の話です。生まれた時は、まばらな髪はほぼ真っ白、あごからは煙色の長いひげが垂れています。当然実の親よりも遥かに年上。でもその実の父親は、現実を直視しようとしません。息子のひげを剃ったり、髪を切って黒く染めたり、全然似合いもしない子供らしい格好をさせたり。普通の赤ん坊のような行動を期待して、無理矢理1日中ガラガラで遊ばせたり。(実のお母さんがどう感じていたかなんていうのは全然ないんですが、これはどういう意図なんだろう?)
70歳の姿で生まれたとすれば、予め人生が70歳に設定されているようなものですよね。70年も生きられれば十分だとでも言うつもりなのか、それについては誰も触れていないのだけど...。
最初は楽しく読み始めたんですけど、途中からはちょっと痛すぎました。まるで指の間から零れ落ちていく砂みたいに、掴み取った幸せが零れ落ちていってしまうベンジャミン・バトン。幸せな時期って、本当に一瞬なんですね。普通の人間として生きていても、実際には一瞬のことなのかもしれないけど、それでも人生の流れの中で余韻もあるし、なんとなくそのままいったりもするはず。でもベンジャミン・バトンの場合は、本当に一瞬だということを直視させられることになるのが辛いところ。日本人は団体行動は得意だけど個性が足りなくて、なんて言われることも多いけど、個性というのも他人と同じ流れを生きているという土台があってこそのことですね。これじゃあどうしようもないです。...それでも精神年齢の流れが逆じゃなくて良かった、ってところかなあ。これが逆だったら本当に悲惨すぎるもの。少なくとも最後はね。それが唯一の救いだったように思います。(イースト・プレス)

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ボルヘス2冊。「伝奇集」は以前読もうとしてなかなか読みきれなくて、随分長い間放置してあったもの。本当に日本語で書かれてるのかと疑ってしまうほど、読んでも読んでも意味分からん、という状態で。でも先日、なんとなく「創造者」を買ってしまって(なんで買ったのかな、私)、試しに読んでみたら予想外の面白さ。思わず「エル・アレフ」まで買ってしまって(だからなんで買うかな、私)、「伝奇集」と一緒に読むことに。

どちらも読めました!(ほっ)
しかも面白かったよ!(すごいっ)

以前読んだ時に何が悪かったのかといえば、多分私の読む姿勢... というか頭の切り替えですね。小説なのかエッセイなのかよく分からなくて、自分の立ち位置がうまく確保できなくて、って感じだったと思うんですけど、今回は大丈夫でした。まるで真実の体験を伝えてるように書かれてるけど、色んな人名が登場してるし色んな文献からいっぱい引用されてるけど、例えばまるで本当に存在する本のように書評が書かれてるけど、これは全部、大真面目なほら話だったんですねーーー。そう思ってみると、突然面白く読めるようになりました。そうか、そういうことだったのか。私ってば頭が固かったんだなあ。

どちらも短編集で、でも「創造者」ほど短い作品ではなくて、でも長くても1編が30ページほど。どれも膨らせ方次第では、いくらでも長編になりそうなのに、敢えてこの書き方でこの長さなんですね。そういうのも多分、以前戸惑った一因だったと思うんだけど。真実と虚構のあわいをゆらゆらと。そしてどの作品にもボルヘス的宇宙が濃厚にそして無限に広がっていて。そして迷宮。...まあ、全部きちんと理解しきれたわけじゃないですけど、こういうのはするめみたいに何度も読んで噛み締めればいいわけですね。読むたびに新しい発見もありそうだし。その時々で気に入る作品も違うかもしれないな。という私が今回気に入ったのは、「エル・アレフ」では「神の書き残された言葉」。「不死の人」や表題作「エル・アレフ」ももちろんいいんだけど、今回はこれが一番すとんときました。「伝奇集」では「円環の廃墟」「バベルの図書館」。初読の時はとっつきが悪かった「トレーン、ウクバール、オリビス・テルティウス」も、やっぱり面白かったなあ。


+既読のホルヘ・ルイス・ボルヘス作品の感想+
「創造者」J.L.ボルヘス
「エル・アレフ」「伝奇集」ホルヘ・ルイス・ボルヘス
「幻獣辞典」ホルヘ・ルイス・ボルヘス、マルガリータ・ゲレロ

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ウィンダミア卿邸を訪れたのは、ダーリントン卿。ちょうど花瓶にバラの花を入れていたウィンダミア卿夫人は早速通すように言いつけます。居間に入った途端に、テーブルの上に置かれた扇に目をつけるダーリントン卿。それはウィンダミア卿からの誕生祝い。その日はウィンダミア卿夫人の誕生日で、パーティが開かれることになっているのです。しかしそこにベリック夫人が現れて、ウィンダミア卿に関するいかがわしい噂を吹き込みます。

オスカー・ワイルド自身が生きていた19世紀末、ヴィクトリア朝末期のイギリス上流社会を描いた戯曲。中心となるのは、仲睦まじい夫婦に投げかけられた波紋の真相。夫婦の前に突如として現れたアーリン夫人は、美しくて才気溢れる女性なんですが、これを機会に金持ちの男性を捕まえようとしているのが見え見えなんですね。ウィンダミア卿夫人はもう冷静に話を聞けるような状態じゃないし、ウィンダミア卿にも何か理由があるんだろうとは思うんだけど、なかなかその事情は見えてこないし、まあ、今となってはあまり珍しくない展開ではあるんですけど、それでも面白かったです。アーリン夫人に関してウィンダミア卿が知っている真実とウィンダミア卿夫人が見た現実が平行線をたどりつつ幕、というのが面白いですねえ。からりとしていて、なかなか楽しめる戯曲でした。

「私たちはみんな同じ世界に住んでいますのよ。善も悪も、罪悪も純潔も、みな同じように手に手をつないでその世界を通っていますのよ。安全に暮らそうと思って、わざと目をつぶって人生の半面を見ないようにするのは、ちょうど、落とし穴や断崖のあるところを、もっと安全に歩いてゆこうと思って、わざと目隠しするようなものですわ」(P.113 )

ウィンダミア卿夫人、世間知らずで可愛いだけじゃなかったのね。(笑)
そして当時の貴族たちのやり取りも、いかにも~な感じで楽しめます。...調子いいよなあ。(笑) (岩波文庫)


+既読のオスカー・ワイルド作品の感想+
「サロメ」ワイルド
「幸福な王子」「ドリアン・グレイの肖像」ワイルド
「ウィンダミア卿夫人の扇」ワイルド

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1954年から59年にかけて散文や詩の小品を書き、雑誌に発表していたボルヘス。ある日エメセー書店の編集者が訪れて全集の9巻として加えるべき原稿を求められ、その時は用意がないと断るものの、執拗に粘られて、已む無く書斎の棚や机の引き出しをかきまわして原稿を寄せ集めることになったのだとか。そして出版されたのがこの「創造者」。ボルヘス自身が最も気に入っていたという作品集です。

読み始めてまず驚いたのは、何よりも読みやすいということ。「伝奇集」が途中で止まったままだというのに、こちらは一旦読み始めたら、もう止まりませんでした。うわーん、面白かったーー。確かに、ここ数年でダンテの「神曲」も、アリオストの「狂えるオルランド」も読んだし、北欧神話関連も本が入手できる限り読んでいるし、ギリシャ神話関連もそう。ギリシャ悲劇だって、今の時代に読める作品は全部読んだし。ホメロス「イーリアス」「オデュッセイア」も再読したし、ミルトン「失楽園」も... って関係あるかな? 以前よりも理解できる素地が少しは整ってきているのかとも思うのですが。訳者解説を読むと、「伝奇集」や「不死の人」「審問」などの作品には、ボルヘスの個人的な感情の発露がほとんど見られないのに、こちらでは肉声めいたものを聞くことすらできる、とのこと。やっぱりそういうのも関係もあるんでしょうね。
ボルヘス自身、とても気に入っている本なのだそう。「驚くべきことに、書いたというよりは蓄積したというべきこの本が、わたしには最も個性的に思われ、わたしの好みからいえば、おそらく最上の作品なのである。その理由は至極簡単、『創造者』のどのページにも埋草がないということである。短い詩文の一篇、一篇がそれ自体のために、内的必然にかられて書かれている」...ボルヘス自身、全ての作品をできれば5、6ページ程度に縮めたいと語っていたそうです。確かにここに収録されている作品は、それぞれにエッセンス的な濃密さを感じさせますね。カルヴィーノの文学論とはまた違うものだとは分かっていても、どこか通じるような気がしてきたり。
読んでいて一番好きだったのは

文学の始まりには神話があり、同様に、終わりにもそれがあるのだ。(P.67)

この言葉。
ああ、この夏のうちに「伝奇集」を読んでしまおうっと!(岩波文庫)


+既読のホルヘ・ルイス・ボルヘス作品の感想+
「創造者」J.L.ボルヘス
「エル・アレフ」「伝奇集」ホルヘ・ルイス・ボルヘス
「幻獣辞典」ホルヘ・ルイス・ボルヘス、マルガリータ・ゲレロ

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険しい丘と広く深いトゥイードの川、さびしげなチェヴィオットの山並みにかかるように建てられているノーラムの城の高い見張り塔に立つ戦士たちは、遠くの馬のひずめの音を耳にし、ホーンクリフ・ヒルを越えて槍を持った一群の騎馬武者たちが近づいてくるのを目にします。それはイングランド中の騎士の華・マーミオン卿の率いる騎士たち。一行は早速城に迎え入れられます。マーミオンはヘンリー8世の命令でスコットランド王・ジェイムズ4世のもとへと赴く途中なのです。マーミオンはここで道案内を得ると、翌朝早速出発することに。

ヘンリー8世の寵臣・マーミオンが主人公の叙事詩。ちゃんと叙事詩の形で訳されてるのはすごく嬉しいのですがーーー。ウォルター・スコットにしては今ひとつ楽しめなかったかも...。訳者の佐藤猛郎さんも、長い間この作品を好きになれなかったそうなので、私だけではないというのが心強いんですけどね...。でも「そこで私はこの難解な『マーミオン』にじっくり取り組んでみたら、少しはこの作品が好きになれるのではないかと思い、『マーミオン』関係の資料を集めることにした」というのが私とは違うところ! なんて素晴らしい。

主人公のマーミオン卿は、尼僧のコンスタンスを誘惑して修道院から脱走させて愛人にしてるけれど、今度は広大な土地を所有する貴族の跡取り娘・クレアに目をつけ結婚しようとする... という面もあれば、戦いにおいては勇敢で誇り高い騎士という面もある人物。スコットランド対イギリスという大きな背景の中で、マーミオンのスコットランド行きやコンスタンスの裁判、今は尼僧見習いとなっているクレアのことなどが語られていきます。
この作品で難点なのは、やっぱりこの構成でしょうね。全6曲で、その曲は純粋にマーミオンの物語詩となってるんですが、それぞれに序詩がつけられていて、その序詩は舞台となる土地のことやウォルター・スコットのことを語る、本筋とは関係ないものなんです。これを読むたびに、本編の物語詩が分断されてしまうという弊害が...。結局、本編と序詩を別々に読むことになってしまいましたよ。実際の吟遊詩人の語りならば、そんなことにはならないでしょうし、そうやって緩急をつけることによって聞き手を飽きさせない効果があるんだろうと思うんですが... この作品に限っては逆効果じゃないかしら。やっぱり文字で読む詩と、語りで聞く詩の違いかなあ。ウォルター・スコットの傑作とされている長編詩3作品のうち、「湖の麗人」や「最後の吟遊詩人の歌」は大好きなのに。その3作品にこの「マーミオン」も入ってるということは、一般的には高く評価されてるということなのに。その良さがあまり分からなくて残念です。(成美堂)


+既読のウォルター・スコット作品の感想+
「アイヴァンホー」上下 スコット
「湖の麗人」スコット
「最後の吟遊詩人の歌」ウォルター・スコット
「マーミオン」ウォルター・スコット

+既読のウォルター・スコット関連作品の感想+
「ウォルター・スコット邸訪問記」ワシントン・アーヴィング

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暇があると古文書調べをするのが好きなルイ。夏になると七都地方を巡っては古い要塞城やドミニコ修道院、打ち捨てられたジェズイット派の学寮を見てまわり、バロックの大修道院に長居して、昔の図書館の残骸から貴重な文献や手稿を発見するのです。そして、その時ルイが古くからの友人に案内されたのは、シェスブルグのとある学院蔵書が保存されている穀物倉。何千冊もの本が、版型にしたがってむくの本棚に並べられていました。これはあるドミニコ会修道院付属の図書館が起源となる蔵書で、最も貴重な部分は、数学と天文学の教授であるアロイシウス・カスパールによって集められたもの。そしてこのアロイシウスという人物は、当時ハノーヴァー王立図書館の稀覯書担当司書をしていた、哲学者のライプニッツと親しかったのです。

この物語には1章に1つずつ架空の書物が登場します。アロイシウス・ガスパールによる「ライプニッツの形而上学序説への批判的注釈」、ミゲル=アルバル・ツサニーによる「異端審問教程」、ジュゼッペという若者による「饗宴」、グロスの韻文五幕の悲劇「エル・マハディ」、そしてルイ自身による「ペルシャの鏡」。5つの章全てにおいて、書物の存在がとても大きいのです。読み進めるうちに、いきなり書物の中に引きずり込まれ、しかもその中にも他の章と同じように書物が存在して、という状態になってみたり...。途中でちらりちらりと登場する鏡も印象的。訳者解説によると、ライプニッツは「モナドは宇宙を映す永遠の生きた鏡である」と述べているのだそうで、これは作中の「ひとりひとりの魂が宇宙を総体として映しだす力を持っている」というライプニッツの言葉に通じるのでしょうね。「各実体は宇宙に対する神のあるひとつの見方を示しているのであって、同一の宇宙を見ているといっても、その見方は次々と変わっていくのだよ。そう、ちょうどひとりの散歩者にとって同じ街が観る場所によって様々に異なって見えるように」... これこそがこの作品の本質を示す言葉なのかもしれません。現実と書物が、実体と鏡に映し出された鏡像のような関係になっているようで、まるでエッシャーのだまし絵みたい。
訳者あとがきに、「ライプニッツの「可能的世界」を幻想図書と鏡で幾重にも多重化した入れ子構造の世界」とありました。でもね、そもそもライプニッツのその「可能的社会」がよく分からないのです。それがすごく要になっているはずなのに! だから作品そのものも理解しきれず... うわーん、勉強不足が悔しいです。(工作舎)

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3度目の卒中でとうとうフリン神父が亡くなったと聞いた「僕」は、翌日の朝食の後に、フリン神父が住んでいたグレイトブリテン通りの小さな家を見に行きます... という「姉妹」他、全15編の短編集。

「ダブリン市民」「ダブリンの人びと」といった題名で知られている作品の新訳。解説を見ると、「ダブリナーズ」と訳したのは「横文字をカタカナにして事足れりとする昨今の風潮に流されたのではない。タイトルのDublinersという音をそのまま残したいというこだわりから、ようやく行き着いた訳語だ」とありました。確かに都市名に-erをつけて出生者であり居住者であることを示す言葉は、ごく限られてるんでしょうけど...(Berliner、Londoner、Montrealer、New Yorker、Zuricherぐらいらしい) そしてその言葉に特別と言っていいニュアンスがあるのも分かるんですけど... 日本で認知されているのは New Yorker ぐらいですよね。Londoner だって「ロンドンっ子」なんて訳される方が一般的なんだもの。「ダブリナーズ」ですか。うーん、どうなんだろう??
なんて考えてしまう題名が象徴するように、訳者の意気込みがとても強く感じられる訳でした。一読して感じたのは、とても賑やかな訳だということ。リズムを刻むような訳。と思っていたら、音をかなり大切にした訳だということが、解説に書かれていました。この作品そのものが元々音楽的に書かれているので、その音楽を可能な限り「奏出」することを心がけたのだそうです。例えば「執達吏」と言う言葉に「ひったくり」というルビがふられてるし... 確かに言いたいことはすごくよく分かります。分かるんですけどね。でも実際のところ、どうなんでしょう。訳者の思っているほどの効果が上がっているのかな? 私としては、むしろ他の訳がとても読んでみたくなってしまったんですけどー。うーん、やっぱり私には「新訳」は全般的に相性が悪いような気がしますー。
肝心の作品の中身としては、ダブリンを舞台にした群像劇といったところ。繋がりがあるのかないのか曖昧な感じで進んでいきます。1つ1つはとても普通の物語。ジェイムズ・ジョイスという作家から想像したものとは、対極と言っていいほどの普通さ。さらりと読めすぎてしまって、逆に戸惑ってしまうようなところも...。それでも、これこそが人間の営みであり、人生なのだと、これがダブリンなのだという感じ。ジョイスはダブリンのことを愛していたのかしら。私としては、決して愛してはいないけれど、「愛憎半ばする」なんて強い感情があるわけではないけれど、それでもどうしてもそこから離れられないという存在だったような気がします。要するに腐れ縁?(笑)(新潮文庫)

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5月のはじめ、かなり遠くまで散歩に出かけた初老の作家・グスタアフ・フォン・アッシェンバッハは、ふいの旅行欲におそわれて、ヴェニスに向かうことに。そしてヴェニスで出会ったのは、ポーランドの上流階級らしき一家。その中でも14歳ぐらいの美しい少年に,アッシェンバッハは目を奪われます。蒼白な肌に蜜色の巻き毛、まっすぐとおった鼻とかわいい口、やさしい神々しいまじめさを浮かべている顔... アッシェンバッハはじきに彼の姿を目で追い求めるようになり、そのうち少年の後を追い、つけまわすようになります。

最初は、気軽に読み解かれるのを拒否するかのような長い文章が続いていきます。でもそれが第3章でヴェニスに到着した頃から、徐々に変わり始めるんですね。長く装飾的だったはずの文章は短くなり、歯切れが良くなり、みるみるうちに読みやすくなって...。これはきっと、アッシェンバッハの精神的な変化を表したものでもあるんでしょうね。そして素晴らしいのは、やっぱりヴェニスに到着した後の物語。
物語の展開としては、比較的単純なんです。老作家がタッジオと呼ばれる美少年に出会い、その美しさや存在に心を奪われ、次第に夢中になっていくというだけのもの。アッシェンバッハは美少年を付け回してはいるんですが、2人の間に具体的な接触はありません。美少年に付きまとう執拗な視線だけ。でもこの出会いによって、老作家の世界がどれほど変わったことか。既に老醜の域に入っているアッシェンバッハの執拗な視線は、少年に薄気味悪さを感じさせたでしょうし、周囲にいる人間にとっても、滑稽で奇異な光景だったはず。そうでなくても、辺りには不穏な空気が流れていて、ものすごく不安を掻き立てるような空気。足場のバランスが悪すぎて、まっすぐ立っていられないような感覚。でもその中で、アッシェンバッハの心だけはこの恋によって純化して、非常に美しいものへと昇華していくんですね。
そして結果的にこの恋が連れてきたのは死なんですが... でもたとえ少年が死の天使だったとしても(私のイメージとしては、ギリシャ神話で神々に不死の酒ネクタルを給仕するガニュメデスなんですが)、老作家の旅が結果的に死の天使に搦めとられるためだけのようなものだったとしても、それは彼にとって最高に美しく幸せな日々だったはず。そんな純粋な日々が、愛おしく感じられてしまうのです。

ただ、この作品気になってしまったのは訳。解説に訳の素晴らしさについて触れられてたんですが、元々は旧字・旧仮名遣いの訳だったんでしょうし、そういう形で読まないと、その素晴らしさは堪能しきれないのではないかと... なんだかもったいなかったような気がしてしまいます。

そして「ヴェニスに死す」といえば、やっぱりヴィスコンティの映画! と思って右にDVDの画像をはりつけてみましたが... うーん、私が知ってるものとはちょっと違うなあ。この映画での老作家は、確かマーラーがイメージになってるんですよね。老作家ではなくて老作曲家で。私は気になりつつ観てなかったんですが。ああ、今こそ観てみたいぞ!(岩波文庫)

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17歳になっていたキャサリン・モーランドは、近隣で一番の財産家・アレン氏が通風の持病を治すためにバースに行く時に、誘われて一緒にバースに行くことに。ずっと田舎で暮らしてきた彼女は、華やかなバースの生活に夢中になります。バースにある社交場の1つロウアー・ルームズでは魅力的な青年・ティルニーを紹介されて好意を抱き、鉱泉室ではアレン夫人が旧友のソープ夫人に再会したことによって、ソープ夫人の長女のイザベラとすっかり親しくなるキャサリン。しかもソープ一家は、キャサリンの兄のジェイムズのことを知っており、既に親しくしていたのです。

この作品が出版されたのは書かれてから13年後、「分別と多感」や「自負と偏見」「エマ」より後とかなり遅くなったものの、ジェーン・オースティンが23歳の時に書かれたという初期の作品。作中でアン・ラドクリッフの「ユードルフォの謎」という作品が何度も引き合いに出されてるんですが、訳者あとがきによれば、そういった当時流行のゴシック小説の人気の過熱ぶりを皮肉って、パロディとして書かれた面もあるとのこと。13年経つうちに、小説の流行もバースの街の雰囲気もすっかり移り変わって時代遅れになってしまったため、わざわざその辺りのことを序文で説明しているほどです。21世紀の今読む分には、13年程度のずれなんて何ほどのものでもないんですが。(笑)

ゴシック小説のパロディと知ってみれば、「キャサリン・モーランドを子供時代に見かけたことのある人なら、誰も彼女がヒロインになるために生まれた人だなどとは思わなかっただろう」という書き出しからして可笑しいですし、その他にもヒロインらしからぬ部分が一々指摘されて、期待されるような波乱に満ちた展開にはならなかったことがわざわざ書かれているのが楽しいです。でもそれはあくまでもお楽しみの部分。物語の中心となるのはキャサリンとジェイムズのモーランド兄妹、イザベラとジョンのソープ兄妹、ヘンリーとエリナーのティルニー兄妹のこと。3組の兄妹たちの姿を通して当時の生活ぶりが見えてくるのが楽しいのも、世間ずれしていない可愛らしいお嬢さんのキャサリンがソープ兄妹に振り回されて、今でも決して古びることのない人間関係の面白さが味わえるのも、他のオースティン作品と同様ですね。今回特に印象に残ったのは、気軽に流行語を使うソープ兄妹、それに感化されて何の気なしに軽い言葉を使うようになったキャサリンをからかうヘンリー・ティルニー、と言葉遣いの違いによって3兄妹の違いが際立っていたことでしょうか。あまり意外な展開もなく、一応波乱はあるものの取ってつけたような波乱ですし、予想通りの結末へと真っ直ぐ進んでいくので、他の作品ほどの評価は得にくいかもしれないですが... でも十分楽しかったです♪

ジェーン・オースティンの長編作品では、これだけが文庫になってないんですよね。なので読むのが遅くなっちゃいましたが、これで長編はコンプリート。あとは「美しきカサンドラ」と「サンディトン」という2つの作品集を残すだけみたいなんですが... 短編作品もあるものの、未完のものだったり断片だったりというのも混ざってるようで、読むかどうかちょっと迷うとこだなあ。(キネマ旬報社)


+既読のジェイン・オースティン作品の感想+
「自負と偏見」オースチン
「エマ」上下 ジェイン・オースティン
「分別と多感」ジェイン・オースティン
「マンスフィールド・パーク」ジェイン・オースティン
「ジェイン・オースティンの手紙」ジェイン・オースティン
「説きふせられて」ジェーン・オースティン
「ノーサンガー・アベイ」ジェーン・オースティン

+既読のジェイン・オースティン関連作品の感想+
「ジェイン・オースティンの読書会」カレン・ジョイ・ファウラー

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町の高い円柱のうえに立っていたのは幸福な王子の像。全身うすい純金の箔がきせられ、目には2つのサファイア、刀の柄には大きな赤いルビーがはめられ、非常な賞賛の的。そんなある夜、一羽のツバメがエジプトに向かう途中、幸福の王子のいる町を通りかかります... という「幸福な王子」他、全9編を収めた短編集。と、
画家のバジル・ホールウォードのモデルとなっていたのは、美貌の青年・ドリアン・グレイ。彼は、ちょうどアトリエを訪ねて来たヘンリー卿に自分の美しさを改めて教えられ、同時に美しさを失うことへの恐怖をも植えつけられ、そして快楽主義者であるヘンリー卿の感化で、背徳の生活へと踏み出すことに。しかしその生活による外面的な変化は全て肖像画に表れ、ドリアン・グレイ自身はいつまで経っても若い美青年のままだったのです... という「ドリアン・グレイの肖像」。

先日再読した「サロメ」が思いのほか素晴らしかったので、そちらを訳している福田恆存さんの訳で読みたかったんですけど、「幸福の王子」はどうやら訳してらっしゃらないようですね... 残念。「ドリアン・グレイの肖像」は福田恆存さんの訳なのですが。

「幸福の王子」は、実は子供の頃に大嫌いだった作品なんです。ワースト3に入ってました。何が嫌いって、幸福の王子の偽善的なところ。自分は貧しい人々を助けて満足かもしれないけど、そのために死んでしまったツバメはどうするの...?ですね。王子の思いやりが素晴らしい、なんて思わなかったし~。で、大人になった今読み返してみても、やっぱり凄い話でした。確かにツバメも納得してやってることではあるんだけど... しかも大人になってから読むと、さらに気になることがいっぱい。宝石や金箔を届けられた人は、その場は有難かったでしょうけど、金箔はともかく、立派なサファイアやルビーはどこから取ってきたのか一目瞭然のはず。疑われることにならなかったのかしら? もしそんなことにならなかったとしても、貧しくても正しく生きてきた生活がそれで一気に崩れてしまったりしなかったのかしら? 幸福の王子は、自分の目に見える範囲のほんの数人を助けたけど、その他の可哀想な人々はどうなるの? 全てに責任が取れないのなら、中途半端に手を出さない方がいいのでは?(千と千尋だね!) やっぱり幸福の王子の行動は自己中心的なものとしか映らないなあー。
そして今、他の作品を読んでみてもそういう物語ばかりでびっくりです。美しい言葉で飾られてはいるけれど、自己中心的な人々が純情な正直者を傷つける物語ばかり。赤いばらを欲しがった学生のために無意味に死んでいったナイチンゲールや、粉屋に利用されるだけ利用された正直者のハンス。死んでしまってなお、酷い言葉を投げかけられる侏儒。そんな物語も、オスカー・ワイルドの手にかかるとあまりに美しいのだけど...。オスカー・ワイルドはどんな気持ちでこういった作品を書いたのかしら。多分これが「童話集」でなければ、私も別にそこまで引っかからなかったんじゃないかと思うんですが...。(笑)

そして「ドリアン・グレイの肖像」は、肖像画がその罪を一手に引き受けてくれるという、今読んでも斬新な設定が楽しい作品。画家のバジルは画家ならではの鋭い目で「ひとりの哀れな人間に罪があるとすれば、その罪は、かれの口の線、瞼のたれさがり、あるいは手の形にさえ現れるのだ」と言うんですけど、ドリアン・グレイがいくら悪行を繰り返しても、外見は18年前に肖像画が描かれた時と同じ。顔つきは純真無垢で明るく、穢れをつけない若さのまま。
美貌の青年にとって、その美貌をなくすことは何よりも耐え難いことなんですけど、そのきっかけを作ったのはヘンリー卿。「美には天与の主権があるのだ。そして美を所有する人間は王者になれる」と言いながら、続けて「あなたが真の人生、完全にして充実した人生を送りうるのも、もうあと数年のことですよ。若さが消えされば、美しさもともに去ってしまう、そのとき、あなたは自分にはもはや勝利がなにひとつ残ってないということに突然気づくーー」なんて言うんですね。このヘンリー卿の言葉がどれも面白いし、その印象も強烈。やっぱりヘンリー卿には、オスカー・ワイルド自身が投影されてるのかしら。彼がドリアン・グレイの悪行にまるで気づいていないのが不思議ではあるんですが... 影響を与えた彼自身は快楽主義者としてではあっても、一般的な社会生活からは逸脱してませんしね。うーん、彼こそが本物だったということなのかもしれないな。あと、彼がドリアン・グレイに貸した本が背徳のきっかけになるんですけど、あれは何の本だったんだろう! 例えばマルキ・ド・サドとか?(笑)
そしてこの作品で特筆すべきなのは美へのこだわり。ドリアン・グレイ自身も美しい物が大好きで色々と収集してるんですけど、彼の存在自体がもう美しく感じられますしね。そして作品そのものもあまりに美しい...。とは言っても、その美しさは天上の美しさではなくて、堕天使の魅力なのですが。オスカー・ワイルドの美意識が全開の作品だと思います。(新潮文庫)


+既読のオスカー・ワイルド作品の感想+
「サロメ」ワイルド
「幸福な王子」「ドリアン・グレイの肖像」ワイルド
「ウィンダミア卿夫人の扇」ワイルド

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ナポレオン戦争時代のセルビア。トリエステの船主でもあり劇団の所有者でもあり、フランス軍騎兵隊の大尉でもあるハラランピエ・オプイッチと、ギリシャ系の母・パラスケヴァの息子として生まれたソフロニエも、今やナポレオン軍騎兵隊の中尉。幼い頃から大いなる秘密を心に抱き、自分を変えたいと強く願ってきたため、彼の中にはいつしか密かで強力なものが芽生え、若きオプイッチの体には変化が現れます...。

22 枚の大アルカナカードと56枚の小アルカナカードから成るタロットカード。この本はそのタロットカードの、大アルカナカードをなぞらえた物語。カードと同じく全部で22の章に分かれていて、最初から順番に読むこともできれば、タロット占いをしながらそれぞれのカードに対応する章を読んでいくことも出来るという趣向。パヴィッチはこれまでも色んな趣向の作品を書いていて、小説の構造や形態で遊びながら、読者を巻き込むタイプの作家さんみたいですね。巻末には実際にタロットカードがついていて、切り取れば占いに使えるようになってるんです。その図柄はミロラド・パヴィッチの息子のイヴァン・パヴィッチが描いたもの。まあ、私には本を切り取るなんてことはできませんが...。(笑)

タロットカードといえば、真っ先に思い浮かぶのがカルヴィーノの「宿命の交わる城」(感想)。それとどんな風に違うんだろう? それにどこから読んでも大丈夫って一体どういうこと? なんて思ってたんですが、やっぱり全然違いますね。まず、巻頭の「本書におけるWho's who 登場人物の系譜と一覧」に、この作品の登場人物に関するデータが揃っていました。ここで書かれている人間関係は結構入り組んでいて、飲み込むのがなかなか大変なんですけど、この5ページさえしっかり読んでおけば、あとはまず困らないでしょうね。なるほど、そういうことだったのか!
私は、まずは最初から通して読んだんですけど、これでもとても面白かったです。1枚1枚のカードに沿った物語は、正位置にも逆位置にも対応しているようだし、最初の「愚者」のカードから22番目の「世界」のカードまで順番通りに通して読んでも、きちんと筋の通る小説となってるのがすごい。最初のスタート地点にいる愚者は、21の通過儀礼を通り抜け、世界を知るというわけなんですね。もちろん、元々のタロットカードの順番そのものがよく出来てるというのもあるでしょうけど、でもやっぱりすごいな。しかもこの文章というか世界観というか、もう遊び心が満載で楽しいんですよー。読んでいて嬉しくなってしまうような、大人のお遊び。今回は最初から通して読んだけど、次はランダムな順番でも読んでみたいな。あー、カルヴィーノも再読したくなってきた。

これは、先月出た松籟社の「東欧の想像力」の4冊目。3冊目の「ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし」も早く読まなくちゃです。(松籟社)


+既読のミロラド・パヴィチ作品の感想+
「帝都最後の恋 占いのための手引き書」ミロラド・パヴィッチ
「風の裏側 ヘーローとレアンドロスの物語」ミロラド・パヴィチ

+シリーズ既刊の感想+
「あまりにも騒がしい孤独」ボフミル・フラバル
「砂時計」ダニロ・キシュ
「帝都最後の恋」ミロラド・パヴィッチ

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夜中の11時にRに到着した「私」は、そのままホテルへ。翌朝、「私」はカスパール氏に連れられて行った集会場所で、褐色と黒色の斑模様の毛の長い大きな猫に出会います。膝の上に飛び乗った猫は、しばらくすると離れ、10メートルほど行ったところで立ち止まってこちらを振り返り、地面に3度でんぐり返し。以前から不意をつかれる動作、特に動物の示す思いがけない動作には重要な意味があると考えていた「私」は、その日の7時の汽車に乗ることにしていたにも関わらず、ホテルに滞在し続けることに。

以前から気になっていた本です。読みたい読みたいと思いつつなかなかだったんですが、先日レメディオス・バロの「夢魔のレシピ」(感想)とレオノーラ・キャリントンの「耳ラッパ」「恐怖の館」(感想)を読んだ時に、今度こそ!と思って、ようやく読めましたー。レオノール・フィニも、レメディオス・バロやレオノーラ・キャリントンと同じくシュールレアリスムの画家。他の2人と同様、小説も書いてるし、映画や舞台の衣装も手がけ、デザインしたスキャパレッリの香水瓶は大人気だったとか。レオノール・フィニ自身、好んで猫の絵を描いていて、一時期は23匹の猫を飼っていたこともあるという相当の猫好きさん。
そしてこの物語も猫の物語。「私」の前に現れた黒と褐色の大きな猫は、「私は夢先案内人(オネイロポンプ)だ」と名乗り、ホテルの中庭にある玄武岩でできた顔像を盗むよう「私」に指示します。猫が現れる前から現実と幻想が入り混じり始めていた物語は、ここではっきりと幻想へと一歩踏み出すことに。これは夜見る夢のようでもあり、白昼夢のようでもあり... 幻想、幻想、そしてまた幻想。汽車の中で出会った不思議な年齢不詳の婦人、彼女に誘われて訪れたマルカデ街の「潜水夫」館、ヴェスペルティリアという名前との再会。猫と一緒に訪れた、パリでも老朽化した界隈にあるとある家、etcetc。...やっぱりあの美術館となっている家での場面が圧巻だったな。絵画の猫たちの場面。知らない画家が多かったので、それがちょっと残念だったのですが、思いっきり検索しまくりましたよ。こういう時、ネットってつくづく便利~。
不思議な幻想物語。全部理解したとは言いがたいんですけど、レオノーラ・フィニの描く猫の絵を眺めながら読んでいると、頭の中で1つの世界が見る見るうちに構築されていくのが感じられるようで、素敵でした。(工作舎)

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「賭けをした男が牛の体内にもぐり込む。もぐり込んでみて、結局そこに居すわることにする。牛の内部は暖かく柔らかだ。とても暗いけれど、皮膚を通って入ってくるわずかな光で何とかやって行ける。食べ物は問題ないーー牛乳ならいくらでもあるのだ。「絞りたてよりなお新鮮」と男は一人でジョークを言ってくすくす笑い、靴下を脱ぐ。べつに服なんか必要ないのだから。服を丸めてしかるべきへこみに押し込む。服の運命やいかに、と男は考える...」こんな文章で始まる「牛乳」他、全149編の超短編集。

とんでもない話が次から次へと展開されていく、まるで悪夢を書き連ねたような短編集。どれもまるで実際に夢の話を聞いているような感じで、脈絡がなくて非論理的。小説としてはまるで筋が通っていません。でもこれがとっても面白いのです~。そもそも夜にみた夢の話というのは、余程話すのがうまい人間ではないと、なかなか他人に面白く感じさせられないもの。それだけ夢の中の空気感を客観的に伝えるというのは難しいものだと思うんですが、バリー・ユアグローの場合は違いますね。もし本当に夜にみた夢の話をしても、きっと面白可笑しく語ってくれるのではないでしょうか。ここに収められている作品はどれもとても映像喚起力が強くて、しかもリズムがいいので、どんどん読み進めてしまいますし、文字として書いてあること以上にいろいろ想像してしまいます。トーキング・ヘッズのデイヴィッド・バーンは「デューク・エリントンの曲のなかでも僕がとりわけ気に入っている一連の歌のように、そこでは崇高と滑稽が合体している」「自分の夢をどうしても覚えていられない僕にとって、ユアグローの小説は格好の代用品である」と語り、出版社は「フランツ・カフカとモーリス・センダックとモンティ・パイソンが同時に夢を見てるような」という宣伝文句を使っているそうですが、その言葉がまさにぴったり。意外とブラックな笑いなのに、読んでいる間はそのブラックさにあまり気づかず、無邪気に笑っていられるような感じです。(デューク・エリントンのお気に入りの一連の曲って何だろう??)

ただ、149作品がどれも同じように「変」な話ばかり。1~2ページと短い作品ばかりだし、それらの作品は互いに関連性もないので、全部続けて読むのは少ししんどいかもしれません。バリー・ユアグローの2作目「一人の男が飛行機から飛び降りる」と3作目「父の頭をかぶって」がイギリスで2冊合本のお買い得版として出版されたことから、今回の日本語訳もそのように出版されたようなんですが、これは1冊ずつでも十分だったような気が...。枕元に置いておいて、その晩開いたところをいくつか読む、というのがこの本の楽しみ方としては一番正解のような気がします。(新潮文庫)

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去年、演劇研究所の招きでスウェーデンを訪れた時のこと。その晩、案内役のヨハンソン夫人に連れて行かれたのは王立図書館でした。夜の11時頃に図書館に入った「私」は、その一晩を一人っきりで図書館の中で過ごすことになります。そして、その図書館で私が見つけたのは、かの有名な「死者の百科事典」。「私」は2ヶ月前に亡くなった父に関すること全てが書かれている本を見つけ、読みふけることに... という表題作「死者の百科事典」他、全9編の短篇集。

先日読んだ、同じくダニロ・キシュの「砂時計」は、実はとても読みにくくて、もうどうしようかと思ったほどだったんですけど(挫折寸前でした)、でも読み終えてみればすごく印象に残る作品だったんですよね。こちらも全てを理解したとは言いがたいし、短編は苦手なので途中で集中力が途切れてしまったりはしたのだけど、逆に短編のせいか「砂時計」の時のような読みにくさは感じなかったです。全体的にとても濃厚な味わいの、愛と死をテーマにした幻想的な作品群。

9編の中で気に入ったのは「魔術師シモン」「死後の栄誉」、そして「祖国のために死ぬことは名誉」かな。表題作も良かったです。死者の百科事典というのは、無名の人々の生涯が事細かに書き綴られている百科事典。「私」が見つけて読むことになるのは、亡くなった父に関する部分なんですけど、その出生から生い立ち、起きた出来事、出会いや交友関係などが正確に細々と書き綴られています。そんなのが全て一々書かれていたら、到底一晩で読みきれるような量じゃないでしょう、なんて突っ込みはナシの方向で、なんですが(笑)、この本文を追っていく作業もいいんです。読んでるはしから、父親像が色鮮やかに形作られていく感じ。でもそれだけなら、ただ追憶に浸る物語となってしまうところなんですが、それが最終的には思いがけない方向へいくのがいいんですよね。これがとても圧倒的。そして視覚的にも鮮やかで。

「魔術師シモン」は伝説、「死後の栄誉」は回想、「死者の百科事典」は娘が語る父の生涯、「眠れる者たちの伝説」はコーランのような聖典風、「未知を映す鏡」は幻想小説、「師匠と弟子」は文学論、「祖国のために死ぬことは名誉」は歴史書、「王と愚者の諸」は推理小説、「赤いレーニン切手」は書簡、「ポスト・スクリプトゥム」はメタ・テキストと、それぞれに形式が違うのは、レーモン・クノーの「文体練習」(感想)によるところも多いとのこと。キシュ自身、「文体練習」をセルビア語に翻訳してるんだそうです。とってもとっても感想が書きづらくて、今まさに困ってるんですが(笑)、でも確かに「文体練習」みたいな万華鏡的な味わいのある作品集だったな、なんて思いますね。(東京創元社)


+既読のダニロ・キシュ作品の感想+
「砂時計」ダニロ・キシュ
「死者の百科事典」ダニロ・キシュ

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11月の晩。家に戻ったマーガレット・リーは、手紙が届いていることに気づきます。宛名の文字は筆圧にむらがあり、唐突に途切れていると思えば、深々と紙に食い込んでいる箇所もある、子供が書いたようなもの。しかしそれは作家のヴァイダ・ウィンターからの手紙でした。英国で最も敬愛されている人気作家であるヴァイダ・ウィンターは、20人以上の伝記作家に自分が作り上げた身の上話をして煙に巻いてきたことで有名な人物。その人物が、趣味の範囲で過去の作家についての伝記を書いているに過ぎないマーガレットに、自分の伝記を書くためにハロゲートまで来て欲しいと言ってきたのです。

私の場合、まずハロゲートという土地が懐かしすぎて、胸がきゅんきゅんしちゃったんですけど...(笑)
謎が謎を呼ぶ物語。まず一番大きな謎は、ヴァイダ・ウィンターの生涯の謎。「本当の話をするから」とマーガレットを呼んだヴァイダなんですけど、彼女の語る物語は全て真実とは限りません。何ていっても、これまで散々伝記作家たちを翻弄してきたヴァイダだし、物語を作る才能は万人が認めるものですしね。そしてその大きな物語の影に隠れてはいるけど、小さな謎もあります。それはヴァイダの伝記を書こうとしているマーガレットの謎。

荒れ果てた屋敷、精神に異常をきたした兄妹、双子、家政婦、庭師、彼らを救おうとする家庭教師、幽霊... ヴァイダの語る自身の物語は、ヨークシャー地方の大きな屋敷に住む異様な家族の物語。常に陰鬱な空気が漂っていて、それはまるで作中に何度も登場する「ジェイン・エア」みたい。この作品は「ジェイン・エア」へのオマージュなのかな?と思ったんですが、でもそれだけじゃないですね。話の中には他にも色んなゴシック小説が登場するし、そういった作品それぞれの雰囲気も少しずつ見えてくるんです。家庭教師と幽霊の辺りは「ねじと回転」でもありますし。このヴァイダの語る物語が面白くて、そこに潜む謎が気になって、どんどん読み進めてしまいました。時にはちょっぴり無理矢理のように感じられてしまった部分もあったんですが、終盤次々と明かされる真相にびっくり! それに「本」や「物語」への愛に満ち満ちてるところも良かったなあ。作中でのこんな言葉に思わず深く頷いたり。(笑)

わたしたちは、ある一点について同じ意見をもっていた。つまり、世の中には膨大な数の本があって、生きているあいだに読むことがでいる数はかぎられているということだ。どこかで線を引いておかなくてはならない。(P.55)

訳者あとがきに、作中に登場する作品の一覧が載ってるんです。「水の子どもたち」「白衣の女」「嵐が丘」「ジェイン・エア」「オトラントの城」「オードレー夫人の秘密」「幽霊の花嫁」「ジキル博士とハイド氏」「ヴィレット」「ミドルマーチ」「シャーリー」「分別と多感」「エマ」「ユースタスのダイヤモンド」「ハード・タイムズ」「ねじの回転」...私が読んでるのは半分ぐらいなんですけど、その半分の作品のそれぞれの作品が、この「13番目の物語」の中で生きてる気がしました。全部知ってたら、もっと楽しめたんでしょうね! 久々にゴシックロマンが読みたくなってきちゃいましたよ。(NHK出版)

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黄昏時。騎士・タンホイザーはウェヌスの丘にいたる暗い通い路の下にたたずんでいました。一分の隙もない身仕舞いをしておきながら、この1日の旅行でそれが乱れてしまったのではないかと丹念に直すタンホイザー。その時、かすかな歌声がこだまのように山の上から漂ってきます。タンホイザーは携えた小さな七弦琴(リュート)をごく軽くかきならし、その歌に伴奏をつけ始めます。

ヴィクトリア朝末期の夭折の天才画家・ビアズレーの唯一の散文作品。これ、何箇所かで紹介されていたので存在は知ってたんですけど、タンホイザー伝説を題材にした作品だったんですね! それを知らなかったので、読み始めてびっくりしちゃいました。(紹介記事の一体どこを読んでたんだ、私) ワーグナーもこの伝説を元にオペラ「タンホイザー」を作りあげてますが(感想)、そちらの作品はタンホイザーがウェヌスの城から立ち去ろうと決意を固める場面から始まるんです。こちらはそれとは対照的に、タンホイザーがウェヌスの城に迎え入れられ、享楽的な生活を送り始める場面から。でも未完。
作中にはビアズリー自身による挿画も多々織り込まれていて、この世界観がすごくよく分かるものとなっていました。タンホイザーという人物は、13世紀頃の騎士であり詩人でもあった人物のはずなんですけど、まるで19世紀末のダンディなイギリス紳士みたい。ここで私が思い浮かべたのは、まずオスカー・ワイルド。そんな感じのイギリス的な優雅さを持っていて、デカダンスという言葉がぴったりな人物像です。そして、まさにそんな雰囲気の作品。ウェヌスが中心のはずなのに、異教的な匂いも全然感じられませんでしたし。
よくよく考えてみれば、19世紀末といえばとーーーっても品行方正なイメージの強いヴィクトリア朝で、ここに描かれてる自由奔放な性は、とてもじゃないけどその時期の作品とは思えないんですが... その時代にも、当然のように隠れ家的なサロンはあったんでしょうね。あらゆる道徳観念から解放されて、空中浮遊しているような印象すらあります。ものすごーくエロティックなんだけど、あくまでも優美。でもビアズレーの夭折によって、タンホイザーがウェヌスの丘に入り込んで間もなく、話は唐突に終わってしまいます。このままワーグナーのタンホイザーに雪崩れ込んでしまっても、違和感ないかもしれないなあって思って、なんだか不思議な気もしたんですが... そういえばワーグナーとビアズレーって、ほぼ同時代の人なんですよね。特に不思議はないのかな?(中公文庫)

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英雄となったシーザーの凱旋出迎えるローマの人々。アントニーが3度シーザーに捧げようとした王冠をシーザーは3度とも退けます。しかしキャシアスやブルータスは、シーザーの野望を危惧していたのです... という「ジュリアス・シーザー」。そしてシーザー亡き後のローマ。シーザー暗殺者たちを追討する軍を起こし、さらにギリシャや小アジアに進軍していたアントニーが出会ったのは、エジプトの女王・クレオパトラでした。アントニーはクレオパトラと恋に落ち、その冬をアレクサンドリアで過ごすことに。そんな時、アントニーの妻・フルヴィアと弟がオクテイヴィアスを相手に反乱を起こします... という「アントニーとクレオパトラ」。

「ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以降」(感想)の関連で読んだ本。
「ジュリアス・シーザー」は、もっとシーザー中心かと思っていたので、実は主役でも何でもないことを初めて知ってびっくり。いえ、もちろんシーザーも登場するんですけど、むしろシーザー暗殺という事件をめぐるブルータスの物語だったんですね。もしくはブルータスとアントニー。暗殺後、市民を前にブルータスとアントニーは演説をするんだけど、ここがすごい。「私はシーザーを愛していた。しかし、それ以上にローマを愛していたのだ」と言って民衆を味方につけたブルータスなんですが、自分の演説が終わってもアントニーの演説を聞くようにと市民を説得するんです。でもそれに対してアントニーは。アントニーは決してブルータスを誹謗中傷しないし、それどころかブルータスの人格を褒めちぎるんですけど... さすが弁論術の盛んだった古代ローマ。
そしてこのアントニーは「アントニーとクレオパトラ」にも登場するんですが、こちらは「ジュリアス・シーザー」とは全然違う大人の恋愛物語。「ロミオとジュリエット」のあの若い恋心とは対極にあるかのような成熟した恋愛。2人とも大人ですしね、役者ですよ。私の知り合いの男性(年上・独身)が、「なんかこう、気持ちよく騙されたいわけだ」という意味のことを口癖のように言ってたんですが、こういうことだたったんだな。(ほんと?) 若さで突っ走るわけにもいかない大人にとっては、恋愛における演技力の重要性というのは、実はとても高いのかも。ま、歴史的真実としては、おそらく、純情な男を手玉に取ったしたたかな女という構図なんでしょうけど、この描き方はとてもシェイクスピアらしい気がします。

シェイクスピアは、子供の頃読んだチャールズ・ラムのを皮切りに結構読んでるはずなんですけど、むしろ嫌いだったんですよね。その後ちゃんとしたのを読んでも、何がいいのかよく分からなくて。どこかで読んだような話ばっかだし! でもやっぱりオコサマには理解できないものだったのかも。ここ数年で読み返したり新たに読んだものの方が断然楽しいです。(新潮文庫)


+既読のシェイクスピア作品の感想+
「プークが丘の妖精パック」キプリング 「夏の夜の夢・あらし」シェイクスピア
「ジョン王」ウィリアム・シェイクスピア
「ジュリアス・シーザー」「アントニーとクレオパトラ」シェイクスピア
「ハムレット」シェイクスピア・「新ハムレット」太宰治
「マクベス」シェイクスピア
「トロイラスとクレシダ」ウィリアム・シェイクスピア

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5年前に最愛の妻を亡くした翌日にブリュージュに来て以来、ここに定住しているユーグ。妻と2人で様々な国に住みながら、いつまでも変わらない熱情でもって愛を味わっていたのに、やっと30歳を迎える頃、わずか数週間寝込んだだけで妻は亡くなってしまったのです。今も屋敷の客間には亡き妻の所持品や彼女の手が触れたもの、肖像画、今なお色褪せない妻の金色の髪などが安置されていました。家政婦のバルブが客間を掃除する時は、彼自身が必ず立ち合うほど大切にされている品々。しかしその日夕暮れが近づいて日課の散歩に出たユーグが見かけたのは、1人の若い女。そのパステルカラーの顔色、真珠母の中に暗い瞳を大きく開いた眼、そして琥珀と繭の色のしたたるような正真正銘の金色の髪は、亡き妻に生き写しだったのです。

服部まゆみさんの「時のアラベスク」を読んで以来興味を持っていたのですが、ようやくこちらも読むことができましたー! 19世紀のベルギーの詩人・ローデンバックによる、まるで詩のような味わいのある小説。陰鬱な、それでいてこの上なく美しいブリュージュの街を舞台に繰り広げられていく物語。

最愛の妻を死によって失ったユーグ。その女性を再び得ることができたと思うところから物語は始まります。でも当然、2人の女性は同じ人間じゃないですよね。ジャーヌは踊り子だし、亡くなった妻のような気品ある女性ではないんです。(ユーグはおそらく貴族か、それに準じる階級のはず) そうでなくても、死による思い出には誰も太刀打ちなんてできないもの。死んだ人間は、それ以上老いることもなく、そのまま永遠に美しく昇華され続けていくんですもん。2人は別の存在だと、ユーグ自身、徐々に気づくことにはなるのですが...。
途中、書割ということでブリュージュの風景を始めとする写真が多数挿入されています。ローデンバック自身がはしがきで「その町の風景は、たんに背景とか、少々独断的に選ばれている叙景の主題としてあるだけでなく、この書の事件そのものと結びつく」と語っています。ユーグ自身「死んだ妻には死の都が照応しなければならなかった」と考えてますし、ブリュージュの情景がユーグ自身の心象風景にもなってます。やっぱりこの作品の本当の主役は、ブリュージュの街そのものなんですね。死の影に覆われたブリュージュの街。本来なら、そこには人々の賑やかな日々の営みがあるはずなのに、実際には人々は影でしか感じられないし、ユーグ自身、この街に来た時には既に死の影に囚われてます。そんなブリュージュの街で、ジャーヌだけが浮いた存在になるのも無理もないこと。この作品の中ではジャーヌだけが正反対の「生」、モノトーンの中で1人色鮮やかな存在なんですから。でもこの街は、そんなジャーヌも自分の中に取り込もうとします。
健全な観光都市である現実のブリュージュの街側としては、この「死都」というイメージに憤激したのだそうです。美しい作品だし、ブリュージュもこの上なく美しく描かれてるんですけどね。確かに憤激するというのも、無理ないかもしれないですねー。(岩波文庫)

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「妖婦ミレディーの秘密」から20年後。ルイ13世もリシュリューも既にこの世になく、まだ若いルイ14世が王位に着き、大后アンヌ・ドートリッシュが摂政になっていました。リシュリューの後釜となったのは、アンヌ・ドートリッシュと極秘結婚をしたイタリア人のマザラン。しかし重税を課したこともあり、マザランには人望がなく、世の中はマザラン派とフロンド派に二分されることに。そしてダルタニャンは、未だにトレヴィル銃士隊の副隊長としてくすぶっていました。ダルタニャンに目をつけたマザランは、かつての仲間たちを集めるようダルタニャンに要請します。

「ダルタニャン物語」の第2部。フロンドの乱(1648-1653)のフランス、そして清教徒革命(1641-1649)のイギリスが舞台となります。第1部から20年も経ってしまっているのがびっくりなんですが、その仲間たちもそれぞれの人生を送っていて、今やまるで音信不通状態だなんて! なんてこと!! でもその仲間が20年ぶりに集まることになります。歴史的背景の説明をしなければならないこともあって、前振りはちょっと長いんですが、ダルタニャンがかつての仲間を訪ね歩く頃から俄然面白くなりました。4人それぞれに主義主張や立場は違ったとしても、一度顔を合わせてしまえば良い仲間。でもここにリシュリューがいないのが、なんだか寂しくなってしまうんですよねえ。あれだけ悪役だったのに! あれだけヤなヤツだったのに! でもやっぱり大人物でしたね。小策士なマザランとは器が違ーう。

イギリスではチャールズ1世を助けようとする4人。チャールズ1世って、もっと無能などうしようもない人かと思ってたんですけど、いい人じゃないですか。(笑)...リシュリューもマザランもそうなんですけど、こういう風に歴史上の人物が肉付けされて動き出すのがまた楽しいですね。先日ホフマンで読んだスキュデリー嬢(感想)も登場してましたよ。そういえば、ルイ14世の頃の人でした! ホフマンの作品では老嬢だったスキュデリー嬢なんですけど、この時点ではまだ若く美しい女性。既に兄の執筆を手伝って、才能を発揮し始めているようです。
でもやっぱり第1部の「三銃士」ほどではなかったかな。やっぱりあちらは大傑作でしたね。こちらも面白いんだけど「大傑作」とまではいかないです。第3部への伏線もあるからかもしれません。

上に画像を出しているのは、今も入手可能のブッキング版ですが、私が読んだのは講談社文庫版。これが、文中の注釈や登場人物表にネタバレがあってびっくり... 復刊した時に訂正されてたりするのかしら? 登場人物表なら見ずに済ますこともできるけど、文中の注釈となると、ちょーっとキツいですねえ。(講談社文庫)


+シリーズ既刊の感想+
「ダルタニャン物語」1・2 A・デュマ
「ダルタニャン物語」3~5 A・デュマ

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姪に借りた車で息子のグレアムに会いに行くフランクリン。息子が傍にいるといいアイディアが浮かぶことを懐かしく思い出すのですが、出迎えたのは見栄えのいい筋肉質の20代後半のユダヤ人青年。自分の息子がゲイで、この青年が恋人だというのは一目瞭然。29歳の息子が一度も打ち明けてくれなかったことに一瞬ショックを受けるフランクリンですが、すぐに立ち直り...という「私の伝記作家へ」他、全9編の短篇集。

不安定な精神、そして死。さらにゲイ。それらが全編通して濃く漂っています。登場人物たちがそれぞれに深い孤独を感じていて、背負っているものも重いです。1人でいても、誰か愛する人間と一緒にいても、感じる孤独は同じ。ややもすると、愛する人と一緒にいるのに感じている孤独の方が1人でいる時の孤独よりも深いものかも。ひりひりとした心の痛みと深い悲しみ、絶望。時には愛している人を傷つけていたりもするのですが、それが分かっていながらどうすることもできないやるせなさ。...それでも彼らは、作者の柔らかい視線に包み込まれている分、幸せかもしれない、なんて思ったりもします。作者の視線というフィルターを通して、彼ら1人1人が柔らかく輝いているように見えました。訳者あとがきによると、精神を病む人間やゲイが多いのは、決してそういう人々をテーマにしているのではなく、アダム・ヘイズリット自身がゲイで、父親が精神を病んでいたので、そういう人々やその家族の気持ちを理解できるからなのだそう。ヘイズリットが語っていたという、「短篇小説は、登場人物の人生のなかでいちばん大事な瞬間をとらえることができる」という言葉が印象的です。
この9編の中で私が特に好きなのは「予兆」。「私の伝記作家へ」「戦いの終わり」も良かったな。「あなたはひとりぼっちじゃない」という題名から想像した内容とはちょっと違っていたんですけど、いい方に違ってました。だからといって、題名が似合わないというわけではなく... 「あなたはひとりぼっちじゃない」と、登場人物にそう言ってあげたくなるような作品ばかりでした。(新潮クレストブックス)

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13編の「少女少年小説」+2編のアメリカの新聞漫画。柴田元幸さん編集のアンソロジー。

なんで「少年少女小説」ではなくて、「少女少年小説」なのかはよく分からなかったんですが... 今現在の「少女少年」よりも、かつて「少女少年」だった人々への小説といった方が相応しい作品群かも。って、なんだか講談社ミステリーランドの「かつて子どもだったあなたと少年少女のための」って惹句みたいですが。(笑)
いやあ、良かったです。基本的に短編集やアンソロジーが苦手な私なんですが、ここに入っている作品はどれも好き。これって私にはとってもすごいこと! もちろん短編でも好きな作品はあるし、作家さんによっては短編の方がイイ!ってこともありますが、短編集って読んでるうちにだんだん集中力が途切れてしまいがちなんですよね。それが全然なかったなんて、それだけで感動しちゃいます。(笑)

収められているのは13編。
■バリー・ユアグロー「大洋」は、大洋を発見し、夕食の席で報告する弟の話。「大洋を発見した」なんてことがごく日常的な出来事のように語られるのが楽しいんです。人間の小さな諍いと、それを嘲笑うかのように大きく広がる海の情景と。穏やかで、でも哀しい海。
■アルトゥーロ・ヴィヴァンテの「ホルボーン亭」「灯台」は、どちらも自伝的な作品。「ホルボーン亭」の少年の目に映った魅惑の世界とその微笑ましさ、「灯台」のわくわく感とその後の微苦笑が印象的です。でも具体的にはほとんど何も書かれていないんですけど、それ以上に作品の背後に深い哀しみが潜んでるのも感じられて...。
■ダニイル・ハルムスの作品は、ごくごく短いのが5つ。これがもうどれも良くて! 一度に大好きになってしまいました。特に「おとぎ話」は、最後にくすっと笑わせてくれます。うふふ。
■スティーヴン・ミルハウザー「猫と鼠」は、「トムとジェリー」を文字だけにしたような作品。これだけは、もうちょっと短くても良かったかなって思ったんですけど、この長さだからこそ、鼠の孤独感が際立って見えてくるのかも。
■マリリン・マクラフリン「修道者」は、大人になることに拒否反応を示す主人公、という辺りは正直あまり好きではないんですけど、彼女の祖母や家の庭、アイルランドの海の情景が素敵。これを読んで梨木香歩さんの「西の魔女は死んだ」を思い出す人、多いでしょうねー。
■レベッカ・ブラウン「パン」は寄宿学校を舞台にした物語。圧倒的な魅力を持つ完璧な「あなた」に魅せられている「私」の物語。ほんの一瞬の気の緩みが(でも実は小さなことが積み重なっていっているのだけど)、それまで積み重ねてきたものを崩れ落ちさせてしまうその苦さ。読みながら胸が痛くなってしまいます。さすがレベッカ・ブラウン。
■アレクサンダル・ヘモン「島」は、背景が「青い空・白い雲」という感じなだけに、ユリウス伯父さんの語る話が生々しく迫ってきて... その影が濃く感じられます。
■ウォルター・デ・ラ・メア「謎」は、デ・ラ・メアらしいとてもとても幻想的な作品。見てはいけない、と目をそらそうとすればするほど、そこに目がいってしまうものなんですよね。そして、どうなったんだろう...?

折り込みでウィンザー・マッケイの「眠りの国のリトル・ニモ」とフランク・キングの「ガソリン・アレー」というアメリカの新聞漫画も付いてて、これがまた素敵なんです。こんなのが新聞についてるなんて! そしてこのマッケイがミルハウザーの「J・フランクリン・ペインの小さな王国」(感想)の主人公のモデルになっていたとは~。なるほど~。

13編+αの中で特に気に入ったのは「大洋」「ホルボーン亭」「灯台」「パン」「謎」、そしてダニイル・ハルムスの作品。ダニイル・ハルムスと出会えたのは大収穫ですね。他の作品もぜひ読んでみたいです。(文藝春秋)

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小さな蒸気船に乗ってスコットランドの岸辺から西の群島に向かっていたフィオナ・マッコンヴィル。フィオナは群島の中の小さなロン・モル島で生まれて育ち、4年前、10歳の時に街に引っ越したのですが、街の空気が合わず、島に戻っておじいさんとおばあさんと一緒に暮らすことになっているのです。しかしそれはロン・モル島ではなく、もっと大きい島。ロン・モル島は、今では無人となり、かもめと灰色の大きなあざらしがいるだけの島となっていました。しかし無人のはずの島の小屋に明かりが灯っているのを見た人間がいる、浜から風が吹くと流木が燃えるにおいがするなど、蒸気船の船員が奇妙な話をするのを聞いたフィオナは、一家が島から出ることになった日に失った小さな弟のジェイミーのことを再び思い出します。

古くからあるケルトのセルキー伝説を取り入れた現代の物語。セルキーとはあざらし族の妖精。普段はあざらしの姿をしているのですが、時折その皮衣を脱ぎ捨てて人間の女性の姿になって、人間の男性と結婚することもあるんですね。だから羽衣伝説と同じようなパターンの話もあります。矢川澄子さんの訳者あとがきでも引き合いに出されてましたが、私も「妖精 Who's Who」は読みました。今パッとは思い出せないんだけど、他のところでも読んだはず。あ、でもこの作品を読んでる間は、どちらかというとヨナス・リーの「漁師とドラウグ」(感想)を思い出してたんですけどね。これはスコットランドではなくてノルウェーだし、本当は全然違うのだけど。(汗)

読んでいると、スコットランドの島々での人々の素朴な生活の暖かさがしみじみと伝わってきます。決して裕福な暮らしではないけれど、満ち足りた幸福な暮らし。その暮らしに欠けているものがあるとすれば、かつて行方不明になってしまったジェイミーの存在と、捨ててしまったロン・モルでの生活だけなんですね。おとぎ話では、時々際限なく望みをふくらませて全てを失う人間がいますが、この作品に登場する人々はそうではありません。島のやせた土でわずかながらも作物を作り、海で魚を獲り、困っている時はお互いに助け合う暮らしに満足してます。(フィオナのお父さんは強硬に島を出たがったそうなんですけど、奥さん亡くしてるし、それだけツラい思いがあったということなんでしょう) 日本での生活と比べれば、物質的には遥かに貧しいんでしょうけど、精神的には遥かに豊かな暮らし。木のゆりかごを海に浮かべて赤ん坊を育て、流木を焚いて海草のスープを作り... 作中でフィオナが1人で訪れた時のロン・モル島の情景は、本当に美しいですね。ヒースで紫色に染まった野、その中を緑色の道のように流れる小川、島を取り巻く真っ青な海。その直前の霧の場面が幻想的なだけに、この場面の明るい美しさが目にしみてくるようです。
基本的にとても現実的な物語の中に、かつてイアン・マッコンヴィルがロン・モルの岩礁(スケリー)から連れてきた妻、そして今も尚時折生まれる黒髪の子供、あざらしの族の長(チーフスタン)の賢く暖かい瞳といった不思議なことが少しずつあって、でもこの島の情景を背景にしてしまうと、ごく自然なことに見えてきてしまうのが不思議。そこにあるのは「信じる」ことの大切さなんですね。マッコンヴィル一族が一度は全員島を出てしまうという遠回りはありましたが、あざらしたちは一族がまた戻って来るのを信じていたんでしょうし。終盤のあの態度は、だからこそ、だと思うのです。そしてジェイミーがまだ生きて島のどこかにいると信じ続けていたフィオナ。おじいさんもおばあさんも、心の奥底ではジェイミーがまだ生きているのを信じていたはず。そんな信じる力が集まってこその大団円。種を超えた確かな心の絆が感じられるのが、とても素敵な物語です。

そしてこの本自体も、青緑色の表紙や栞の紐、鈍い緑がかった色の文字といった、細かいところにまで気を配っているのが分かる、とても素敵な本です。この青緑色がスコットランドの海の色なんですね、きっと。(集英社)

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分邦ユダヤの王・エロド・アンティパスの宮殿では宴会が開かれていました。王の執拗な視線や、その客たちに耐えかねて宴会を抜けてきたサロメは、月の光に照らされる露台へ。そして砂漠から来た預言者・ヨカナーンに出会います。

「ポポイ」を読んで、無性に読みたくなってしまいました。再読です。
ここに登場するヨカナーンとは、聖書における洗礼者ヨハネのこと。ヨルダン川で人々に洗礼を授けていて、救世主イエスの到来を告げる使者でもあります。そしてこの「サロメ」は、マタイによる福音書(第14章第3-12節)やマルコによる福音書(第6章14-29節)に書かれているヘロデ王と、ヘロデ王妃ヘロディアの娘、そして洗礼者ヨハネの記述をふくらませたもの。ヘロデ王が自分の兄の妃だったヘロディアと結婚したことを、洗礼者ヨハネが「律法では許されないことだ」と言ったため、ヘロディアは洗礼者ヨハネを憎んでるんですね。聖書の中のごく短くそっけない記述が作品としておおきくふくらんだという作品は他にもあるし、例えばアニータ・ディアマント「赤い天幕」(感想)も見事だなあと思ったんですが、これもやっぱり素晴らしいー。

聖書ではヘロディアが娘をそそのかすんですが、こちらの作品でのサロメは自らの意思でヨカナーンの首を欲しがってます。サロメのヨカナーンに対する狂気じみた愛。それは作中で何度も登場する月の描写にも現れてます。
これはヨカナーンに出会う前に、サロメが月を見て言う言葉。

「小さな銀貨そっくり。どう見ても、小さな銀の花。冷たくて純潔なのだね、月は... そうだよ、月は生娘なのだよ。生娘の美しさが匂ってゐるもの... そうとも、月は生娘なのだよ。一度もけがされたことがない。男に身を任せたことがないのだよ、ほかの女神たちみたいに」(P.22)

この時点でのサロメは、その月のような乙女なんですよね、多分。変化の予兆はあるのだけど。でもサロメがヨカナーンに出会い、その白い肌や赤い唇を求めるようになり、やがてエロド王の求め通りに踊ることを了承すると... 月は血のように赤くなるのです。それはまたヨカナーンに「ソドムの娘」と言われてしまうサロメ自身の変化でもあるのでしょう。

聖書の記述によれば、らくだの皮衣を着て腰に革の帯をしめ、いなごと野蜜を食べているという野性的な洗礼者ヨハネなんですが、このヨカナーンの雰囲気はまたまるで違います。むしろとても女性的な美しさを持った人物のように描写されてますね。レオナルド・ダ・ヴィンチの「洗礼者ヨハネ」の絵にどうも私は違和感があるんですが、どちらかといえばあのヨハネに近いです。野の百合のように、山に積もった雪のように、そしてアラビアの女王の庭に咲く薔薇のように白い肌。エドムの園の黒葡萄の房、レバノンの大きな杉林、月も星も見えない夜のよりも黒い髪。そして柘榴の実や、ツロの庭に咲く薔薇の花、珊瑚の枝よりも赤い唇。白い肌に黒い髪、赤い唇とくれば白雪姫なんですが(笑)、聖者のその白い肌に、黒い髪に、赤い唇に、サロメは魅了されるのです。

旧仮名遣いの訳もすごく美しいし、岩波文庫版にはビアズレーの挿絵18点も収められていて、既に挿絵というよりも「サロメ」に触発された独特の絵画世界を見せてくれて、そちらも素晴らしいです。ワイルドはビアズレーが嫌いだったって聞いたことがあるんですけど、読者にとっては既に切っても切れない関係かも。(笑)(岩波文庫)


+既読のオスカー・ワイルド作品の感想+
「サロメ」ワイルド
「幸福な王子」「ドリアン・グレイの肖像」ワイルド
「ウィンダミア卿夫人の扇」ワイルド

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33歳の未亡人のリリアが、23歳のキャロライン・アボットと1年のイタリア旅行に出ることになります。チャールズ・ヘリトンが10年前に周囲の反対を押し切ってリリアと結婚して以来、ヘリトン夫人を始めヘリトン家の人々は、リリアをヘリトン家の嫁として恥ずかしくない人間になるように教育し続け、それはチャールズの死後も続いていました。しかしリリアは主婦としても奥様としても落第。ヘリトン家の面々は、リリアが真面目なキャロライン・アボットの感化を受けることを期待して送り出します。そんな期待を知ってか知らずか、イタリアから楽しそうな手紙を頻繁によこすリリア。しかしそんな時、突然リリアが婚約したという知らせが舞い込み、ヘリトン家は大騒ぎに。

「天使も踏むを恐れるところ」とは、18世紀のイギリスの詩人・アレキサンダー・ポープの「批評論」の中の一節「天使も足を踏み入れるのをためらう場所に、愚か者は飛び込む」から取られたもの。無知と軽率さを笑い、賢明で慎重な行動の大切さを説く言葉です。この作品の場合、「愚か者」は明らかにリリア。でも「天使」はどうなんでしょう。訳者あとがきには違うことが書かれていたんですけど、私としてはむしろキャロライン・アボットのように思えるんですが... もちろんあとがきに書かれていた人物も確かにそうなんですけどね。しかもキャロライン・アボットは揺れ動いていて、それほど「賢明」で「慎重」な存在とは言えないんですが。
自由奔放で、裕福で上品なヘリトン家の家風に合わずに結婚して以来というもの窮屈な思いをしてきたリリア。彼女の同伴者となるキャロライン・アボットは、常識的な真面目な女性。そしてハンサムなイタリア男のジーノは、自由でおおらかな精神の持ち主。細かいことに一喜一憂し、自分たちが認められないことは直視しようとしないイギリス勢と、全てをそのまま受け入れて認めるイタリア勢のお国柄も対照的なら、奔放なリリアと真面目なキャロライン・アボットの造形も対照的。そしてそこで右往左往するのは、イギリス人でありながらイタリアを賛美するリリアの義弟・フィリップ。彼の橋渡しにもならない滑稽な姿も印象的です。「愚か者」のリリアなんですが、愚か者なりに自分に正直に求めるものを求め、それを得ることになるんですよね。キャロラインもまた求めてはいるんですが、賢明かつ慎重でありたい彼女には、リリアのように軽率な行動を取ることは許されず...。ただし、軽率な行動はそれなりの結果をももたらすもの。結果的に誰が一番幸せだったんでしょうね。とても滑稽でありながら、同時に深い喪失感も残る作品。全てにおいて両極端な悲喜劇だったように感じられました。(白水uブックス)

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ウォルター・スコット邸を訪れることによって、才能が開花したというアーヴィング。そのアーヴィングが書いた作品を集めたのが、この「スケッチ・ブック」。原書の「スケッチ・ブック」には、エッセイと短編小説を取り混ぜて全32編が収められているそうですが、日本の文庫にはその中から「わたくし自身について」「船旅」「妻」「リップ・ヴァン・ウィンクル」「傷心」「寡婦とその子」「幽霊花婿」「ウェストミンスタ-寺院」「クリスマス」「駅馬車」「クリスマス・イーヴ」「ジョン・ブル」「スリーピー・ホローの伝説」という全9編が収められています。

読む前にエッセイと短編小説が混ざっていること知らなかったので、スタンスが取りづらくて困った部分もあったんですが、まさに「スケッチ・ブック」という名に相応しい作品集でした。この中で有名なのは、やっぱり「リップ・ヴァン・ウィンクル」と「スリーピー・ホローの伝説」でしょうね。「リップ・ヴァン・ウィンクル」は西洋版浦島太郎。おとぎ話の本にもよく収められてます。「スリーピー・ホローの伝説」はジョニー・デップ主演でティム・バートンが映画化してますよねー。
この2つの作品ももちろんいいんですが(「スリーピー・ホローの伝説」は映画と全然違っててちょっとびっくり)、私が気に入ったのは「幽霊花婿」という物語。...申し分なく美しく教養あふれる婦人に育ったフォン・ランドショート男爵令嬢の結婚相手となったのは、フォン・アルテンブルク伯爵。しかし彼は男爵の城に向かう途上で盗賊に殺されてしまい、道中で出会って同行していた友人のヘルマン・フォン・シュタルケンファウストがそのことを知らせに男爵の城に向かうのですが... という話です。それほど珍しい展開ではないし、ある程度予想がついてしまうんですが、とても可愛らしくて好き。
でもね、この男爵令嬢を育て上げたのは未婚の叔母2人なんですが、この2人、若い頃は「たいした浮気もので、蓮葉女」だったとあるんですよ。で「年とった蓮葉女ほど、がっちりして用心ぶかく、無情なほど礼儀正しい付きそい役はまたとないのである」ですって。欧米の作品には時々厳しすぎるほど厳しい老婦人が登場することがありますけど... というか、そういうの多いんですけど、彼女たちはもしやみんな若い頃は蓮っ葉な浮気者だった? あの人もこの人も? 想像すると可笑しくなっちゃいます。(新潮文庫)


+既読のワシントン・アーヴィング作品の感想+
「ウォルター・スコット邸訪問記」ワシントン・アーヴィング
「スケッチ・ブック」ワシントン・アーヴィング

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ある日、女王は散歩していた犬たちに連れられるようにして、厨房のドアの外に停まっていたウェストミンスター区移動図書館の車を訪れることに。この辺りは宮殿の中でもあまり来たことのない場所。昔からあまり読書に興味がなかった女王は、毎週のように移動図書館が来ていることすら知らなかったので驚きます。6冊まで借りられると聞いた女王は儀礼的に1冊選ぶのですが、これが実に読みづらく退屈な本。一応最後まで読むものの、それ以上読む気にもならず、女官に返却させてそれでおしまいになるはずだったのですが... 翌週、公務にうんざりして自ら移動図書館を訪れた女王が選んだのはナンシー・ミットフォードの「愛の追跡」。今度はすぐに夢中になった女王は、移動図書館で出会った厨房の少年・ノーマンの助けを借りて、次々に本を読み始めます。

ああ、面白かったーー。せいこさんに教えていただいた本です。
70代後半の、既に老人と言ってもいい年の人間が、その年になって本を読む楽しみに目覚めたら。
最初は全く興味のなかった「本」。でもふとしたことから読書の楽しさを知り、それがどんどんと広がっていく様子が、エリザベス女王を主人公として描かれていくんですから、これは本当に楽しいです。女王が読書に夢中になっていく過程は、同じ本好きとして「分かる分かる、そうなのよ!」だし、例えば「一冊の本は別の本へとつながり、次々に扉が開かれてゆくのに、読みたいだけ本を読むには時間が足りない」という文章とかね。しかも本を読み始めた時に、ちゃんと指南役兼読書仲間がいてくれたのが大きい! こういう人がいるといないとじゃ全然違いますよね。フィクションなのに、ノーマンがいてくれてほんと良かったわー なんて思ってしまいます。でも本に夢中になるにつれて、公務も以前ほど楽しめなくなるわけで... 少しずつ手を抜くことになるんですね。そんな女王に周囲は困惑顔。元々女王というのは特定の趣味を持つべき存在ではないのです。
この本の中での女王は、見る見るうちに難しい本を読みこなすようになります。もちろんそれはいい指南役がいたことも大きいでしょうけど、実際には経験値としては十分だと思うんですよね、女王って。公務で様々な人に会って世界中を見て回って、普通の人にはできないような経験をいっぱいしてるんですもん。
読書を通して以前よりも様々なことを考え、以前よりも人間の気持ちを深く理解できるようになり、自分自身についても考えることになる女王。そして最終的には本を読むことと書くことに関する考察へ。読書によって、こんなに大きな人間的成長を遂げることができるとは。

エリザベス女王といえば、私はエリザベス女王のメイドが探偵となるC.C.ベニスンの「バッキンガム宮殿の殺人」「サンドリンガム館の死体」「ウィンザー城の秘密」のシリーズを思い出したんですが(可愛いミステリです)、英国王室とか女王を取り上げた作品って結構多いですよね。いいことばかり書かれてるわけじゃないのに、英国王室って懐が深いなあって思います。日本だったら大変ですよね。あ、でも英国王室やその周辺の人は本を読まないから知らないだけだったりしてーー。(笑)(白水社)

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イアソンが自分の破滅の原因となると知った王ぺリアスは、イアソンが大海や外国で命を落として戻って来ないことを願い、危険に満ちた航海の冒険を彼に課すことに。それは黒海の東の果てにあるコルキスへ金の羊毛を求めに行くというもの。イアソンはギリシャじゅうの英雄を集めてアルゴ船に乗り込むことに。集まったのはオルペウス、双子のカストルとポリュデウケス、ヘラクレスら50人ほどでした。

文庫なのにアマゾンの中古に8000円なんて高値がついててびっくりしたこの本、市内の図書館に蔵書がないので、他のところから借りてもらっちゃいました。でも文庫なのに8000円ってどういうことよ? 1997年発行でそれほど古い本でもないのに。さっき見たら7500円ぐらいまで下がってたけど、まだまだ買える値段じゃありません。講談社の方、こういう本はぜひ復刊してくださーい。「メタモルフォーシス ギリシア変身物語集」の方は、今でも新品が手に入るのに! しかもきちんとした「アルゴナウティカ」の邦訳ってこの本だけなのに!
と思いつつ。
読みましたよー。ギリシャ神話関連の本で話は何度も読んでるんですが、きちんとした訳はこれが初めてです。ちゃんと叙事詩の形式で訳されているのがすごく嬉しいー。話そのものはそれほど好きではないんですが、古代ローマ時代の詩人、ウェルギリウスやオウィディウスにも大きな影響を与えてる作品ですしね。もう少し後のガイウス・ウァレリウス・フラックスもこの作品に触発されて、新たな「アルゴナウティカ」という作品を書いてます。

エウリピデスのギリシャ悲劇「メデイア」(感想)では既に鬼女のようになってしまっているメデイアですが、イアソンと出会った頃はまだまだ初々しい乙女。後々の激しさの片鱗は見え隠れしていますが、まだまだ純真です。愛するイアソンと父との間で板ばさみになって苦しんでます。...この物語でイアソンの恋の相手となるのはこのメデイアと、その前にレムノス島で出会うヒュプシピュレの2人なんですが、2人の造形がすごく対照的なんですよね。つつましく優しく、男に無理なことを求めない(都合のいい女とも言える)ヒュプシピュレと、激しい恋に燃えるメデイアと。イアソンが結局そのどちらとも添い遂げずに終わったというのが面白いなー。そして対照的といえば、この冒険に参加するヘラクレスも主人公のイアソンと対照的。いかにも英雄といった風情のヘラクレスと、気弱というほどではないんだけど、何かあるたびに思い悩んだり嘆いたりするイアソン。まあ、ヘラクレスは頭の中も筋肉でできてるような人だし、そんな人と比べれば誰でも人間的に見える気もするんですけど。
そのヘラクレスなんですが、結構早いうちにミュシアという土地に誤って置き去りにされてしまうんです。そしてその後合流することもなく「こんな時にヘラクレスがいたらなあ」ってすっかり回想の中の人になってしまうことに。で、びっくりしたのは、その間にヘラに課せられた12の冒険をしていること。しかもその冒険の中で行ったことが、後にイアソンたちの助けになってるんです。こういうの、すごく面白い! しかも解説によると、この物語はもともとは古い民話で、主人公に協力するのは動物だったんだそうです。なんだか桃太郎みたいだわー。なんて、我ながら枝葉の部分ばかり楽しんでるような気がしないでもないですが~。(講談社学芸文庫)

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寒空の下、道をゆくのは1人の吟遊詩人。かつてこの地方には多くの詩人たちがいましたが、彼はその最後の1人。今やすっかり年老いて、放浪の竪琴弾きとしての貧しい暮らしに苦しんでいました。時代は移り代わり、古い慣習は消え、最早大広間の上席について、華やかに着飾った領主やその奥方に即興の調べを聞かせることもなくなっていたのです。飢えて疲れきっていた彼は、ヤロウ河畔のニューアーク城のアーチをくぐります。しかしこの城の公爵夫人に思いがけない暖かいもてなしを受けると、彼の中の吟遊詩人としての誇りが甦ります。そして名君と言われたフランシス伯爵のこと、これほどの勇者はないと言われたウォルター伯爵のこと、バックルー一族の古の戦士たちにまつわる古い武勲物語を歌うことに。

ウォルター・スコットの「最後の吟遊詩人の歌」の原文と日本語訳、そして佐藤猛郎氏による作品研究が収められている本。
「最後の吟遊詩人の歌」は、序詩と吟遊詩人が歌う6曲の古い歌からなる作品。英国における吟遊詩人の活躍は、英語が一応成立した13世紀頃から、エリザベス一世に弾圧されるようになった16世紀末ぐらいまでなんだそうで、この作品の吟遊詩人が生きてるのは、まさにその末期の時代。そしてその吟遊詩人が歌う物語は、時代がもっと遡ります。もてなしてくれた公爵夫人の祖先の物語。他の一族の戦い、ロミオとジュリエット的な恋愛、そして魔術。登場するのは実在の人物ばかりで、ここで歌われる出来事にも史実が多いのだそう。ウォルター・スコット自身の祖先で、実際に歌人だった「Walter Scot of Satchells」が書き残した「スコット一門正史」が元になってるんだそうです。
私が一番好きなのは中世に作られた叙事詩なんですけど、でもウォルター・スコットが19世紀に作ったこの作品も、ものすごく素敵でした。吟遊詩人がいた当時の情景が目の前によみがえってくるみたい。今は年老いた吟遊詩人が語るという枠物語の形式を取っているので、尚更そういった印象になったのかもしれません。読みながらもう、静かに熱くなりました!(なんて書くと意味不明ですが...) ああ、こういう作品、もっともっと読みたいなあ。

「作品研究」では、老吟遊詩人に焦点を当ててウォルター・スコットが表現しようとしたものを探っていて、その辺りがとても参考になりました。年老いて疲れ果てた吟遊詩人の姿が、今はもうすっかり衰えてしまったスコットランドを表してるようだ、とかね。それに「Bard(歌人)」と「Minstrel(吟遊詩人)」の違いやその社会的身分について触れられているのも、すごく興味深かったです。「Bard」は、ケルト系の氏族の領主に直属する存在。世襲制で、領主一族の系図や武勲を暗誦する人。饗宴の席で竪琴に合わせて歌うだけでなく、領主の子弟の教育を受け持ち、戦いにおいては使節の役目も果たすとか。身分としては、領主、乳兄弟に次ぐ高いもので、その次に鼓笛手、布告役、一般家臣と続きます。それに対して「Minstrel」は、「中世期において、詩と音楽で生計を立て、竪琴に合わせて、自作の、あるいは他人が書いた詩を歌ってきかせることを職業とする人々」のこと。
北欧系の「Scald(歌人)」のようにゲルマン系諸民族の間でも「Glee」「Jongler」「Minstrel」と呼ばれる歌人と芸人の中間のような人々が存在して、ドイツでは「Minnesinger」、南フランスでは「Troubadour」といった宮廷歌人になっていったんだそうです。でも一時は王侯に仕える身分にまでなった「Minsutrel」も時の移り変わりと共にすっかり落ちぶれることに...。「言い伝える」じゃなくて「書き残す」時代になってしまうんですね。(評論社)


+既読のウォルター・スコット作品の感想+
「アイヴァンホー」上下 スコット
「湖の麗人」スコット
「最後の吟遊詩人の歌」ウォルター・スコット
「マーミオン」ウォルター・スコット

+既読のウォルター・スコット関連作品の感想+
「ウォルター・スコット邸訪問記」ワシントン・アーヴィング

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休暇になり、久しぶりに田舎の村・Pの叔父の家を訪れた大学生のジョヴァンカルロは、叔父一家のもてなしの場である台所で歓待されます。ひとしきり話をした頃、ふいに視線を感じるジョヴァンニカルロ。何者かが闇の奥から野生の黒い目でジョヴァンカルロをじっと見つめているのです。やがて家に入って来たのは、グルーと呼ばれる若い女性。その女性の美しさに目が離せなくなるジョヴァンカルロでしたが、ふと気づくと、その女性のスカートからのぞいていたのは女性の優雅な足ではなく、先の割れた山羊のひづめで...。

先日リサさんが読んでらして、表紙のレメディオス・ヴァロの「星粥」の絵に惹かれて、さらに「月と山羊と死者たちが、あなたの恋の邪魔をする。怪異と神秘が田園を包む妖しく美しい異色の名作」という紹介に惹かれて手に取った作品。作者はイタリアの奇才だというトンマーゾ・ランドルフィ。
前半のジョヴァンカルロとグルーの場面は、昼間の太陽の世界。そして満月の夜、ジョヴァンカルロがグルーに連れられて行くことになるソルヴェッロの地は夜の月の世界。その境界線が曖昧で、現実の世界にいたはずなのに、気がついたら異世界に引きずり込まれていたような感覚です。最初にジョヴァンニカルロがグルーを見初めた場面も、その境界線上にあったのかも。
ソルヴェッロの地でジョヴァンカルロが出会うのは、過去の山賊たち。「剥ぎ取りベルナルド」や「赤毛のシンフォロ」、「買い物カゴ野郎アントニオ」... 曾祖父を誘拐して途方もない身代金を要求した「引き裂きヴィチェンツォ」もいるんですよね。この地での山賊の宴の場面は妖しく美しく、そして狂気じみていて、どこか異教的な情景。この出来事は結局のところ一夜の夢だったのかしら... それとも現実だったんでしょうか。そしてグルーとは何者だったんでしょう。山羊の足から連想するのは悪魔か、そうでなければギリシャ神話に出てくるフォーン。グルーはかつてこの地で権力を持っていた一族の末裔で、その一族にはかなり血なまぐさいエピソードが残っているようなので黒魔術... とも思ったんですが、基本的にキリスト教色の強い物語ではないし、これはやはり異教的な神話の世界のように感じられました。人間と動物が入り乱れているところも、死者と生者が入り乱れているところも、3人の「母たち」も異教的。キリスト教に対抗する存在としての異教ではなく、むしろキリスト教が入ってくる前の純粋な異教の世界みたいな感じ...。ちょっぴり翻訳の文章が読みづらかった気もするんですけど、すっかり引き込まれちゃいました。でもなんだか物語を読んでるというよりも、一連の絵画の連なりを眺めているような感覚だったかも。(河出書房新社)

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郷里に帰る時に、中学時代の友人兄弟を訪ねた「余」。会えたのは兄の方でした。大病をしていた弟は、今は全快して某地に行き、任官を待っているとのこと。そして「余」は弟が患っていた間に書いたという日記を2冊見せられることに... という「狂人日記」他、全13編。

清代末期から辛亥革命を経て中華人民共和国となった中国に生きた魯迅の短編集。高校時代に一度読んだことがあるので、随分久しぶりの再読です。でも高校の時に読んだとは言っても、あんまりちゃんと理解はしてなかったんですよね。面白味もあまり感じられなかったし... や、今回ちゃんと理解できてるかどうかはともかくとして。(笑) 前回読んだ時よりもずっと面白く読めました。
そして今回改めて読んでみてびっくりしたのは、「藤野先生」をかなり細かいところまで鮮明に覚えていたこと! これは魯迅が仙台の医学専門学校(現東北大学医学部)に留学していた時のことを書いた作品。以前読んだ時はそれほど気に留めてなかったと思うんですけどねえ。すごいですね。それって私の力じゃなくて、やっぱりこの作品の力だと思うんです。その時には分からなくとも、実はそれだけの力を持った文章だったんだなあーと改めて感銘を受けてしまいました。いや、本当にすごい。そして国境を越えて、藤野先生から魯迅に人として大切なものが伝わったんだなあ、とか改めて感じてみたり。
いや、ほんと今回はかなり面白かったです。それでも基本的に短編集は苦手だし、途中で何度か集中力が途切れてしまったんですけどね。ここに収められたそれぞれの作品を通して見えてくる中国という国とか、文章を通して魯迅が訴えたかったこととか、なかなか感慨深くて。ここに収められている13編のうち「藤野先生」だけは「朝花夕拾」という自伝的回想録に収められている作品だそうなんですが、他は全て「吶喊」という題名の本に納められている作品。「吶喊」とは、大きな叫び声をあげるという意味なんだそうです。閉ざされた状況を打破するために必要なのは、まず大きな叫び声をあげて他の人間の注意を喚起しなければばならない、そんな魯迅の思いが込められている題名。作品からもそのことが強く伝わってきます。(講談社学芸文庫)

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ランプが1つ灯されただけの薄暗い部屋。隙間風が吹いているのか炎は揺らめき、影もまた揺らめきます。薄闇に目が少し慣れてくると、そこに見えるのは1つのランプ。視線はランプへと向かい、その炎に目が釘付けに。そしてやがて目が光に慣れると、そこに見えるのは天井に渡された3本の長い梁、錆びた黒い鉄板出来た八本脚のレンジ、化粧窓、木の長持ち、横腹の丸い鞄、そしてランプが置かれているテーブル。テーブルに置かれているのは方眼紙の束や二つ折りの新聞紙、2~3冊の薄汚れた雑誌、金文字が押された黒い本、半分吸いかけのタバコ。そして炎に近づいていく1本の手...。

先日読んだ「あまりにも騒がしい孤独」に続いて、東欧の想像力シリーズ2冊目です。読み始めた途端に「好き!」と夢中になった「あまりにも騒がしい孤独」とは全然違っててびっくり... いや、作品によって違うなんて当たり前のことなんですけど、こちらはどうしても読みにくくて... 何度読み返しても全然頭に入ってこなくて、もうどうしようかと思いましたー。プロローグなんて何度読み返したことか! 根性で読み進めましたよ。

ここに書かれているのは全て、E・Sという男のこと。E・S・にまつわる断片がいくつも集まって出来ている物語。それが分かれば少し楽になります。このE・Sというのは、ダニロ・キシュの父親の名前エドゥアルド・サムに由来するもの。ダニロ・キシュの父親はユダヤ人で、1944年にアウシュヴィッツの強制収用所に送られ、そのまま消息を絶ったのだそうです。
物語の中には、「プロローグ」「旅の絵」「ある狂人の覚書」「予審」「証人尋問」という大きな章が繰り返し現れます。その章はそれぞれに雰囲気が全然違うんです。「旅の絵」は詳細な情景描写。「ある狂人の覚書」は一人称の妄想混じりの手記。「予審」「証人尋問」は、まさにそのタイトル通りの言葉のやり取り。読みやすい章もあれば、過剰なほど詳細で難解な章も...。でも一見読みやすい章でも、なかなか簡単には実像を掴ませてもらえないのは難解な章と一緒。物語の進み方はまさしくプロローグに描かれた部屋のようです。暗闇の中に1つの炎が揺らめいてる部屋。最初は何も見えず、徐々に目が慣れてきさえすればその周囲が徐々に見えてくるんですが...。プロローグで触れられている「陰画」と「陽画」のような物語なんだろうなとは思いつつ、実際読んでいてもそこに書かれていることが何を意味しているのか、それ以前にそこには何が書かれているのかがなかなか掴めずに苦戦してしまいましたよ。でもこれこそが、文字によって物語を構築していくという行為なのでしょうね。
残されているたった1通の手紙を元に構築された物語の世界。父親がいなくなったのはダニロ・キシュがまだ9歳の頃、記憶も朧でエピソードもあまりなかったはず。でも想像力さえあれば、1人の人間を作り上げることだって可能なんですものね。必ずしも真実ではないのかもしれませんが、ダニロ・キシュにとってのE・Sが確かにここに存在しています。(松籟社)


+既読のダニロ・キシュ作品の感想+
「砂時計」ダニロ・キシュ
「死者の百科事典」ダニロ・キシュ

+シリーズ既刊の感想+
「あまりにも騒がしい孤独」ボフミル・フラバル
「砂時計」ダニロ・キシュ
「帝都最後の恋 占いのための手引き書」ミロラド・パヴィッチ

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水圧式のプレスで故紙や本を潰してキューブにしては、再生工場に送る仕事をし続けているハニチャ。35年間で潰した本はおそらく3トン以上。しかしそんなハニチャにも楽しみはありました。それは送られてくる紙の山の中から美しい本を救い出すこと。そしてそんな本を読みふけること。そして文字にまみれ、心ならずも教養が身についてしまったハニチャにとって、どの思想が自分のもので、どの思想が本で読んで覚えたものなのか既に分からない状態...。

ナチズムとスターリニズムに踏みにじられている時代のチェコが背景なので、当然チェコの人々の暮らしは大変な状態だし、本来なら本好きの読者にとって、本が次々と処理されていくという現実は直視するのがツラいはずなんですけど、どこかあっけらかんとした明るさと、飄々としたユーモア感覚があるので、悲惨さを全然感じずに読めてしまう作品。焚書に対する怒りとか哀しみみたいなのはまるでなくて... ここで潰されるのは主に本や紙で、時には複製画もあったりするんですけど、きちんとしたものばかりじゃなくて、時には肉屋から送られてきた血まみれの紙がどさっと投げ込まれて、血にたかっている蝿ごとプレスしてしまったりもするんです。でも主人公が自分なりの儀式として、読み終わった美しい本を心臓部に入れて、時にはその側面を複製画で飾った紙塊に、グロテスクな美しさを感じてしまうー。
主人公は年金生活まであと5年のオジサン。日々浴びるようにビールを飲んでるようなので、まさに「オッサン」のはずなんですけど、その中身は孤独で繊細な少年。仕事をしながら思い出すのは、美しいマンチンカと恋をしていた時のことや、ナチスに連れ去られたジプシーの恋人のこと。ジプシーの恋人は結局強制収容所から戻ってくることはなかったし、こんな風にふとした拍子に当時のチェコの現実が見えてくるんですが...。そして彼は自分の仕事を誇りを持ってます。この仕事につくには普通の学校での勉強だけでなく、神学校で教育を受けた方がいい、なんて言ってるぐらい。(笑) 
東欧の作家さんって、やっぱりそれぞれに独特な雰囲気がありますね。少なくとも今まで読んだ東欧の作家さんは、他の欧米圏の作家さんよりも持ってる色合いが濃いような気がします。

先日のキアラン・カーソン「琥珀取り」「シャムロック・ティー」は本を見た瞬間ピピピッときましたが、これは読み始めた瞬間「うわ、これ好き!」でした。いやあ、今年は本の当たり年かも。
これ、松籟社の「東欧の想像力」というシリーズなんです。今まで3冊出てるんですけど、これが2冊目。1冊目は「砂時計」(ダニロ・キシュ)、3冊目は「ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし」(エステルハージ・ペーテル)。そして5月に4冊目の「帝都最後の恋」(ミロラド・パヴィッチ)が出るのだそう。

1作ごとに物語の語り方に工夫を凝らすパヴィッチ。『帝都最後の恋』は、各章がタロット・カード(大アルカナ)の寓意画一枚一枚に対応。タロットを広げながら、出たカードに対応する章を読む、そんな多様な読みに読者をいざないます。

カルヴィーノの「宿命の城」ですか?(笑)
でもこれがまた面白そうなんだわー。これは追いかけてしまいそうです。(松籟社)

 


+シリーズ既刊の感想+
「あまりにも騒がしい孤独」ボフミル・フラバル
「砂時計」ダニロ・キシュ
「帝都最後の恋 占いのための手引き書」ミロラド・パヴィッチ

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1949年10月。19歳のフランク・マコートは船で単身ニューヨークへと向かいます。船の食堂で隣席に座った司祭は、アイルランド出身ながらもロサンゼルスの教区に長いため、アイルランド訛りがほとんど消えているような人物。その司祭に、同じ船に乗り合わせているケンタッキーのプロテスタントの老夫婦はとてもお金持ちなので、愛想良くしておいた方がいいと言われるフランク。しかし顔はにきびだらけで目は爛れており、歯は虫歯でぼろぼろのフランクには、司祭とも満足に話せない状態なのに、老夫婦の前でどうやって振舞ったらいいのかまるで分からないのです。

「アンジェラの灰」の続編。アイルランドから憧れの地・アメリカに脱出しても、なかなか簡単には上手くいかないのは予想通り。しかしアイルランドのリムリックにいる家族は、フランクがアメリカでそこまで苦労しているなんて夢にも思わず、その送金をすっかり当てにしているというのも予想通り。アンジェラ自身、アメリカで上手くいかずに結局アイルランドに戻る羽目になったはずなのに、覚えてないのかな... きちんきちんと送金してるのにそれ以上要求されるとことか、ちょっといやーん。
でもこの「アンジェラの祈り」は、「アンジェラの灰」のように不幸が雪だるま式に膨らんでいく話というわけじゃないんですね。フランクはちゃんと仕送りしてるし、空腹でも何があっても、行き倒れになるわけじゃないんですよね。すっかり不幸な話を読んでるつもりになってたら、リムリックでは新しい服や靴を買うことができてるどころか、新しい家に移ることになってびっくり。そ、そうだったのか。フランクの暮らしも、ほんの少しずつではあっても上向きになっていきます。金持ちにはほど遠くても、きちんきちんと食べていくことのできる暮らし。もちろん、実際には並大抵の苦労ではなかったんでしょうけど... しかも別に私は不幸な話を読みたいわけではないんだけど(むしろそういう話は苦手だし)、なんだか釈然としないものを感じてしまいました...。自分のアイルランド訛りや爛れた目、ぼろぼろの歯にコンプレックスがあって、この世の中で一番不幸そうに振舞っているフランクでも、大学に行くこともできれば、美しい女の子と恋愛することもできるようになるんですもん。いずれにせよ、「アンジェラの灰」の時のようなどうしようもない、出口のないやるせなさはありません。まあ、この人生が最終的にハッピーエンドで終わるのかどうかは、まだまだこれからのフランク次第なんですけどね。
「アンジェラの灰」の灰の意味も、この作品で分かります。でも、そういう意味でも書かれるべき作品だったんでしょうけど、前作の方が力強くて惹きこまれたかも...。前作はそれだけで光ってたけど、こちらは前作あってこその作品なんですよね。(新潮クレストブックス)


+既読のフランク・マコート作品の感想+
「アンジェラの灰」上下 フランク・マコート
「アンジェラの祈り」フランク・マコート

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昇天祭の日の午後、大学生のアンゼルムスがエルベ川のほとりの接骨木(にわとこ)の木陰で自分の不運を嘆いていると、そこにいたのは金緑色に輝く蛇が3匹。アンゼルムスはそのうちの1匹の美しい暗青色の瞳に恋してしまいます。それはゼルペンティーナでした... という「黄金の壺」。そして「マドモワゼル・ド・スキュデリ」「ドン・ファン」「クライスレリアーナ」からの抜粋。

先日読んだ昭和9年発行の「黄金寳壷」では面白味が今ひとつ感じられなくて、好きなモチーフのはずなのにおかしいなあーと思っていた「黄金の壺」なんですが、こちらはとても面白く読めました。やっぱり私自身のせいだったのね。きちんと読み取れてなかったのか...! 解説にもありましたが、昇天祭という普通の日、ドレスデンという普通の町に、するりと摩訶不思議なものを滑り込ませてしまうのがいいんですよね。現実と相互に侵食しあう夢幻の世界を描くホフマンの作風。もしかしたら「むかしむかしあるところに」が主流のこの時代、こういう作風って画期的なものだったのかも。

そして「マドモワゼル・ド・スキュデリ」は、「スキュデリー嬢」でいいのにと思いつつ... 基本的には最初に読む訳の方が印象が強いですね。こちらで新たに読んだのは「ドン・ファン」と「クライスレリアーナ」。「黄金の壺」のリベンジとはいえ、この本を読む決め手となったのは、この「クライスレリアーナ」なのです。だってシューマンのピアノ曲「クライスレリアーナ」大好きなんですもん~。いつかは弾いてみたい曲。「クライスレリアーナ」とは「クライスラーの言行録」といった意味なんだそうで、失踪した楽長・ヨハネス・クライスラーの書き残した断片集という体裁。このヨハネス・クライスラーという人物はまるでホフマンその人のようで、特にこの中の「音楽嫌い」という掌編は、実際にこういう出来事が少年時代にあったんだろうなと思わせるところが楽しいです。

古典新訳文庫では、使われている日本語が軽すぎてがっかりさせられることも多いんですが、この本は良かったです。「モモ」を訳してらっしゃる大島かおりさんなので大丈夫だろうとは思ってましたけどね。訳者あとがきに「新しさ」に拘りすぎずに自分の言語感覚を頼りに訳したということ、そして「ホフマンの作品は十九世紀初葉に書かれたものですから、その文体や語彙が古くさいのは当然です。でもその古さをなるべく大事にして、その大時代な雰囲気を殺さないようにしたい」と書かれていました。まあ、「黄金の壺」は「です・ます」調なので、そういうところが読みにくく感じられてしまう方もいるかもしれませんが...。(この「ですます調」も大島さんなりの理由があってのこと) 他の作品もこういったスタンスで訳されていれば、新訳文庫にももっと好感が持てると思うんですけどねえ...。(光文社古典新訳文庫)


+既読のホフマン作品の感想+
「クルミわりとネズミの王さま」ホフマン
「悪魔の霊酒」上下 ホフマン
「黄金の壷」「スキュデリー嬢」 ホフマン
「ホフマン短篇集」ホフマン
「黄金の壺/マドモワゼル・ド・スキュデリ」ホフマン

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8歳の時にケニアの北の海辺に移り住んだ盲目の老貝類学者は、小さな海洋公園でひたすら研究を続ける日々。しかし2年前、その生活に予期せぬねじれが出来たのです。老貝類学者の生活に迷いこんできたのはアメリカ人のナンシー。日射病にやられて錯乱していた彼女が貝の毒によって全快してしまうと、それを知った人々が老貝類学者のもとに押し寄せて... という「貝を集める人」他全8編の短編集。

まるでアリステア・マクラウドとかベルンハルト・シュリンクとか、そういうある程度以上の年齢を重ねた人の書いた作品のような雰囲気なんですが、これがまだ20代の新人作家の作品だと知ってびっくり。アメリカの大学院の創作科出身という、いまどきの作家さんのようです。
ここに描き出されているのは、アメリカはもちろんのこと、ケニアやタンザニア、リベリアといったアフリカの自然の情景だったり、北欧の原野だったり... 様々な自然の情景が描きあげられていました。大きく静かな自然の圧倒的な美しさと厳しさ、そしてもっと身近にある小さな自然のさりげないけれど確かな美しさ。自然に畏怖を感じたり、愛情を感じながら、寄り添って生きる人々の姿。これらの人々に共通するのは、深い喪失感。どれほど大事にしていても、大切な物が指の間からすり抜けて落ちていってしまう哀しみ。でも確かな希望もそこにはあるんですよね。
特に印象に残ったのは、上にあらすじを書いた「貝を集める人」と、あと「ハンターの妻」。「貝を集める人」での、盲目の老貝類学者が少年の頃に初めて貝の美しさに開眼した場面や、現在の「貝を見つけ、触れ、なぜこれほど美しいのか言葉にならないレベルでのみ理解する」のがいいんですよねえー。目は見えなくても、貝類の美しさを全身で感じ取っている、むしろ目が見えていた時よりもはっきりと見て取っている老貝類学者。色んな貝の美しさや怖さが伝わってきました。そして「ハンターの妻」は、山の中で狩猟のガイドとして暮らす男と、死んでいく生き物の魂を感じることができる妻の物語。2人が暮らしていた冬の山の情景がとても印象に残ります。冬眠する動物たちの美しさ、そして簡単に凍死・餓死させられてしまう冬の厳しさ。そしてそんな現実の情景とは対照的な、彼女の感じ取る幻想的な魂の情景。命が身体の中から外に流れ出る時に見えるのは、とても美しくて豊かで、暖かい情景なんです。この「ハンターの妻」や「ムコンド」はどちらも、まるで違う存在だからこそ惹かれ合い、でもまるで違う存在だからこそ同じ場所では幸せにはなれない夫婦を描いた物語なんですね。哀しい話なんだけど、素敵でした。(新潮クレストブックス)

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毎日どこかの広場で説教をする男と常に一緒にいるのは、巨大な恐ろしい犬。真っ黒の毛並みで目は硫黄のように黄色く、大きな口の中に見えるのは黄色い歯並み。男と犬の奇妙なつながりに興味を引かれた「ぼく」は、男のあとをつけるようになり... というフリードリヒ・デュレンマットの「犬」他、全18編の幻想小説アンソロジー。

18世紀から20世紀までのドイツの幻想小説。昔ながらの怪談から現代的なホラー小説、錬金術をモチーフにした作品、そしてSF風味の作品まで、かなり色々な作品が入っています。面白い作品もあったんですけど... でも、うーん、今ひとつぴんとこない作品も多かったかも... 今回ピンと来なかった作品については、いずれリベンジしようと思います。(白水uブックス)


+シリーズ既刊の感想+
「イギリス幻想小説傑作集」由良君美編
「スペイン幻想小説傑作集」東谷穎人編
「ドイツ幻想小説傑作集」種村季弘編

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今まで会った人物の中で一番風変わりだったのは、H町のクレスペル顧問官。学識があり経験豊かな法律家で、有能な外交官でもあり、ヴァイオリン製作にしても超一流。しかしその奇行ぶりは、常に町中の人々の噂の種になっていました... という「クレスペル顧問官」他、全6編の短編集。

「黄金の壷」がどうもすっきりしなかったホフマンですが、こちらは面白かったです。「黄金の壷」はモチーフ的にはとても好きなはずなのに今ひとつだったのが我ながら解せないんですが...。(その後他のバージョンで読んだら面白かったです! 訳が合わなかっただけみたい)
訳者池内紀さんによる解説「ホフマンと三冊の古い本」に、ホフマンの作品ではしばしば鏡や望遠鏡が重要な小道具として登場するとありました。そして「砂男」の「コッペリウス」と「コッポラ」という2つの名前は、どちらも「眼窩」を意味する「コッパ」からきているとも。確かに気がついてみれば、鏡や望遠鏡だけでなく、目玉や眼鏡、窓といったものが、ホフマンの作品では常に異界への扉のように存在してます。その異界に待っているのは「死」。でもその「死」は物質的な冷たい死というよりも、幻想的な詩の世界への生まれ変わるためという感じ... 現実的で常識的な人々にとっては、狂気と破滅にしか見えなくても、そちらの世界に足を踏み入れた人にとっては、それは理想郷なんですよねえ。そしてホフマンは、そのどちらの世界でも生きた人なんですね。だからホフマンの作品の結末には、ちょっと異様な雰囲気を感じさせられることが多いんだろうな。ホフマンの描き出す幻想的な情景はとても美しいんですが、それは薄気味悪い不気味さと紙一重。
どれも面白かったんだけど、私が特に気に入ったのは、山の鉱山の幻想的な情景の美しさが際立っている「ファールンの鉱山」。これはどこかバジョーフの「石の花」のようでもありました。...なんだかんだ言って、幻想的な情景に惹かれてしまう私です。そして「砂男」は、バレエ「コッペリア」の原作となった作品なんですね。でもストーリーはかなり変えられていて、「砂男」の狂気を秘めた悲劇は、すっかり明るく楽しい喜劇となっちゃってます。同じ作品とは思えないわー。(岩波文庫)


+既読のホフマン作品の感想+
「クルミわりとネズミの王さま」ホフマン
「悪魔の霊酒」上下 ホフマン
「黄金の壷」「スキュデリー嬢」 ホフマン
「ホフマン短篇集」ホフマン
「黄金の壺/マドモワゼル・ド・スキュデリ」ホフマン

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人間に火をもたらしたことによってジュピターの怒りを買ったプロメテウスは、インド・コーカサスの氷の岩の峡谷に縛り付けられたまま、昼間はハゲワシに肝臓を啄ばまれ、夜になるとその肝臓が自然に再生されるという状態で3000年を過ごすことに。

アイスキュロスのギリシャ悲劇「縛られたプロメテウス」を読み、影響を受け、プロメテウス礼賛者となったという詩人・シェリーの書いた詩劇。上演されることではなく、読まれることを目的に書かれている脚本形式の作品をクローゼットドラマ(レーゼドラマ・書斎劇)と言うのだそうで、これもその1つです。
アイスキュロスの「縛られたプロメテウス」は私も読みましたが(感想)、これは3部作の1作目だし、しかし続く2作が既に失われてしまってるので、プロメテウスとゼウスがどんな風に和解することになったのかは不明なんですよね。ゼウスに謝るよう説得するために神々が次々にプロメテウスのもとを訪れるものの、ゼウスは予言知りたさで自分を許すはずだとプロメテウスが強気に考えているところまでで終わっています。
そしてシェリー自身の「序」を読むと、シェリーがこの失われた悲劇を修復しようと思ってこの作品に取り掛かったのではないことが良く分かります。プロメテウスとジュピターの和解という結末を好まなかったシェリー自身が作り上げたのは、またまるで違う物語。こちらのプロメテウスは、ゼウス相手に取引なんてしません。1章が始まった時、日々の苦しみに苛まれつつも、既にジュピターを恨んでいないどころか、かつて自分が口にした呪いの言葉も後悔しています。逆に、近い将来おとずれる自分の破滅を知らないジュピターを哀れんでいるほど。
シェリーは権力や支配、暴力を否定し、暴虐的な支配はいつか自らの暴虐によって自滅するという信念を持っていたようです。憎悪や敵意から解き放たれた時、人は初めて真の平和を得ることができる... ゼウスは使者を通してはキリストの磔刑やフランス革命の場面をプロメテウスに見せ付け、その過ちに気づかせようとするんですが、まるで効果なし。プロメテウスはゼウスの暴力的な支配に屈しないどころか、ゼウスを愛することによって、解き放たれることになるんです。とてもキリスト教的な物語ですねー。まるでプロメテウス自身がキリストみたいな描かれ方です。自らの暴虐に自滅するゼウスの姿は、万能の神ではなくて、まるで人間の世界の支配者。

まあ、面白いかといえば、正直あまり面白いとは思えなかったんですが... 私にとっては、アイスキュロスの悲劇の方がずっと力強くて面白かったし。でもギリシャ・ローマ神話関連ですしね。これはいつか読まなくちゃと思ってたので、今回読めて満足。それにロマン派詩人としてのシェリーの表現の夢のような美しさなど、部分的にはとても惹かれるもののある作品でありました。(岩波文庫)

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トマーグラ歩兵が列車の車室で座っていると、そこに背の高い豊満な女性がやってきて、彼の隣の席に腰を下ろします。見た目はどこか地方の未亡人。他の席もあいているのに自分のようなむさ苦しい兵士の隣にわざわざ座るとは...? という「ある兵士の冒険」他、「ある○○の冒険」という形で統一された全12編の短篇集。

「ある○○の冒険」... うーん、「冒険」と言われてみれば確かに冒険とも言えるんですが、事前の準備をした上で乗り出していく類の冒険ではなくて、どちらかといえばハプニングに近いもの。日常の偶然から生まれたちょっとした出来事から発展した、ちょっとした冒険ですね。いつもの日常からほんの少しずれた場所で、主人公たちは何かしら新しい景色を見ることになったり、何かに気づかされることになる、そんな物語。そして「むずかしい愛」という題名なんですが、真面目な愛の物語というわけではありません。それどころか、解説には「愛の物語の不在」だと書かれているほど。

ここで語られているのは恋愛譚ではなく、愛の物語の不在である。現実の(とよべるかどうかさえ覚束ない)愛のなかでなら、おそらく誰もが感じるであろうコミュニケーションのむずかしさを、カルヴィーノは、それは困難なのではなく、ほぼ不可能と考えているらしい。愛を語ることは、その不在を語ることからしかはじめられない、というより、不在を語ることこそが愛を語る唯一の方法だということなのかもしれない。(P.220)

愛の不在とは言っても、そこに愛が全くないわけではないんです。主人公たちはいつもの日常からほんの少しずれた場所で、ごくごくささやかな、ほのかな愛を見出すことになるんですから。でもそこに生まれた愛が、一般的な意味での「恋愛」として成長することはなく...。そういった意味では、やはり「むずかしい」というのがぴったりなのかも。
短い物語がそれぞれになんだかとっても可愛らしかったです。読んでるうちにどこか不思議になってしまうほど、何ていうかまとまりがいいんですよね。ある意味、きれいにまとまりすぎてると言った方が相応しいかも? でもやっぱり可愛らしかったです。(岩波文庫)


+既読のイタロ・カルヴィーノ作品の感想+
「宿命の交わる城」イタロ・カルヴィーノ
「不在の騎士」イタロ・カルヴィーノ
「レ・コスミコミケ」イタロ・カルヴィーノ
「なぜ古典を読むのか」イタロ・カルヴィーノ
「まっぷたつの子爵」「木のぼり男爵」イタロ・カルヴィーノ
「イタリア民話集」上下 カルヴィーノ
「魔法の庭」イタロ・カルヴィーノ
「見えない都市」イタロ・カルヴィーノ
「マルコヴァルドさんの四季」カルヴィーノ
「冬の夜ひとりの旅人が」イタロ・カルヴィーノ
「柔かい月」イタロ・カルヴィーノ
「カルヴィーノの文学講義」イタロ・カルヴィーノ
「パロマー」カルヴィーノ
「くもの巣の小道」イタロ・カルヴィーノ
「むずかしい愛」カルヴィーノ

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アミーン・ジャアファリは、ベドウィン(アラブ系遊牧民)出身でありながらイスラエルに帰化し、テルアビブの瀟洒な家で最愛の妻・シヘムと共に裕福で幸せな生活を送る外科医。しかしその幸せな生活は突然終わりを告げます。病院近くで自爆テロが起きたのです。怪我人たちの世話に追われてようやく帰宅したアミーンを待っていたのは、19人の犠牲者が出たその自爆テロの首謀者が妻のシヘムだという知らせ。シヘムが妊婦を装って腹に爆弾を抱えて自爆したのが、確かに目撃されていたのです。呆然とするアミーン。なぜシヘムが幸せな生活を捨ててそのようなことをしなければならなかったのか...。自らの容疑がようやく晴れたアミーンは、学生時代からの友人・キムの助けを借りて、妻の行動について調べ始めます。

幸せな人生だと思い込んでいたアミーンの土台が崩れ落ちる一瞬。その崩落感が見事に表現されている作品。よく知っているはずの自分の夫や妻が、実はまるで知らない面を持っていた、という物語は他にもありますけど、ここでは単に夫婦間の問題だけでなくて、民族的・政治的・宗教的問題も絡まりあうので、話はさらに複雑。しかも自爆テロというのはやっぱり強烈ですよね。妊婦の姿をして爆弾を抱えて自爆するなんて、余程の覚悟がない限りできないはず。幸せにしたつもりの妻にそのようなことをされるだけでも相当の衝撃なのに、徐々に事情が明らかになってきて、アミーンは妻のことを何も理解していなかったことを思い知らされることになります。幸せにしたと思っていたことが、自己満足に過ぎなかったということ。結局のところ、人間は自分の見たいものしか見ないってことなんですねえ。
イスラエルに帰化したアラブ人、という設定が、日本人である私には今ひとつ掴みきれてないとは思うんですが... 「カブールの燕たち」とは段違いに良かったです。(ハヤカワepiブック・プラネット)


+既読のヤスミン・カドラ作品の感想+
「カブールの燕たち」ヤスミナ・カドラ
「テロル」ヤスミナ・カドラ

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タリバン政権下で既に残骸となってしまっている、アフガニスタンの首都カブール。ここに住む42歳のアティクは、刑務所の看守。夜は死刑囚を監視し、昼は彼らを死刑執行人に引き渡すのが仕事。そしてアティクが仕事を終えてようやく家に帰り着けば、妻は重い病気。既に医師からも見放されていました。話を聞いたアティクの幼馴染の友人は、妻を離縁すればいいと言い放ちます。しかしアティクの妻は天涯孤独の身。20年も一緒に連れ添ってきた仲で、しかもアティクの命の恩人なのです。

アフガニスタンが舞台の物語。アフガニスタンが舞台といえば、丁度1年ほど前に読んだカーレド・ホッセイニの「君のためなら千回でも」(感想)もそうでした。あの作品は平和な時代も描いていたんですが、こちらは完全にクーデター後の話。人々の心は既に荒みきっています。教養のある善良な青年までもが思わず売春婦の公開処刑に加わり、投げた石が頭に当たって血が流れるのを見て喜びを感じてしまうほどなんですから。でも、ものすごく良かった「君のためなら千回でも」とどうしても比べてしまって、こちらは物語としてどこか決定的に物足りない...。描きようによってはもっといい作品になったのではないかと思うんですが、小説としては作りこみ不足、まだ小説として昇華されきっていないような気がします。
それでも衝撃といっていいほど印象に残ったのは、イスラム社会の夫婦関係。幼馴染の友人と話してる時は、妻を捨てるつもりはないなんて言って友人に呆れられてるアティクなんですが、いざ家に帰ってみると態度が...! 病気をおして起きだして、家を片付け食事を作る妻に一言のねぎらいの言葉もなく、逆に責めるだけですか。何がどうなっても、悪いのは全て妻? このあくまでも自分中心の思考回路、この亭主関白ぶりは凄すぎます。もうなんだか騙されたような気がしてしまうほど。この表と裏の違いは一体? イスラム関係の本も色々読んだけど、ここまでの夫婦関係が描かれてるのは初めてです。もちろんこれが全てではないでしょうけど、これはかなりの部分で真実なんだろうな。結局のところ、亭主関白に見える夫たちは、自分に甘くて妻に甘えているだけなんでしょうけど...。

このアフガニスタンとイスラエルの作品を書いたヤスミナ・カドラはアルジェリア人。上級将校で、軍の検閲を逃れるために女性名で執筆し、その後フランスに亡命するまで正体不明の作家だったのだそうです。でも実際、この作品はとても男性的だと思いますね。みんな女性作家の作品だと本当に信じていたのかしら。(ハヤカワepiブック・プラネット)


+既読のヤスミン・カドラ作品の感想+
「カブールの燕たち」ヤスミナ・カドラ
「テロル」ヤスミナ・カドラ

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妻のメアリーが引き起こした嬰児誘拐事件がきっかけで、32年間教壇に立ってきた学校をやめさせられることになった歴史教師のトム・クリック。彼は授業のカリキュラムを無視して生徒たちに、自分の生まれ育った沼沢地帯(フェンズ)のことや、自分のこと、家族のこと、先祖のことについて語り始めます。

沼沢地帯(フェンズ)と共に語られていくのは、主人公・トム・クリックの家族とその歴史。両親のこと、「じゃがいも頭」の4歳年上の兄・ディックのこと、10代当時の恋人で今の妻でもあるメアリーのこと、そして祖先のこと。そこで語られているのは10代の赤裸々な真実。特にインパクトが強かったのは、好奇心旺盛なメアリーが主導だった10代の性のこと...! これにはかなりびっくりでしたが、嬰児誘拐事件に始まる話は、殺人もあれば自殺もあり、近親相姦もあり、堕胎もありという、人間に起こりえる様々なドラマを含んだものでした。大河ドラマであり、ミステリでもあり、サスペンスでもあり、かな。1人称で語られていくこともあって、まるで自叙伝を読んでいるような錯覚をしてしまうし、実際にはフィクション作品なのに「事実は小説よりも奇なり」という言葉を思い起こさずにはいられなかったです。歴史の教科書に載っているような無味乾燥なものではなくて、トム・クリックの語る生きた歴史。それこそが「小説」なのかもしれないですね。そんな風に読み手の心にも迫ってくる、大きな力を持った物語でした。(新潮クレストブックス)

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一番最初の記憶は、寝かせられていた部屋の壁紙の色。色に興味を持ち、言葉を学ぶにつれて色のこと徐々に分かっていきます。緑色は嫉妬の色であり、希望の色であり、愛と多産の色。ナポレオンが流刑になったセントヘレナ島で死んだのは、寝室の壁紙に塗られたヒ素系鮮緑の顔料が毒気を発散していたから。1888年8月 27日、クラカトア火山島が噴火崩壊した後、空に輝いていたのは緑色の月。聖霊降臨節が終わってから待降節までの間、司祭が日曜日に着用するのは緑色の祭服。ローマ皇帝ネロが迫害を観覧したのは緑柱石のプリズムを通して。1434年7月20日、フランドルのブリュージュの町に現れたのは、緑色の肌をした男の子と女の子...

「琥珀捕り」と同じく、大きな流れがありつつ、枝葉末節がまたとても楽しい物語。今回は様々な色の乱舞があり、シャーロック・ホームズやコナン・ドイル、ブラウン神父、ウィトゲンシュタイン、メーテルリンク、オスカー・ワイルドその人や作品のエピソードが登場しつつ、様々な聖人たちの話があります。そしてそんな様々な小さな物語の要となっているのが、15世紀の初期フランドル派の画家・ヤン・ファン・エイクの「アルノルフィーニ夫妻の肖像」。ロンドンのナショナル・ギャラリー所蔵のこの絵は、人物像がとても独特で私は薄気味悪さを感じてしまうんですけど... 真ん中の鏡なんかを見ていると、まさにこういった物語を生み出すのに相応しい物語だなあって思いますね。
全体的な作りももちろん面白いんですけど、この作品の一番の魅力はこの枝葉末節な部分の楽しさというのは「琥珀捕り」同様。でも枝葉な部分が大きすぎて、全体的な枠を圧倒して、気がついたらひっくり返されてしまってるんですよね。次から次へと綺麗で楽しい夢を見させてもらっているうちに、はっと気づけばそういうことだったのか... と我に返ることになります。そしてシャムロック・ティーとは。作品そのものに酩酊させられてしまったような読後感。

本を読んでると時々、もう理屈でもなんでもなく「好きーーー!!」となる作品があるんですけど、これもその1つ。そういう作品って読み始めた瞬間、というよりも手に取った瞬間、いやもしかしたら本を目にした瞬間分かりますね。本屋でこの本を見た時、欲しくてたまらなくなりましたよ。その時は「琥珀捕り」も読んでなかったし、キアラン・カーソンという作家も知らなかったのに。でもそういうことってありますよね? そしてそういう直感には素直に従うのが吉。
一般的な意味ですごくいい作品、大好きな作品もいっぱいあるけど、これや「琥珀捕り」は、もうストーリーがとか登場人物がとかモチーフがとか、そういうのを超越したレベルで好きな作品。そんな本、1年に1冊出会えるかどうかだって分からないのに、今年は早くも2冊出会えてしまうなんて... すごいかも。(東京創元社)


+既読のキアラン・カーソン作品の感想+
「琥珀捕り」キアラン・カーソン
「シャムロック・ティー」キアラン・カーソン

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キャサリンとの結婚1週間前に、工場での仕事中、機械に巻き込まれて死んだサイモン。弟のルーカスは13歳ながらも学校をやめ、同じ仕事につくことに... という「機械の中」。警察で電話を受ける仕事をしているキャットは、相手の本気を感じ取れる貴重な1人でありながら、「そいつ」を見過ごしてしまったのです... という「少年十字軍」。そして、毎晩のように子供を公園で散歩させるナディア人の彼女を見て、少しずつ距離を縮めるサイモン。彼女はカタリーン。エメラルド色の肌をしていました... という「美しさのような」。全部で3編。

過去から現在へ、そして未来へ。その世界に常に流れているのは、ウォルト・ホイットマンの「草の葉」。ある時は声高に、そしてある時は囁くようにホイットマンの詩を読む声が聞こえてきます。この本と併せて「草の葉」も読んだのですが、いいですねえ。そのおかげでとてもこの世界が掴みやすくなったし、入り込みやすくなったような気がします。
「草の葉」というのは、右の画像の帯にもあるように「アメリカをしてアメリカたらしめている根源的作品」と言われている作品。とても情景を立ち上げる力が強くて、文字を追うごとに情景が立ち上がり、世界が構築されていくような詩なんですよね。そしてその「草の葉」を読んだ後にこの作品を読んでみると、その詩で既に作り上げられていた世界と地続きで、さらに世界が広がったような印象。しかも作中にウォルト・ホイットマン自身も登場するんですが、それがまた驚くほどの違和感のなさで...。「草の葉」で思い描いていた人物そのまま。詩は基本的に苦手なはずなのに、きちんと受け止められていたんだなと思わず嬉しくなってしまったほど。
この「星々の生まれるところ」の3つの短編同士は、はっきりと繋がってはいないんですが、一番主要な登場人物はルークとサイモンとキャサリンの3人。この3人が名前や年齢といった設定を少しずつ変えながら入れ替わり、物語が流れていきます。変わらないのは「草の葉」と白い鉢だけ。この鉢がまるで次世代に希望を託しているようで、それもまた素敵なのです。そしてもしかしたらこの3編のどれが一番好きかというので、その人の本の好みが分かるかもしれません。という私が一番好きなのは最初の「機械の中」です。過去の世界。(集英社)

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中国の難関中の難関である選抜試験を優秀な成績で合格し、フランス政府国費留学生として80年代末からパリに留学していた莫(モー)。彼はフロイト派の精神分析学を学び、中国初の精神分析医として、11年ぶりに中国に帰国。そして中国での大学時代からずっと恋焦がれているフーツァンを刑務所から救い出すために、法曹界の実力者・狄(ディー)判事のもとを訪れます。フーツァンは、中国警察による拷問の場面を隠し撮りして、ヨーロッパのマスコミに売った罪で捕らえられていました。1万ドルを差し出した莫に狄(ディー)判事に要求された賄賂は、「まだ赤いメロンを割っていない」女性、すなわち処女。莫は条件に叶う女性を探し求めて、中国を旅して回ることに。

「バルザックと小さな中国のお針子」が面白かったダイ・シージエの長編第2作。
でも今回も面白かったんですけど... きちんと小説らしい構成と展開をしていた「バルザック~」に比べて、かなり読みにくかったです。物語が時系列順で展開していくわけじゃないし、筆の赴くまま、話が奔放に飛んでいってしまうんですもん。つきつめてしまえば、かつて好きだった女性を救うために莫が奔走する、というだけなんですけどね。その理由が分かるのも、ちょっと後になってから。
物語が始まった時、莫は既に処女探しを始めています。でも莫が真剣に処女探しをすればするほど、物語はどんどん喜劇的になっていくんです。訳者あとがきで「ドン・キホーテ」が引き合いに出されてるのを見て納得。ラストも可笑しい~。そもそも40歳にもなるいい大人の男性が、一体何やってるんだか。ほんと懲りないんだから。でも「懲りない」といえば、ここに登場する面々が1人残らず「懲りない面々」かも。何があっても何が起きても、したたかにやり過ごしていくんですね。こういうの、大陸的な底力なんでしょうか。
原題は「Le complexe de Di」。「Le complexe d'Œdipe」(エディプス・コンプレックス)のもじりなんだそうです。「Di」は狄判事のこと。丁度「Œdipe」の中に「di」がありますよね。でもロバート・ファン・ヒューリックの狄判事シリーズの主人公と同じ名前なんですが、そっちのシリーズの狄判事はとても好人物なので、名前が丁度良かったとはいえ、少々気の毒な気も...。ちなみに「長椅子」は、精神分析の時の必須アイテムの長椅子のことです。この題名センス(訳者さんがつけたのかな?)、好きだわー。(ハヤカワepiブック・プラネット)


+既読のダイ・シージエ作品の感想+
「バルザックと小さな中国のお針子」ダイ・シージエ
「フロイトの弟子と旅する長椅子」ダイ・シージエ

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カフェで見かけた男に運命を感じて、思わずその男の後をつける「わたし」。男はある建物のポーチをくぐって姿を消し、「わたし」が重々しいドアを押した時は、もうアパルトマンの1つに入った後でした。それは4階建ての瀟洒な建物。弁護士が1人いるほかは医療関係者ばかり。その後、男は4階に住む精神科医と判明し、男に言い寄るために「わたし」がしたのは、人生で出会ったありとあらゆる男性のことを語ることでした。

103の断章で語られるのは、「わたし」の夫のことや父親のこと、母の愛人、歌手、祖父や大叔父、そしてこれまで出会った恋人たちのこと。今まで出会った男性のことをひたすら語り、そして小説に書き綴っていくうちに、語り手である「わたし」の姿が浮き彫りになっていくという仕掛けのようです。この「わたし」はカミーユ・ロランスその人ではないと書かれてるんですけど、やっぱりカミーユという名前の作家なんですね。フランスではオートフィクション(自伝風創作)が文芸の一ジャンルとして注目を集めているようで、これもそんな作品の1つらしいです。同種の作品の中でも、この作品は別格の高い評価を得ているそうなのですが... でも男性のことだけでこれほどまでに語り続けられるのはすごいのかもしれないし(このバリエーションったら)、部分的に面白く感じられた部分はあったものの、103の断章がまるで金太郎飴みたい。「あーもーフランス人って一体」なんて思ってしまって。あまり面白く感じられなかったのが残念でした。(新潮クレストブックス)

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1975年1月1日の朝6時。アルフレッド・アーチボルド・ジョーンズは、クリックルウッド・ブロードウェイに停めた自分の車の中に掃除機のホースで排気ガスを呼び込み、自殺を図っていました。それは覚悟の自殺。30年連れ添ったイタリア人の妻・オフィーリアに離婚されたのが原因。しかしそれは妻を愛していたからではなく、むしろ愛情がないのにこれほどにも長く妻と暮らしてきたからでした。アーチーは合わないのが分かりつつも対面を気にして我慢して暮らしていたのに、ある日妻は出ていったのです。しかしアーチーの意識が朦朧としていた時にその自殺に邪魔が入ります。フセイン=イスマイルの店のオーナー・モウ・フセイン=イスマイルが自分の店の前の配達のトラックが停まる場所に違法駐車している車を見つけたのです。

大学時代に書いた短編が話題となって、この作品の版権を巡ってロンドンの出版社が争奪戦を繰り広げたというゼイディー・スミスのデビュー作。ものすごく沢山の賞を受賞してるようですね... これは確かにちょっと新人離れした作品かも。
イギリス人アーチーの妻はジャマイカ人のクララ。2人の娘はアイリー。アーチーの第二次世界大戦来の友人・サマード・ミアー・イクバルとその妻・アルサナはベンガル人のムスリムで、マジドとミラトという双子の息子がいます。移民した2組の夫婦(アーチーは純粋なイギリス人だけど)とその子供たち、2世代のアイデンティティの物語という意味ではジュンパ・ラヒリの作品群を思い出すんですが... 雰囲気は全然違いますね。キラン・デサイの作品を読んでも、ジュンパ・ラヒリの描くインド系の人たちはごくごく少数の成功者だったんだなあとしみじみ思ったんですが、この作品を読んでも、あれはほんと綺麗すぎるほど綺麗な世界だったなと思ってしまいます。読んでいる時はむしろスタインベックの「エデンの東」を思い出してました。実際にはもっともっと饒舌でパワフル、そしてコミカルなんですけどね。20世紀末に生きる彼らの物語は、第二次世界大戦中の思い出から1907年のジャマイカ大地震、一時は1857年のセポイの乱で活躍したというサマードの曽祖父・マンガル・パンデーのエピソードにまで遡ります。150年ほどの長い期間を描き上げた大河ドラマ。舞台もロンドンの下町からロシア、インド、ジャマイカまで。人種や宗教、家族、歴史、恋愛、性など様々な事柄を1つの鍋に突っ込んでごった煮にしたという印象の作品。下巻に入ってユダヤ系のインテリ家庭・チャルフェン一家が登場すると、さらにパワーアップ。
途中やや中だるみしたんですけど、パワフルな登場人物たちが常に楽しげに忙しなく動き回っていて、全体的には楽しかったです。とてもじゃないけど若い作家のデビュー作品とは思えないスケールの大きさですね。このゼイディー・スミスの父はイギリス人、母はジャマイカ人。実際にこの物語の舞台となったロンドン北西部のウィルズデンに住んでいたのだそう。ということは、ゼイディー・スミスはアイリーなのかな? だからアイリーの心理描写が特に詳しいのかな。でも著者近影を見るとスリムな美人のゼイディー・スミスは、胸もお尻も腿も大きいジャマイカ系のアイリーとはちょっとイメージが違いますね。むしろその美しさでアーチーを圧倒したクララかも。(新潮クレストブックス)

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駅に行って駅員に家具の発送について尋ねたジョアンナ。次のの金曜日に寝室1つ分の家具をサスカチェワンに送りたいのです。切符を買うと、今度は高級婦人服店へと向かいます...という「恋占い」他、全9編の短編集。

カナダの田舎町を舞台にした短編集。同じカナダで、同じスコットランド系、同じ世代のアリステア・マクラウドの作品とはまた全然違うカナダの姿が見えてきます。でもアリステア・マクラウドの作品みたいな自然の厳しさみたいなのはなくて、作品の雰囲気としてはかなり違うと思うんですけど、骨太なところ、人間の営みとしての生と死が描かれているところは共通していると言えるかも。
一読しただけでは意味が取れなくて読みにくい文章が結構あったんですが、これは原文のせいなのでしょうかー。でも読み終わってみれば、どれも読後に余韻が残る物語ばかり。70年生きてきた人間の重みなのかな。まず登場人物の造形がいいんですよね。ふと通りがかっていく人物にも思わぬリアリティがあって、はっとさせられることもしばしば。そして、ふとした出来事がその後の展開をまるで変えてしまうというのもいいんですよね。あざとさみたいなのはなくて、ものすごく自然なんです。ああ、そういうことも本当にあるのかも、なんて思えることばかり。たとえば上にあらすじを紹介した「恋占い」なんて、本当はものすごく残酷な話のはずだったのに...! 何がどうなるのかは、それなりの時間が経たないと見えてこないんですけどね。そこには単純に「幸せ」「不幸せ」と判断されることを拒むような深みがあります。
印象に残った作品は、最初の「恋占い」と表題作「イラクサ」、そして最後の「クマが山を越えてきた」。特にこの「クマが山を越えてきた」が良かったな。何度も読めば、それだけ味わいも増していきそうな短編集です。(新潮クレストブックス)

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兄に冴えない容姿をからかわれて育ったソーネチカは、幼い頃から本の虫。7歳の時から27歳になるまでの丸 20年間というもの、のべつまくなしに本を読み続け、やがて図書館専門学校を卒業すると、古い図書館の地下にある書庫で働き始めることに。そんなソーネチカがロベルトに出会ったのは、第二次世界大戦勃発後に疎開したウラル地方のスヴェルドロフスクの図書館でのことでした。それまでは一生結婚する気などなかった47歳のロベルトは、ソーネチカに運命を感じて結婚を申し込むことに。

主人公は、幼い頃から本が大好きで読んでばかりいたというソーネチカ。彼女がここまで自分のことを客観的に受け止められるようになったのは、本を沢山読んで育ったことに関係あったんでしょうか。13歳の頃の失恋も関係していたんでしょうか。もちろん元々の性格というのも大きいんでしょうね。でもここまで幸せな人生を送れたのはソーネチカだからこそ、というのだけは間違いないです。ロベルトとの結婚後に何度も「なんてこと、なんてこと、こんなに幸せでいいのかしら...」とつぶやくことになるソーネチカ。経済的には貧しくとも、どれほどの困難が先行きに待ち受けていようとも、今の状態に感謝して、周囲の人々にも愛を惜しまない女性。これほど精神的に豊かな女性って、なかなかいないでしょうね。修道院のシスターにだって、ここまでの女性はなかなかいないんじゃ...。そしてそれこそが、彼女の幸せの源。
そんなソーネチカに晩年降りかかった出来事は、他の人間には災難としか言いようのないものなんですが、ソーネチカにとってはそれもまた神に感謝すべきもの。こんな風に物事を受け止めることができれば、どれほど幸せか...。実際、ソーネチカの幸せな一生はソーネチカ自身が獲得したもの、と言い切ることができます。彼女には本当の強さがあるし、大きな愛情の持ち主には、おのずと大きな愛情が返ってくるものなのでしょう。幸せとは人にしてもらうものでも、人に頼ってなるものではなくて、自分自身でなるものだ、ということを改めて認識させられます。静かな余韻が残る幸せな作品です。(新潮クレストブックス)

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トンネル露地の部屋に姉と2人で暮らしている少年・ピン。姉は売春婦。相手が敵兵でも気にしません。ピン自身はピエトロマーグロの親方の靴屋で働いているはずなのですが、親方は1年の半分は牢屋暮らしをしている状態。結局、たちの悪い悪戯をしたり卑猥な言葉や悪態を吐き散らしながら、大人の世界に首を突っ込む日々。2人の母は既に亡くなり、存命中は訪ねてきていた船乗りの父親も、それ以来すっかり間遠になっていました。ある日酒場の大人たちに、姉の客のドイツ人水兵からピストルを盗んで来いと言われたピンは、姉と水兵がベッドにいる間に部屋に忍び込みます。

第二次世界大戦中のイタリアが舞台に、落ちこぼれのパルチザンの部隊に参加したピンを描く物語。でもファシズムとか、それに対抗するパルチザンの存在は背景に過ぎないような気がします。迫ってはくるんですけど、実際の戦闘場面なんかほとんどないですしね。あくまでもピンの物語。

このピンという少年、大人と対等に付き合ってもらおうとして頑張って背伸びをしてるんですけど、実際にはちゃんと相手にしてくれる大人なんてなかなかいないんですよね。結局ただの悪たれ扱いされてる。だからといって、子供同士の仲間もいないんです。その辺りのお母さん連中は自分の子供に、あんな育ちの悪い子と付き合っちゃいけませんって言ってるぐらいですから。そして気がつけば、ものすごく孤独な存在になってるピン。話すことが下ネタばかりなのは、売春婦の姉と2人の暮らしが長いから。実はその話題しか知らないだけ。しかも大人相手に対等な口を利くためには、際どいことを言って注目を浴びるしかないと思ってるから。だから「ませた子供だ」とかそういうのとは、また全然違う。多少目端が利いてしまうだけに、逆にとても痛々しい。本当は歌がとても上手なので、そういうところで感心させればいいようなものなんだけど...
本当はまだまだ子供なのに、子供らしさが全然ないのは(子供らしさがないだけで、子供っぽさはある)、やっぱり戦争と家庭環境のせいなんでしょうね。せめて母親がもう少し長く生きていれば。それか戦争中でなければ。昨日までの友達が明日は敵になっていたり、味方だと思っていた人物が裏切って何人もの人間が殺されたり、という場面を目の当たりにさせられてしまうピン。戦争って、こんな風にして子供から子供らしさを奪うものでもあるんですね。ピンはどこに行っても居場所を探してます。そんなピンに差し伸べられた手は大きくて暖かかったんですが... 読後に残ったのは、圧倒的な哀しさでした。

でも、以前「カルヴィーノの文学講義」を読んだ時の印象では、この「くもの巣の小道」があんまり重苦しくなってしまったから「軽さ」を目指すことになったのかなって感じだったんですけど、この作品を読んでみるとちょっと印象が違っていてびっくりです。実際には、この作品にも既に十分「軽さ」があるじゃないですか。もちろん十分重くもあるんですけどね。「軽さ」がありながら、その視点は容赦なく実態を抉り出しているという印象です。(ちくま文庫)


+既読のイタロ・カルヴィーノ作品の感想+
「宿命の交わる城」イタロ・カルヴィーノ
「不在の騎士」イタロ・カルヴィーノ
「レ・コスミコミケ」イタロ・カルヴィーノ
「なぜ古典を読むのか」イタロ・カルヴィーノ
「まっぷたつの子爵」「木のぼり男爵」イタロ・カルヴィーノ
「イタリア民話集」上下 カルヴィーノ
「魔法の庭」イタロ・カルヴィーノ
「見えない都市」イタロ・カルヴィーノ
「マルコヴァルドさんの四季」カルヴィーノ
「冬の夜ひとりの旅人が」イタロ・カルヴィーノ
「柔かい月」イタロ・カルヴィーノ
「カルヴィーノの文学講義」イタロ・カルヴィーノ
「パロマー」カルヴィーノ
「くもの巣の小道」イタロ・カルヴィーノ
「むずかしい愛」カルヴィーノ

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1986年2月。10歳の時に宇宙飛行士を目指していた両親を失い、母方の祖父に引き取られた少女・サイは、17歳になっていました。母方の祖父は元判事で、引退した後は北ヒマラヤの高地にある古い屋敷に愛犬のマットと料理人と共に暮らす日々。修道学校をやめたサイは近所に住むオールドミスのノニに勉強を習い、やがてノニが科学と数学を教えきれなくなると、家庭教師・ギヤンに数学を習うことに。そんな暮らしにある日侵入してきたのは、判事の狩猟用のライフルを狙ってやって来たネパール系の少年たち。インド、ブータン、シッキムの境界はこの辺りでは曖昧で、ネパール系インド人たちは自分たちの国または自治州を求めて集団で暴動を起こしていました。

中心となる登場人物はインド人ばかりなのに、純粋にインド人らしいインド人がほとんどいないのに、まずびっくり。サラを引き取った老判事は、元々は農民のカーストの貧しい家の出身なのに、頭の良さでケンブリッジ大学に留学したという人物。イギリスにいる間は全然イギリスに馴染めなかったのに、帰国後はまるで自分自身がイギリス人みたいな振る舞いなんです。近所に住んでいてサラの家庭教師を引き受けたノニとローラの姉妹も、経済的に豊かで、特にローラの娘がイギリスのBBCにいることもあって、すっかりイギリス贔屓。そしてそれはサイにも受け継がれています。サイはインド人なのに中身は英国人みたい。インドについてほとんど何も知らないんです。両親と暮らしていたのはロシアだし、インドに戻っても修道学校に入ってたし、両親が亡くなってからは祖父の家に来て、食事も当然のように手づかみではなくナイフとフォークを使いますしね。英国風の紅茶は淹れられても、インド風のチャイの淹れ方は知らないし。老判事の家の料理人は、先祖代々白人に仕えてきたことを誇りにしていたので、勤め始めた時はインド人の主人を不満に思っていたほど。今はアメリカに渡った息子が自慢の種。でもその息子はアメリカに不法滞在して、ニューヨークの飲食店で働いてはクビになるのを繰り返し。周囲にいるのはアジア人やアフリカ人ばかり。インドの歴史に白人がしたことは分かっていても、それでもやっぱり白人に憧れてて、同じアジア人に差別感情を抱いていたりします。みんな欧米文化に対して屈折した憧れを持ってるんです。
それでも、そのまま何もなければ良かったんでしょうけど...
ネパール系インド人たちのゴルカ民族解放戦線(GNLF)の運動に巻き込まれたことが引き金となって、それぞれの不自然さが浮き彫りになっていきます。

「喪失」とひとことで言っても、この作品には色々な喪失が登場すると思うんですけど、一番印象に残ったのは「純粋なインド」の喪失でしょうか。インドは厳格なカースト制度のある国だし、そういう意味でも問題は色々あるんでしょうけど、最初はボタンを掛け違えていただけだっただろうと思うんですよね。でも他国の介入によって、気づけば取り返しのつかないところまで掛け違ってしまっていたという現実に直面させられます。ローラが娘に言ったように、インドは最早「沈みゆく船」で、「扉は永久に開いていない」ようです。
孤独な人々が孤独なまま寄り添って暮らしながら、本質的な孤独からは目を背けているみたい。未来に対する希望も何もないままなのも、綺麗事ではないインドそのままの状況を描いたと言えるのかもしれないですね。(ハヤカワepiブック・プラネット)


+既読のキラン・デサイ作品の感想+
「グアヴァ園は大騒ぎ」キラン・デサイ
「喪失の響き」キラン・デサイ

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タイにやって来るのは、6月はドイツ人、7月はイタリア人、フランス人、イギリス人、アメリカ人、8月は日本人、9月は中国人とオーストラリア人。そして「ぼく」はこの夏、あるアメリカ人の女の子に出会っていました... という「ガイジン」他、全7編の短編集。

タイを舞台にした短編集。タイ人作家の作品を読むのは初めてなんですが、カズオ・イシグロやジュンパ・ラヒリ、チャンネ・リーらと同じように英語で作品を書く作家なんですねー。シカゴに生まれ、タイで育ち、タイの大学とアメリカのコーネル大学で学位を取得後、ミシガン大学大学院のクリエイティブ・ライティング・コースで創作を学んだというインテリ作家。
観光客としてタイを訪れたことはあるし、日本で育ったタイ系の知り合いはいるんですけど、実際にタイの人を知ってるかといわれるとやっぱり「知らない」です。そもそも観光で訪れても、現地に生まれ育つ人々のことを知る機会ってあまりないですしね。彼らにとっても、訪れている観光客は十把一絡げに「観光客」で、それ以上のものでもそれ以下のものでもないでしょうし。そんな、普段なかなか感じることのできない現地の人々の生活や息遣いが直に伝わってくるような短編集。観光客には見えてこない生活がそこにはあるんだな、というごく当たり前のことを思い出させてくれるような作品群です。
でもね、読み終わってみると、やっぱりアメリカで教育を受けてる作家さんなんだなあ、というのも思ってしまいました。ここに描かれているタイ人たちの生活は生々しいようでいて、一番深くて汚い部分は綺麗に覆い隠しているような印象もあって... 現地の人々の生活が見えてくると思ってても、やっぱりそれはちょっと違うのかも、って思ってしまったんです。この短編集の最後に収められている「闘鶏師」なんかは、結構すごいんですけどね... でもどこか最終的な泥臭さが足りないような。そしてそんなところが欧米でベストセラーになった所以なのではないかと思ってみたり。
とは言っても、それでも素晴らしい作品だったと思うんですけどね。短編が苦手な私にも、ものすごく面白かったですし。(ハヤカワepiブック・プラネット)

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アイルランド語の物語を独特の口上で語り始めるのが好きだった父のように話を語り起こせたら。...父が得意だったのは船長もののお話。そのお話は、しばらく聞き入っていて始めてそれが単なる前口上に過ぎず、肝心の物語はまだ始まってないと分かるものだったり、果てしない入れ子構造だったり... 「嵐の夜、ビスケー湾でのこと、船長と船乗りたちが火を囲んで座っていた。突然、ひとりの船乗りが、船長、お話をしてくださいよ、と言った。そこで船長がこんなふうに語りはじめた。嵐の夜、ビスケー湾でのこと、船長と船乗りたちが火を囲んで座っていた。突然、、ひとりの船乗りが、船長、お話をしてくださいよ、言った。そこで船長がこんなふうに語り始めた...」 果てしない入れ子物語の拷問が続くのか、それとも7番目か8番目の船長がお話の中に乗り出していってくれるのか、それは誰にも分からないのです。

AからZまでの章題の元に書かれていく物語。そこに書かれているのは堤防の決壊を食い止めたオランダ人の少年の物語だったり、フェルメールの絵に関する薀蓄だったり、チューリップ狂時代のことだったり、中世の聖人たちの物語だったり、様々な民話だったり、ギリシャ神話やローマ神話のエピソードだったり... アイルランド生まれの作家であり詩人でもあるキアラン・カーソンなので、アイルランドの神話や民話も登場します。そして、それらの物語の語り手も様々。一番の語り手は「わたし」なんですけど、「わたし」の父親が語った物語、その父親の語った冒険王ジャックの物語などなど、どんどん入れ子になっていくという構造。訳者あとがきに「物語の尻取りゲーム」という言葉があるんですけど、まさにその通りですね。ほんのゆるやかな繋がりで物語は広がり発展し続けていきます。作中に出てくるアテネとアリアドネが織り上げる織物のように、様々な物語がそこには描き出されて... そしてそこに点在しているのが、道しるべのようにばら撒かれた琥珀。様々な色彩に溢れた物語を琥珀がゆるやかに結びつけていきます。
これは千夜一夜物語のように一夜に一章ずつ読んでいくのが相応しい作品かも。私も読むのに結構時間をかけたんですが、もっともっとゆっくり読んでも良かったかもーっ。1つの中心となるストーリーがあって展開していくタイプの作品ではないですしね。だからといって、途中から読んでも構わないというタイプの作品ではないのだけど。一旦この世界に迷い込んでしまったら、もう抜けられないというか抜けたくないというか... いつまでも読んでいたかった。ということで、一度読み終わってしまったんですけど、もう一回、26夜かけて1章ずつ読み返していくつもりです。(東京創元社)


+既読のキアラン・カーソン作品の感想+
「琥珀捕り」キアラン・カーソン
「シャムロック・ティー」キアラン・カーソン

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妹のマラーが亡くなった知らせに、サラの母・マリアムは嘆き悲しみます。ロンドンに住むマリアムは、テヘランに住むマラーに1年以上会っていなかったのです。マラーの夫が既に再婚していたこともあり、マラーの一番下の息子のサイードがロンドンへとやって来て、15年前にサラが家を出るまで使っていた部屋に落ち着くことに。しかしサイードは学校に通い始めるたとたん、いじめられ始めていました。授業時間中にショッピングモールで途方にくれていたサイードは警察に保護され、サラとマリアムは迎えに行くのですが、その後入ったパブでマリアムはサイードにいきなり平手打ちを食らわせます。店を出ると橋から飛び降りようとするサイード。そしてサイードの身体を引き戻そうとしたサラは腹部を蹴られ流産。ショックを受けたマリアムはしばらくイランへと帰ることに。

「ずいぶん長いあいだ二つの場所のあいだにいたような気がする」というマリアム。彼女の中にあるのはロンドンでの現在とイランでの娘時代。そしてイランを知らない娘のサラ。2人の物語が交互に進んでいきます。
青いタイルを並べたような表紙が印象的な本ですが、サフランといえば赤。サフランを使った料理は黄色くなりますけど、サフランのめしべ自体は赤。キッチンの壁を塗ろうとした時に、サラとサイードが2人でサフランの色を表現し始める場面が素敵。「夕焼けみたいに真っ赤」「切り傷つくっちゃったときの血の色」「お母さんの指先についたヘナ」「トルバートゥの土か、ゴセマールバートの土」「溶岩の色」「水ギセル(フーカ)の燃えさし」「ケシにザクロ」... どの表現からも想像できるのは深い赤。サフランの赤は、きっとイランの赤なんでしょうね。

でも半分はイギリス人でイランには行ったことのないサラでも、そんな風にサイードと色の感覚を共有できるのに、マリアムはイギリス人の夫・エドワードとは言葉も記憶も分かち合えない夫婦だと感じてるんです。長年の夫婦生活の中でエドワードの穏やかさにきっと何度も救われてるでしょうに...。妻であり母である前に1人の人間、というのは誰にでもあると思いますが、マリアムはその傾向が人一倍強いです。普通だったら、年齢を重ねるにしたがって、石の角が少しずつとれていくような感じになりそうなものなんですが、マリアムの場合は革命で肉親を失ってるし、祖国から遠く隔てられてしまうことによって、そういう感情が人一倍強く残ってしまったのかも。でも、イランで一般的に女性が求められる役割を拒否することによって、マリアム自身が彼女の横暴な父親そっくりの人間になってしまったように感じられるのが皮肉です。...で、そういった昔ながらのイランの家族のあり方などもとても興味深く読みました。これを読むと、先日読んだ「テヘランでロリータを読む」は、やっぱり浅かったように思えてならないなあ。
でもね、終盤近くまでは良かったと思うんですけど、サラとマリアムが再会した辺りからは、なんだか妙に浅くなってしまったような... いきなり都合のいい話になってしまったようで、それがちょっと残念です。(新潮クレストブックス)

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ニューヨークから北へ50分ほど離れた美しい町・ベドリー・ランに住んでいるフランクリン・ハタ。彼はアメリカに留まることを決意した日本人。新聞の短い三面記事で新しくできた町のことを知り、どこか惹かれるものを感じて、30年以上前にここに医療用品や医療器具を扱う店を開いたのです。引越し当時は誰も知っている人間がいなかった彼も、誰にでも知られている存在。現在は70歳も過ぎており、既に店は売却しているものの、親しみやすさから敬意を込めて「ドク」「ドク・ハタ」と呼ばれており、そんな町の空気を有難いものとして受け止めてきていました。

ドク・ハタが日々出会う人々との話から過去のこと、養女のサニーとのこと、一時期親しかった未亡人・メアリー・バーンズのこと、第二次大戦中に医療助手として軍医について任務についていた時のことなどを回想していきます。
この作品のタイトルは「A Gesture Life」。作品の途中で「体裁」という言葉に「ジェスチャー」というルビが振られていました。「生活のぜんぶを体裁と礼儀でつくりあげてる」... というのは養女のサニーの言葉。序盤から自分のことを人望のある「親切なドク・ハタ」で、町一番の大きさではないものの、立派な美しい家に住んでいることをさりげなく強調するドク・ハタなんですが、やっぱりこれも一人称ですからね... 反抗期に入ったサニーがドク・ハタに向ける言葉がとても辛辣。確かにドク・ハタは自分の評判や立場を作り上げ、常にそれを守るために行動してるし、それは彼を一見人格者のように見せてるんだけど... でもこれも在日朝鮮人の子供として生まれて日本人の養子となり、アメリカでは日系アメリカ人として暮らすことになったドク・ハタにとっては、一種の防衛本能だったんじゃないかと思うんですよね。誰も傷つけたくないという優しさは優柔不断と紙一重だし、結局彼は大切な人間を傷つけて失ってしまうことになるのですが。選択をしないというのも、1つの立派な選択ですものね。そして彼の一番の不幸は、それでもドク・ハタが傍目には不幸な人間には決して見えないことだったのかもしれません。失ったものに対して罪の意識を持ち続け、そして常に自分が外部者であることを意識し続け、その最後の場所を失うことを心の奥底で怯えているドク・ハタの姿が切ないです。

チャンネ・リーは韓国人従軍慰安婦のことを全く知らずに育ち、ある時知って、大きな衝撃を受けたのだそう。そして韓国人従軍慰安婦だった女性に長いインタビューをして、最初はその女性を中心とした作品を書こうとして、でもそれでは真実も深みも全く足りないのに気づいて、このドク・ハタの物語としたのだそうです。確かにドク・ハタの目を通して従軍慰安婦を見ることによって、その問題を生き生きと蘇らせているような気がしますし、同時にそれによってドク・ハタの認識の甘さも露呈されることになってるんですね。(新潮クレストブックス)

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イダが生まれた時、エレンは既に4人きょうだいでした。長女のビリー、長男のケスター、次女のエレン、そして赤ん坊のカルロス。母のマルヒェは、自分が1人っ子の家庭に育って嫌な思いをしていたので、笑いと喧騒にあふれた家を幸せな家庭としてイメージして、子供を6人欲しがっていたのです。両親がアメリカに関する文献を専門に切り抜き資料として保存するファン・ベメル事務所をしていたために家中が天井まで届く資料棚と黄ばんだ紙の臭いで溢れかえり、家の中は賑やかさに包まれていました。しかし生まれたイダに吐き癖があり、1日中むずかって泣き叫び、母もイダにミルクを飲ませられないほど衰弱していたため、徐々に「幸せな家庭」の歯車が狂い始めます。

絵に描いたような幸せな家庭を襲う悲劇。物語が始まった時から、何とも言いようのない緊張感をはらんでいて、その予感通りに暗い方向へと突き進んでいきます。でもその核心が何なのか正体はなかなか見せないままに、エレンが12歳だった頃の物語と約30年後の現在の物語が交互に進んでいきます。30年後のエレンは解剖医。妊娠中にもかかわらず離婚して、かつて自分が少女の頃に住んでいた家に戻ってきています。
家族の中で一番利発だったエレン。難しい言葉を使うのが大好きで、時には生意気としか思えない発言をするエレンなんですが、それでもまだ12歳。それでこんな衝撃を体験することになったというのが... 利発だからきちんと全てを見届けてるんですけどね...。現代の読者が読めば、その時何が起きていたのかほぼ予想がつくと思うんですが、この頃はそういう概念すらなかったんですね。しかも今なら12歳の子供が家のことを他人に相談できる専門の場所もありますけど、この頃は全然だったはず。こういった物語はそこかしこにあったのかも。
最後に彼女が自分のイデ=ソフィーの名前を託す場面が良かったです。ようやく救われた気がします。(新潮クレストブックス)

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ノリーことエレノア・ウィンスロウは、お父さんとお母さんと2歳の弟と一緒にアメリカからイギリスに引っ越してきた9歳の女の子。イギリスのスレルという町でスレル校というところの小学部に通っています。将来の夢は、歯医者さんかペーパーエンジニアになること。最近とても好きなのは中国の女の子の絵を描くこととお話を作ること。

ニコルソン・ベイカーの本は「中二階」に続いて2冊目。でもその「中二階」とも全然雰囲気が違うし、「Hで愉快な電話小説」だという「もしもし」とも、「時間を止めて女性の服を脱がせる特技をもつ男の自伝」だという「フェルマータ」とも全然違う(はず)の作品。だってこの作品は、全編9歳のノリー視点の物語なんですもん! ニコルソン・ベイカーが自分の娘をモデルに書き上げたようで、かーなりのユニークな作品。「中二階」みたいな作品を書く人の娘だけあって、さすがに思考回路が理屈っぽいなーとも思うんですが(笑)、理屈っぽくても子供っぽい可愛らしさもたっぷりなので、全然大丈夫。ノリー、可愛いです! でもこの子供らしい様々な間違いも含めて全て日本語らしい日本語に訳すのは大変だったでしょうねえ。岸本佐知子さん、ほんと適材適所です。

アメリカで親友だったデボラと離れたのは寂しいけれど、新しい学校でもキラという仲良しの女の子ができるノリー。でも同じクラスのパメラという女の子がいじめられていているのを黙って見過ごしていることができないんですね。で、パメラとも仲良くなっちゃう。だってパメラは悪いことなんて何にもしてないし、ノリーが転校したばかりの時に道が分からなくなったノリーに親切にしてくれたんだから。でもパメラと一緒にいるだけで、ノリーも相当からかわれることになるんです。ノリーの仲良しのキラも、パメラと仲良くするとノリーもいじめられちゃうようになるよ、と何度も言ってますしね。こういう時、自分もいじめられるのが怖くて、嫌いでもないのにいじめっ子たちと一緒になって笑ったりしてしまう子の方が断然多いと思うんですが、ノリー、強いです。からかわれた時も、どれだけ効果的に反撃するか頑張ってますから。でもそんなノリーも常に自信たっぷりというわけではないのが、逆に人間らしいところでいいのかも。そんな時も、やっぱりノリーの思考回路って面白いんです。(白水uブックス)


+既読のニコルソン・ベイカーの作品+
「中二階」ニコルソン・ベイカー
「ノリーのおわらない物語」ニコルソン・ベイカー

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1779年、55歳でスコットランドのモイダートから新世界へと渡っていった男がいました。それはキャラム・ムーア。ケープ・ブレトンに行けば土地が手に入るというゲール語の手紙を受け取っていたのです。航海中に妻は病死するものの、12人の子供たちと長女の夫、そして犬は無事に新大陸に辿りつきます。そして「赤毛のキャラムの子供たち」と呼ばれる子孫たちが徐々に広がっていくことに。そしてその曾孫のさらに孫の時代。矯正歯科医をしているアレグザンダーは、かつては誇り高い炭鉱夫だったのに今は酒に溺れる兄・キャラムを週に一度訪ねるのを習慣にしていました。

寡作なアリステア・マクラウドの唯一の長編。短編を2冊読んで、この長編を読んでいるわけなんですが、短編の名手と言われるだけあって長編よりも短編の方がいいのかしら、なんて思いながら読んでたんです。長編好きで短編が苦手の私にしてはちょっと珍しいんですが、短編の方が読みやすかったし。でも最後まで読んでみると、やっぱりいいですね。色んなエピソードがいつの間にかその情景と共に脳裏に刻み込まれていたのを感じました。これがアリステア・マクラウドの底力なのかも。

スコットランドからカナダへとやって来たキャラム・ムーアとその子供たち。そして幾世代を経てもそれと分かる「クロウン・キャラム・ムーア(赤毛のキャラムの子供たち)」の一大叙事詩。語り手となっているのは、現在矯正歯科医をしているアレグザンダー。彼も双子の妹も今は裕福な暮らしを送ってるし、「ギラ・ベク・ルーア(小さな赤毛の男の子)」なんて呼ばれた頃の面影はあまり残ってません。ゲール語も理解するけれど、祖父母の世代にとってのゲール語とはまた違うし、ハイランダーとしての彼らは失われつつあるんです。時が流れているのを実感。でも読んでいると、まさに「血は水より濃し」だと感じさせられられる場面がとても多くて。
一族のルーツとその広がりを描くことによって、キャラム家の持つ底力と言えそうな強さや、歓び、哀しみが滲み出してくるみたい。何度か登場する犬のエピソードのような、情が深く真っ直ぐながらも不器用なその生き様。そしてやっぱり読んでいて一番印象に残ったのは、犬のエピソードですね。特にスコットランドからカナダへと向かおうとする彼らを追いかけてきた犬の話。あとは一働きしてくれた馬に燕麦をやる話とか... あと好きだったのは、まるで正反対の気質を持つ父方の祖父と母方の祖父のエピソード。2人とも本当に素敵だったなあ。(新潮クレストブックス)


+既読のアリステア・マクラウド作品の感想+
「灰色の輝ける贈り物」アリステア・マクラウド
「冬の犬」アリステア・マクラウド
「彼方なる歌に耳を澄ませよ」アリステア・マクラウド

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本当はひとりっ子なのに、長い間兄さんがいるつもりになっていた「ぼく」。自分で作り出した悲しみや恐怖を分かち合う相手が必要で、長い間ハンサムで力強い「兄さん」に助けてもらっていたのです。しかしそんなある日、「ぼく」はついに1人きりではなくなります。屋根裏部屋に積み重ねられた古いトランクの中にベークライトの目をしたほこりっぽい小犬のぬいぐるみが出てきたのです。そして「ぼく」は15歳の時に、その小犬にまつわる話を聞くことに。

フィリップ・グランベールの自伝的作品。実際、彼が自分の家族にまつわる秘密を知ったのは、この本と同じく15歳の頃だったんだそうです。本職は精神科医という作家さん。
ここに描かれているものはとても重いものなんですけど、最初から最後まで終始淡々とした感情を抑えた文章で書かれていました。簡潔な文章の積み重ね。でも物凄く簡潔なのにその奥には色んな感情が詰まってて、ふとした拍子に零れ落ちてきそう。...なんて思いながら読んでいたら、フィリップ・グランベールはこの作品を2ヶ月ほどの間に夢中で書き上げたものの、最初書いたものは文章が感情に流されていて使い物にならなかったんだそうです。疲れ果て体調を崩しながらも書き直し続けた時、最後に「残ったのは骨の部分だけでした。結局それだけが必要だったのです」... その言葉には本当に納得。
特に印象に残ったのは、最初は自分で作り出した悲しみに浸っていた主人公が、ルイーズのおかげで両親の物語を再構成すると、今度は口をつぐみ、逆の立場になったこと。...でも他人の悩みを聞き、その悩みから解放する精神分析医という仕事をしながらも、自分の悩みから解放されるには、こうやって書くという行為が必要だったのかなあ。なんて感慨深く思ってみたり。(新潮クレストブックス)

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そこにあったのは、アリアドネのスレッド。その冒頭には、「私を見つけようとする人といっしょに、自分も姿を消してしまえるような迷宮を私はつくろう。これは誰が何について語ったのか?」というアリアドネの書き込みがありました。最初からそこにいたメンバーは「オルガニズム(^O^)」「ロミオとコイーバ」の2人。やがて「ナッツ・クラッカー」が加わります。ハンドルネームは勝手につけられたもの。3人とも気がついたら古代ギリシャ人の衣裳・キトンを着せられて、それぞれに小部屋の中にいたのです。やがてそのチャットには「モンストラダムス」「アリアドネ」「イゾルデ」が、そしてさらに「ウグリ666」「サルトリスト」が加わります。

8人の人間がチャットをしながら進んでいく物語。元ネタはギリシャ神話の中のミノタウロスのエピソード。迷宮に閉じ込められたミノタウロスを、アリアドネの助けを得たアテネの王子・テセウスが倒すというものです。そしてヴィクトル・ペレーヴィンはロシアでは人気の作家なのだそう。ロシア人作家によるチャットとギリシャ神話という組み合わせに興味を引かれたのですが、これがなかなかの難物でした...

チャットなので、短い言葉のやり取りがメインだし、さくさくと読み進められるのではないかなーと思ってたんですけど、これが全然。会話の内容がものすごく観念的なんです。特にアリアドネがみた夢の話の辺りからどんどんわけが分からなって、これはまさに迷宮状態。ギリシャ神話では、テセウスが迷宮を脱出するのを手伝うアリアドネなんですけど、ここでは逆にアリアドネが他の面々を迷宮の奥深くに迎え入れてるみたい。
途中で「ディスクール」という言葉が登場するんですけど、これがポイントなのかな? これは「物事や考えを言葉で説明すること。またはその言葉、言説」という意味。そもそもチャットって言葉のみで成り立っているものだし、これがとても暗示的な気がします。8人がいるのが似たような部屋だからって、その部屋が同じ場所にあるとは限らないし、全ての人間が本当のことを話しているという保証もないわけで... 実際それでトラブルが起こることもありますしね。それでも迷宮から脱出するために、この「ディスクール」とともに進まなくちゃいけないんです。
きっとこういう話の1つ1つを完全に理解する必要はないんでしょうけど... でもほんとワケ分かりません。とは言ってもつまらないわけじゃなくて、むしろ面白いのがすごい。読み終わった途端にじっくり読み返してみたくなります。(角川書店)


+既読の新・世界の神話シリーズ作品の感想+
「ペネロピアド」マーガレット・アトウッド
「永遠を背負う男」ジャネット・ウィンターソン
「恐怖の兜」ヴィクトル・ペレーヴィン

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元獣医で現在90歳、もしくは93歳のジェイコブ・ヤンコフスキは、今は老人ホームに暮らす日々。そんなある日その町にサーカスがやってきたことから、昔のことを思い出します。それは23歳のジェイコブがコーネル大学で獣医になるための勉強をしていた時のこと。両親を突然事故で失い、全財産が銀行に取り上げられることになって帰る場所もなくなったジェイコブは、最後の試験を放棄して町外れを歩いていた時に、咄嗟にやって来た列車に乗り込んだのです。それは「地上最大のベンジーニ・ブラザーズ・サーカス」の列車。ジェイコブはしばらくそのサーカスに同行して、動物たちの面倒をみることに。

聖月さんに教えていただいた作品。「抱いて眠りたいような、そんな後味でした」と仰ってたんですが、その言葉に納得! ものすごく良かったです~。
ええと、殺人現場のプロローグから始まるのでミステリ小説とも言えそうなんですが、これはミステリという枠に押し込めたくない作品ですね。主人公は、90歳(もしくは93歳)のジェイコブ。自分の記憶の不確かさを不安に思いながらも精神的に自立した1人の人間でいたいと思っている誇り高い男性で、幼児食のような日々の食事にも、親切なようでいて本人の意志を無視している介護にも我慢ならず、ついつい癇癪を起こしてしまいます。そんな現在の物語もいいんですけど、この作品のメインは、70年前のサーカスで暮らした濃密な4ヶ月間の物語。
サーカスという世界にいる人々は、名門大学の獣医学部では到底会えないような個性的な面々。馬のショーをしている美しいマーリーナ、気分の変わりやすい演技主任兼動物監督のオーガスト、独裁的なトップのアンクル・アル、気難しいけれど教養のあるピエロのキンコー(ウォルター)、飛び込んできたジェイコブを列車から放り出さなかった、キャメルやグレイディといった気のいい裏方の男たち。純真なジェイコブは、猥雑なサーカスの中で揉まれて大きく成長することになるんです。今まで見たことのない世界に驚き、次第に適応しながらも、それでも決して擦れてしまうことのないジェイコブ。動物に対しても変わることのない愛情を注ぎます。そんな愛情を、動物たちもしっかり感じ取ってるんですよね。そんな中で特に魅力的なのが象のロージー。動物好きに悪い人間はいない、というのは必ずしも真実ではないかもしれないんですけど、そんなことを思いたくなる暖かさ。サーカスの表向きの華やかな顔と、観客からは隠されている裏の顔のバランスも絶妙です。
でも若いジェイコブの物語だけなら、これほどの作品にはならなかったのではないかしら。年齢を重ねたジェイコブの存在があってこその物語という気がします。

これは古き良きアメリカの物語ですね。列車のサーカスが来るのを見て育ったアメリカ人には、もう本当に堪らないのでは! という私も、サーカスは子供の頃に2~3度見に行った覚えがあるんですけど... そういう小綺麗で現代的なサーカスとはまた全然違うんですよね。この時代を直接知ってる人には、もっとこう何ていうか圧倒的に迫ってくるんだろうなって思います。知らない私にもぐいぐい来ましたもん! 読みながら、時には息を潜めたり、時にはページをめくる手が早くなったり、時には同じ箇所を反芻してみたり。一緒になって怒ったり笑ったりほっとしたり。そしてこれ以上ないほど素敵なラスト。いやあ、ほんといいお話でした。これはまさに「読むべし」です!(ランダムハウス講談社)

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妻と娘が1人おり、パリとローマにアパートを持っている中年男性のパロマー氏。時には浜辺や動物園に行き、時には街角で買い物をして、時には竜安寺の石庭を眺め、時にはメキシコにあるトルテカ族のかつての首都トゥーラの遺跡を見学するパロマー氏。そんなパロマー氏が様々なものを観察する不連続な短編集。「パロマー氏の休暇」「街のパロマー氏」「パロマー氏の沈黙」という3部それぞれが3章ずつに分かれて、そのそれぞれに3つずつの短編が入っています。

3つずつの短編はそれぞれ「視覚による経験」「人類学的もしくは広義の文化的要素」「より思索的経験」という3種類のの主題領域に則って書かれていて、作品全体を縦に読むだけでなく、横に読むことができるようになっているんだそうです。という3つの違いは、一読しただけでは、ああ確かに言われてみれば、程度だったんだけど...(汗)
パロマー氏がしているのは、もっぱら観察して考えること。例えば浜辺で波について、胸を露にして日光浴をしている女性について、傾きかけた陽射しについて、あるいは街で買い物をしている時に鵞鳥の脂肪が詰まった小瓶を見ながら、店頭に置かれた様々なチーズを見ながら、肉屋のカウンターの向こうを見ながら、詳細に観察、そして思索します。浜辺や自宅のように人気のないところで思索している分にはあまり他人の迷惑にはならないんですけど、街角の商店では後ろに並んでいる人たちに睨まれて、慌てて詰まらないものを買ってみたり。

最後の方で読書に関する文章があって、私はそれが好きでした! 「冬の夜ひとりの旅人が」や「なぜ古典を読むのか」に直接繋がるような部分。そうそう、「冬の夜ひとりの旅人が」を読んだ時にkotaさんに、私には「パロマー」がおすすめかもしれないし、まったくおすすめできないかもしれない、と教えて頂いていたのでした。というのはここの部分があるからじゃなくて、この本全体のことだと理解してるのですが。
このパロマー氏は、カルヴィーノ自身なんですかね? いやー、やっぱり妙な作品だったわー。このパルマー氏が普段何の仕事をしているのかは明らかじゃないんですけど、周囲の迷惑も顧みないその深い思索、その詳細さ、そして横道への逸れぶりが可笑しいんです。でも読んでると、ほらほら面白くないでしょ?と言われてる気がしてならなくて。でもこういうのってoverQさんの仰る「部分>全体」を思い出しちゃう。詳細な「部分」は「全体」を凌駕するということを実践してみせた作品だったのかな?(笑)(岩波文庫)


+既読のイタロ・カルヴィーノ作品の感想+
「宿命の交わる城」イタロ・カルヴィーノ
「不在の騎士」イタロ・カルヴィーノ
「レ・コスミコミケ」イタロ・カルヴィーノ
「なぜ古典を読むのか」イタロ・カルヴィーノ
「まっぷたつの子爵」「木のぼり男爵」イタロ・カルヴィーノ
「イタリア民話集」上下 カルヴィーノ
「魔法の庭」イタロ・カルヴィーノ
「見えない都市」イタロ・カルヴィーノ
「マルコヴァルドさんの四季」カルヴィーノ
「冬の夜ひとりの旅人が」イタロ・カルヴィーノ
「柔かい月」イタロ・カルヴィーノ
「カルヴィーノの文学講義」イタロ・カルヴィーノ
「パロマー」カルヴィーノ
「くもの巣の小道」イタロ・カルヴィーノ
「むずかしい愛」カルヴィーノ

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ノックの音がしてキャスリンが目覚めたのは午前3時24分。夫はロンドンに行ってて留守、娘のマティは自分の部屋で寝ているはず。キャサリンはゆっくり起き上がって階下に降り、裏口のライトをつけます。そこにいたのは見知らぬ男。「ミセス・ライアンズですね?」と言われた瞬間、彼女は何が起きたか悟ります。パイロットである夫の操縦する飛行機が墜落したのです。それはアイルランド沖での出来事でした。

結婚16年目。15歳年上の夫・ジャックと15歳の娘・マティとの幸せな生活に突然起きた出来事とは、旅客機の墜落事故。その事故で100人以上の乗客が亡くなり、様々な憶測が飛び、残されたキャスリンと娘のマティに様々なことが降りかかってくることになります。
少しずつ読み進めている新潮クレストブックスですが、去年は手に取るのがばったり止まっちゃってたんですよね。それはこの作品で躓いていたせいだったのでした。なんとなく古い順から読んでいて、この本は文庫落ちしてるので文庫を買ってたんですけど、飛行機事故の話がどうしてもダメな私。(ついでにいえば、地震物もダメ) しかも本からなんだか苦手そうだなという匂いがぷんぷんと...。いや、それならそれであっさり飛ばしてしまえばいいようなものなんですが...。(それなのになんで買うんだ、私ってば)

で、実際読んでみて。やっぱり思ってた通りの作品でした。この展開も、やっぱり好みじゃなかったです。それでも一気に読ませられる作品ではありましたけどね。
良く知っているはずの人間が知らない面を持っているなんてよくあることだし、いくら一緒にいる時間が長くても、血が繋がってたとしても、1人の人間を完全に理解できたと思うなんて、やっぱり驕りだと思うんですよねえ。(新潮文庫)

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子供たちがコリーみたいな犬と遊んでいるのを見て、12歳の時に父親が買った犬を思い出す「私」。家では家畜用の働き者の若い犬を必要としていたのです... という表題作「冬の犬」他、全8編の短編集。

「灰色の輝ける贈り物」と同じく、カナダのケープ・ブレトン島が舞台となっている短編集。どうやら「灰色の輝ける贈り物」が「Island」という短編集の前半の8編で、こちらの「冬の犬」が後半の8編のようですね。その前半の8編と同じく、とても静かなのがまず印象に残ります。静謐で、でも生きる力に満ちた物語。この「生きる力」は、時には激しくて驚くほど。そして死。その背景にあるのは、厳しすぎるほど厳しい自然の姿。「赤毛のアン」のプリンス・エドワード島とは隣り合わせのはずなのに、なんでこんなに違うんだろう... と思わずにはいられません。気候的にもそれほど違わないはずなのに、ここまで違うとは。生き生きとした躍動感あふれる「赤毛のアン」とは対照的な、こちらはずっしりと貧しさと孤独がのしかかってくるような生活。「赤毛のアン」が春から初夏にかけての明るいイメージだとすれば、こちらは厳寒の冬の暗いイメージ。
どれも違う家族のことを描いているんですが、どれも同じ家族のことを書いているようでもあり... もちろんアリステア・マクラウドもその中の1人なんでしょうね。故郷スコットランドのハイランドやゲール語の存在がその根底に流れていて、故郷を離れなければならなかった深い悲哀を漂わせながらも、同時に時の流れを感じさせます。(新潮クレストブックス)


+既読のアリステア・マクラウド作品の感想+
「灰色の輝ける贈り物」アリステア・マクラウド
「冬の犬」アリステア・マクラウド
「彼方なる歌に耳を澄ませよ」アリステア・マクラウド

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フィンランドの国民的叙事詩・カレワラ。これは「イーリアス」と「ラーマーヤナ」と並ぶ世界三大叙事詩の1つでもあります。でも紀元前8世紀半ば頃にホメロスが作ったとされる「イーリアス」や、紀元3世紀頃にヴァールミーキが書いた(編纂した?)「ラーマーヤナ」とは違って、今読める「カレワラ」は、19世紀にリョンロットという人が様々な伝承歌謡を採取して、1つの物語となるように並べたもの。だからストーリー的には、「イーリアス」や「ラーマーヤナ」にやや劣るという欠点もあるんですね。私は好きなんですけど、なんでこれが世界三大叙事詩とされてるのかは、ちょっと疑問...。同じヨーロッパ圏から選ぶなら、例えば「古エッダ」「ニーベルンゲンの歌」辺りの方が妥当な気もするんだけど。
フィンランド人にとって「カレワラ」とは、カンテレという楽器の伴奏に合わせて吟唱するものなので、散文では書かれることはなかったそうなんですが、20世紀になって元ヘルシンキ大学教授のマルッティ・ハーヴィオ博士が「カレワラ物語」としてのカレワラを出版することになります。その訳がこの本。「タリナ」とは物語という意味なんだそうです。私は以前にきちんと叙事詩として訳されてる岩波文庫版の「カレワラ」を読んでるので、本当は散文訳は読まなくても良かったんですけど、でも北欧文化通信社の活動を応援する意味でも読んでみることに~。
ということで、カレワラを読むのはこれが3度目。(絵本を入れれば4度目・笑)
岩波文庫版に比べると、どうしてもかなり簡易版になっちゃってるし、私が大好きな「事物の起源」を唱えることによって魔法をかけるという部分もすごくあっさりしちゃってて残念なんですけど、それだけに頭の整理や復習にはぴったり。まとまりが良くて、とても読みやすかったです。これはカレワラ入門に最適かも。そしてカレワラ入門といえば、岩波少年文庫でも最近「カレワラ物語」というのが出てるんですよね。もしや「カレワラ」人気の兆候が?! そちらは岩波文庫と同じ小泉保さんの訳。これを読むまでは、「カレワラ物語」の方はいいやって思ってたんですけど、そちらもやっぱり読んでみたくなってきちゃいました。どう違うんだろう。同じような感じなのかしら。
あと、カレワラを題材にシベリウスが多数作曲していて、そちらもなかなか素敵です。(北欧文化通信社)

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初公判予定日の数日前に冠状動脈血栓症で死亡したハンバート・ハンバート。彼は「ロリータ、あるいは妻に先立たれた白人男性の告白録」という原稿を書き上げて弁護士に託していました。ハンバート・ハンバートとは、1910年にパリに生まれた人物。パリで1度結婚するものの離婚して渡米。下宿先のヘイズ夫人の12歳の娘・ドロレス(ロリータ)に少年時代の恋人・アナベルの面影を見て惹かれるものの、ヘイズ夫人と結婚することになるのですが...。

なぜか既視感がとても強かった作品。文庫本の裏表紙にも「ここまで誤解多き作品も数少ない」とあるし、他のところでも「思い描いているのとはまるで違う作品のはず」とか「先入観を覆される作品」みたいなことが書かれてるのを読んだことがあるんですけど、全然違いました。私が思い描いてる通りにどんどん展開していって、なんだか怖いぐらい。この作品は絶対に未読だし、映画も観たことないし、あらすじすら聞いたことないはずなのに、なぜ?!
周知の通り、「ロリータ・コンプレックス」という言葉の元になった作品なんですが、それについては、まあ「オイディプス王」と「エディプス・コンプレックス」よりは近いかなって感じですね。それより、これもまた「信用できない語り手」なんだなあという意味で面白かったです。この物語をロリータの目を通してみると一体どんな物語になるのかしら! そもそもハンバートの目を通して見るロリータは、ちょっぴり下品な小悪魔的魅力なんですけど、実際のところはどうだったのかしらーなんて思っちゃう。どうしても美少女とは思えないんですよねえ。可笑しかったのは、ハンバートがロリータと結婚して子供を作ったら、子供がニンフェットな年齢になった時に自分はまだ男盛りで... なんて考えをめぐらせてたりすること。この妄想振りが可笑しいです。外見にかなり自信があるようだけど、まだまだいけると本気で思ってるのか!(笑) それにしても「ニンフェット」って言葉はすごいですね。この言葉だけで、これほどのイメージの広がりを感じさせられてしまうなんて。
随所にフランス語の会話や言葉遊び、古今の文学からの引用がちりばめられていて、そういう意味でも面白かったです。(新潮文庫)

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フランシス・オームが住んでいるのは、望楼館と呼ばれる建物。24世帯が暮らせるように設計されているのですが、現在住んでいるのは7人だけ。まずフランシスとフランシスの両親。いつも白い手袋をはめている37歳のフランシスは彫像となりきる仕事をしており、趣味は他人が大事にしているものをコレクションすること。父は椅子に座り続け、母はベッドに寝たきり。そして常に汗と涙を流し続けているピーター・バッグ、部屋に閉じこもってテレビばかり見ているクレア・ヒッグ、まるで犬のような「犬女」、最後は極端に綺麗好きの門番。望楼館はかつては偽涙館と呼ばれた16世紀の荘園の領主館(マナーハウス)であり、オーム家が何世紀にもわたって所有してきたもの。しかし今はオーム家も没落し、現在のこの姿に改装されていたのです。そんなある日、玄関の告知板に18号室に新しい住人が入るというメモ用紙が貼られ、今の静かな生活を失いたくない住人たちは恐慌に陥ります。

ああ、面白かった~。ここ3日間ほど小出しにしながら読んでたんですけど、もう現実の世界に戻って来られなくなりそうになりました。不思議で、でもなぜだかとても馴染んでしまう雰囲気。境目を意識させられるというか。これは好き嫌いが分かれるかもしれないですね。挿絵は作者自身によるものなんだそうで、かなりシュールな人物像がついてます。これを見て思い出したのが、マーヴィン・ピークの「ゴーメンガースト」。タッチは全然違うんですけどね。そしてティム・バートンの世界にも通じるような...。主人公のどこか歪んでいる「物」へのこだわりは「アメリ」を思い出すし。愛し愛されたいとは思っているのに、求めていた形での愛がなかなか得られない人々。
舞台となる望楼館はまるで時間が止まってしまっているような場所。ここに住む人々の時間も止まってしまってるようで、みんなそれぞれに自分の内面にこもって、過去の時間に生きています。かつては素晴らしい邸宅だった望楼館も今は哀しいほどの荒廃ぶりだし、このまま建物も人々もじわじわと消滅していってしまいそうな感じなんですが、そこに登場するのがアンナ・タップという女性。彼女の登場によって、止まっていた時間がまた動き出すことになります。
傷つきやすく臆病な登場人物たちの姿そのままに、物語そのものも少しずつ少しずつ近づいてくるような印象。短い章の積み重ねで丹念に追っていくせいか、全体の長さを感じさせないし、とても読みやすくて~。印象に残る場面が色々あったんだけど、特にフランシスの父と母の意識がそれぞれに過去を辿って最終的に出会う場面が素敵でした。(文春文庫)

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200年ほど前、30年戦争が起きた頃。今は廃墟となっている城はヴィッティングハウゼンの宮殿と呼ばれ、そこにはクラリッサとヨハンナという美しく優しい姉妹が住んでいました... という「高い森」他、全4編が収められた本。

去年の年末にチョコちょこさんに「出ましたね!」と教えて頂いていたのだけど、実際に入手できたのはずっと遅くなってしまったこの本。後付を見ると2008年12月24日になってましたが、その頃私の周囲では、影も形も見当たりませんでしたよ! ネット書店に出たのも随分遅かったはず。いえ、多少待たされても手にすることができれば、それでオッケーなのですが~。
今回のこの本は、シュティフターの作品に共通する主題である「森」に着目して編んだという短編集。モルダウの流れるボヘミア南部の森、自然の美しさと恐ろしさを併せ持つ森は、シュティフターの故郷だということもあって作品によく登場しますが、ここに収められた作品もそうです。最初の「高い森」と表題作「書き込みのある樅の木」は中編で、次の「最後の1ペニヒ」が短編、そして「クリスマス」がエッセイ。

読んでいると気持ちが穏やかになるような気がしてくるシュティフターの作品でも、一層静けさを感じるものだったように思います。本当にしんと静まり返った森の中にいるような気がして、なんだか怖くなってしまう... 作品には森で暮らす人々のことが書かれているんですが、本当の主人公は森そのものなのかもしれませんね。
美しくも哀しいロマンティックな「高い森」もいいんですけど、私が好きなのはやっぱり表題作かな。訳者解説を読むと、シュティフターの同時代の人々には酷評されていたようですが... どうやら違う点にばかり目を向けていたようですね。そうじゃないのに! でもこの結末が雑誌版ではまた違っていたと知って驚きました。この本に収められている結末の方が断然いいです。だってそれが次の「最後の1ペニヒ」に繋がっていくんですもん。そう、この並び順がまたとても素敵なのです。(松籟社)


+既読のシュティフター作品の感想+
「水晶 他三篇 石さまざま」シュティフター
「森の小道・二人の姉妹」シュティフター
「晩夏」上下 シュティフター
「ナレンブルク 運命に弄ばれた人々の城」A.シュティフター
「石さまざま」上下 アーダルベルト・シュティフター
「森ゆく人」アーダルベルト・シュティフター
「書き込みのある樅の木」アーダルベルト・シュティフター

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ある日ペーターが読んだのは、ロシアの捕虜収容所を脱走したドイツ兵士が故郷に戻ってくる物語。やっとの思いで家に戻ってきた兵士の目が見たのは、小さな子供2人と見知らぬ男と一緒にいる妻の姿だったのです... それは「喜びと娯楽のための小説」という冊子シリーズの編集をしていた祖父母にもらった見本刷り。ペーターには父がおらず、母の稼ぎは少なく、しかも紙は高価だったため、裏の文章は読まないという約束でその紙の束をもらっていたのです。しかし物語の断片しか残っておらず、肝心の結末部分を読むことができなかったペーターは、物語の結末を探し始めることに。

物語の中心となるのは、作者も題名も分からない小説の断片。その断片をつなぎ合わせて読むうちに、ペーターはそれがホメロスの「オデュッセイア」になぞらえられていることに気づきます。遍歴し、そして帰郷する物語。そしてペーターもまた、謎の小説の兵士・カールを追い求めて長い遍歴をすることになります。遍歴の後、イタケーに帰り着いたオデュッセウスが見出したのは貞節なペーネロペイア。しかしペーターが帰り着いた時、そこにいるのがペーネロペイアとは限りません。
シュリンクの作品を読むのは「朗読者」「逃げてゆく愛」に続いて3冊目なんですが、今回はあまり入り込めなかったかな... 中心となる小説の断片があまり魅力的じゃないというのもあったんですけど、ちょっと気になることが多すぎて気が散ってしまったような気がします。
まず「オデュッセイア」。ペーターの読んだ「オデュッセイア」は、イタケーに帰りついてハッピーエンドではなくて、その後も長い遍歴をしなければならなかったそうなんですけど... 私が読んだ「オデュッセイア」は、ほぼハッピーエンドだったはず! ペーターみたいに私も勘違いしてるのかなあ。いやいや、そんなことないと思うんだけど。まさかドイツ版はまた違うとか? うーん、気になります。私が読んだのは岩波文庫の松平千秋訳(感想)なので、ちゃんとしてるはずなんですが...。次に、事実の周りをぐるぐると回ってたペーターは、ある時いきなり核心に近づくんですが、そのことがなぜ分かったのかが良く分からないんです。天啓のようなものだったとか? いきなり自信を持って飛躍した話を始めるペーターにびっくりです。この辺りには、もう少し説明が欲しかったところ。さらに、ペーターは小さい頃から色んな人物に出会って様々な出来事があるんですけど、いかにも後に繋がりそうな人や出来事が、それっきりになってしまってるのが結構多かったような... それも気になりました。
ナチスのことや、東西ドイツを隔てていた壁の崩壊などのドイツの歴史的瞬間が描かれて、まだまだシュリンクにとって第二次世界大戦は過去のことではないのだということを感じさせられたのはこれまで通り。オデュッセウスがさらに遍歴を重ねなければならなかったように、シュリンクもまだ遍歴続けなければならないのでしょうか。でも今回、ペーターの遍歴の終わりには希望も感じられるんですよね。シュリンクの中の第二次世界大戦も、徐々に終わりに近づいているということなのかもしれませんね。(新潮クレストブックス)


+既読のベルンハルト・シュリンク作品の感想+
「朗読者」「逃げてゆく愛」ベルンハルト・シュリンク
「帰郷者」ベルンハルト・シュリンク

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勅命を帯びて河源へと向かっていた「わたし」はいつしか道に迷い、古老の言い伝えによれば神仙の棲むという深山幽谷へと迷い込みます。そこで三日の間斎戒沐浴した「わたし」は軽い舟で渓流を遡り、やがて桃の花の咲く谷川に到着。空一面光り輝き、いい匂いのする風が吹くこの地には仙女の住まいがあり、一夜の宿を請った「わたし」は仙女と詩のやりとりをし、食事や音楽を楽しむことに。

遣唐使によって奈良時代に日本に伝えられ、古文学に多くの影響を与えたという唐代伝奇小説。中国では早くに散逸したらしんですが、日本にきちんと残ってたというのが面白い。巻末には醍醐寺古鈔本の影印も収録されてます。

やっぱり桃源郷とくれば桃の花がつきもの。ここに住んでいるのは「十娘」「五嫂」と呼ばれる仙女たち。「十娘」が17歳で「五嫂」が19歳、2人とも夫を亡くした身の上で、とても人間とは思えない美しさ。主人公は十娘と盛んに詩のやり取りをした上で、ようやく家に招き入れられ、十娘や五嫂に山海の珍味や美しい音楽でもてなされることになります。詩が多く挿入されているというのは今まで読んだ伝奇小説にはなかったので驚いたんですが、この優雅なやり取りが奈良・平安時代の貴族に好まれたんでしょうね。それにしても、美食に美姫。ああ本当に男性のドリームな話だわー。(笑)(岩波文庫)

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インド政府の官僚だった「わたし」は年齢を重ねるにつれて俗世を離れたいと強く思うようになり、妻を亡くした後、ナルマダ河のほとりに建つ政府関係の保養所に管理人として赴任。ナルマダ河はヒンドゥー教徒にとって最も聖なる巡礼地の1つで、シヴァ神の娘として尊敬を集めており、「わたし」も常々この河に惹かれていたのです。「わたし」の住むコテージの石のテラスからは、遥か下を滔々と流れるナルマダ河を望むことができ、私は毎日夜明け前に起きだしてテラスに座り、400キロ東のナルマダ河の水源に顔を向け、河を眺めては内省に耽ることに。

保養所の周りにはうっそうとしたジャングルが広がっていて、わずか19キロ先のルードラの町が見えないほど。1.5キロもの幅のナルマダ河の向こう岸には目の届く限りの沃野が広がり、隣の尾根の向こうには16世紀イスラーム神秘主義の聖人・アミール・ルミの墓に隣接しているムスリムの村があり、主人公は毎朝そこにいる賢者・タリク・ミアを訪ねてチェスをするのが日課。そしてナルマダ河の曲がり目にはマハデオの寺院群が見えます。このマハデオの寺院群は、日没時に石のテラスから眺めていると多くの巡礼者たちが茜色の夕空に影絵のように浮かび上がるし、黄昏になるとその辺りの水面は小さな炎で揺らぎ始めるんですね。それだけでも情景が雄大に、そして色鮮やかに浮かび上がってきます。
その穏やかな日々にふと侵入してくるのが、主人公の周りに現れる人々が持ち込む様々な物語なんです。これが面白かった...! 7つの物語があるんですけど、それぞれにインドならではですねー。いや、すごい迫力がありました。それは、苦行中のシヴァ神から流れ出た汗が美しく官能的な女の姿をとって、あまたの苦行者たちの欲情に火をつけたと言われるナルマダ河そのもののような物語。それぞれに愛の喜びや苦しみ、欲望が渦巻き、そして悟りへの道があります。
色々と深いレベルで感じるものがあるんですが、言葉にするのは難しいですね。でも途中とても印象に残った言葉を2つ。これは町から保養所に通って雑用をこなしてるミスター・チャグラの言葉。

ですが、サー、欲望がなければ生はありませんよ。何もかもが動きを止めてしまいます。無になってしまいます。それどころか死んでしまうのですよ。

何ひとつ失われてはいませんよ、サー。それが河の眺めの美しさというものです。
...インドってほんと果てしないほど広くて、果てしない深さがあるんでしょうね。一度は体験してみたいけど、自分がそれを受け入れる器の大きさを持ってるかどうかはまた別問題だな。(ランダムハウス講談社文庫)
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貧しい牧師の家に育ったルシアン・テイラー。学校の休みの期間に牧師館の近隣の見晴らしのいい場所を見つけようと歩き回り、空の凄まじい赤光に目を奪われ、人の通らなくなった暗い小径を歩き回り、ローマ人が大昔に作った砦を眺めます。書物が好きで、様々な文学を読んで成長したルシアンは、やがて円い小山の秘密や秘境の谷の魔法、葉の落ちつくした林の中を赤い渦を巻いて流れる小川の音などを英語の散文に移し変えたいと、少しずつ書き始めることに。

「空にはあたかも大きな溶鉱炉の扉をあけたときのような、すさまじい赤光があった」という文章から始まる物語。その「赤い光」は作中に時々登場し、最後の最後までとても印象に残ります。
これはアーサー・マッケンの自伝的作品なんでしょうね。文学少年のルシアンが、自分の家の周辺の景色の美しさに気づき、その感動を文字に書き留めようとします。出版社に送った原稿は結局盗作されてしまうのですが、それでも書き続けるルシアン。ルシアンの持っている理想は現実から乖離してるし、ルシアン自身がルシアンの幻想の世界に生きているようで、ものすごく現実感がないんです。これは結局、現実と理想のあまりのギャップの大きさにルシアン自身が耐え切れなかった、ということなのかしら。ルシアンの書く言葉、そして作り出す文学はその橋渡しになるものというよりも、幻想を支える土台のようなものだし... 現実と向き合うための盾のようなものですね。そして読んでいる私も徐々に現実感を失ってしまうことに...。
場面場面の描写はとても印象に残ってるんですが、でもそれが頭の中で1つの流れとはならなくて、バラバラに存在してるみたいな感じなんです。今ひとつ掴みきれなかったのが残念なんですが、なんだか不思議な作品だったなあ。

作家の朝松健さんのこのお名前ってアーサー・マッケンからなんですかね?(創元推理文庫)

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市街の中心地に深く入り込んだところにあるアミール・ナトハ横丁。そこに住む若く美しい寡婦・ビセサは、ある日イギリス人のトレジャゴがまぐさに躓いて転ぶのを見て、窓の奥で笑い声をあげます。咄嗟に「千夜一夜」の「ハル・ダイアルの恋歌」を歌い出すトレジャゴ。小さな声ながらもその歌を見事に歌い継ぐビセサ。そして翌日、トレジャゴに謎めいた包みが届くのです。それはビセサからの謎かけ。トレジャゴはその夜ビセサのもとに赴き、2人は愛し合うようになるのですが... という「領分を越えて」他、全9編の短篇集。

常にインドが背景に存在するキプリングの作品。そしてそのインドの深みが結構怖いんですよね。以前読んだ「獣の印」(感想)も結構怖かったし、上にあらすじを書いた「領分を越えて」も強烈な作品です。義兄にそこまでする権利があるのか? いや、インドではあるのか...? なんて思いつつ。あと「モロウビー・ジュークスの不思議な旅」も、キプリングならではのインドですね。インドの奥の深い迷宮のような部分がとても印象に残ります。

私が気に入った作品は「めえー、めえー、黒い羊さん」。これは、キプリング自身の幼い頃を描いた自伝的な作品なのだそう。「黒い羊」というのは厄介者という意味ですね。There's a black sheep in every flock... どこにでも厄介者はいる、みたいな意味のことわざ。両親と一時的に別れて暮らすことになった幼いパンチとその妹・ジュディなんですが、引き取られた家でパンチは文字通り「黒い羊」となってしまいます。ジュディはみんなに気に入られるのに、パンチ1人ローザ叔母さんとその息子ハリーにいじめられる日々。パンチ視点の物語なので、ローザ叔母さんがどうしてそこまでパンチが嫌いになったのかは分からないんですが。
最終的には仲介してる人が相当まずい状態になってるのに気づいて、2人の母親が迎えに来ることになるんですけど、パンチはその愛情も信じられないんです。夜、部屋に入って来た母親を見て「暗い中をやって来て叩くなんて卑怯だ。ローザ叔母さんだってそんなことはしなかった」なんて思うほどですから。これはお母さんにしてみたらショックですよね...(どんな理由があるにせよ、5年も放置してる方にも責任はあると思いますが) そしてそちらもインパクトが強いんですが、妹のジュディの方も案外、ね。ローザ叔母さんがあれだけ手懐けてたのに皮肉だわ~。まあ皮肉といえば、そんな兄妹にパンチとジュディなんて名前がつけられてるのが一番の皮肉なのかもしれませんが。
あと、色んな物語を作り出すのが大好きな主人公が不思議な夢をみる「ブラッシュウッド・ボーイ」も好き。この作品もキプリング自身を投影しているのかしら。なんて思ったんですけど、どうなんでしょうね。(岩波文庫)


+既読のキプリング作品の感想+
「プークが丘の妖精パック」キプリング 「夏の夜の夢・あらし」シェイクスピア
「少年キム」ラドヤード・キプリング
「キプリング短篇集」キプリング

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高貴な英国貴族の広大な屋敷に生まれ育ったオーランドー。エリザベス一世と血縁であり、大層気に入られていたオーランドーは美しく成長して宮廷に出仕。領地や屋敷、ガーター勲章を賜り、女王行幸の際には必ずお供することに。しかしロンドンの宮廷で出会ったロシアの姫君との恋愛、そして破局の後、オーランドーは屋敷に戻って読書に耽り、数多くの劇や詩を書くことになります。

文庫本の裏表紙の説明に

オーランドーとは何者? 36歳の女性にして360歳の両性具有者、エリザベス1世のお気に入りの美少年、やり手の大使、ロンドン社交界のレディ、文学賞を受賞した詩人、そしてつまりは... 何者? 性を超え時代を超え、恋愛遍歴を重ね、変化する時代精神を乗りこなしながら彼/彼女が守ってきたもの。...

とあるので、SF作品なのかと思って読み始めたんですが、全然そうではありませんでした。(良かったー) むしろ歴史小説ですね。でもオーランドーはエリザベス1世(1533-1603)の時代に生まれて、20世紀になるまでずっと生き続けることになるんですけど、時代はオーランドーが執筆に没頭していたり、7日間ほど目覚めないといった状態の間にごく自然に移り変わっちゃうし、周囲のメンバーもそのままなので、その時代時代の風物や流行が入れ替わるだけ。ごく自然な流れの話として読めてしまうほど。オーランドーがそれらの時代の移り変わりの生き証人となっている物語とは言えそうですが。

その300年以上に渡る時代の流れが何を表しているかといえば、オーランドーの家のモデルとされるサックヴィル家人々の歴史であり、ヴァージニア・ウルフと同時代のサックヴィル家の1人娘、そして女流作家となったヴィタ・サックヴィルの生涯なのだそうです。少年の頃のオーランドーや、まだ男性で大使をしていた頃のオーランドーの肖像画、そして女性となった後のオーランドーの写真が出てくるんですけど、その写真はヴィタの写真だし、肖像画はヴィタの祖先の肖像画とのこと。(どれも同一人物としか思えないほどそっくりですよー)
そしてこの300年は、エリザベス朝以降の英文学の流れも表しているのだそう。この英文学の流れがまたとても面白いんですよね。大学の英文学史の授業で名前を習ったり実際に作品を読んだ詩人や作家が次々と~。エリザベス朝の文学は、女性とは無縁で、シェイクスピアの劇のヒロインも演じたのは少年たち。そして男性に生まれたオーランドーが突然女性になってしまったのは、エリザベス朝が終わり、英文学に女性が登場するようになった17世紀末頃。確かにとても意図が感じられますね。
そしてオーランドーは男性の時も女性になってからも、名前は変わらずオーランドー。私としては「狂えるオルランド」(シャルルマーニュ伝説に出てくる騎士・ローランと同一人物)が真っ先に思い浮かぶんですが、やっぱりその線が濃厚のようで~。この作品でオーランドーの恋のお相手となるロシアのお姫様のポートレートは、ヴァージニア・ウルフの姪のアンジェリカのものだそうだし。アンジェリカといえば「狂えるオルランド」に出てくる異国のお姫さま! ほかにも色々な含みがあるみたい。作品そのものもすごく面白かったんだけど、そういう色々なことを教えてくれる訳者の杉山洋子さんによる解説「隠し絵のロマンス -伝記的に」もとても良かったです。(ちくま文庫)

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1625年4月。ガスコーニュ地方の古い貴族の家に育ったダルタニャンは、父親から15エキューの金と妙な色合いの馬、銃士隊の隊長・トレヴィル宛の紹介状、そして母親からはどんな傷にも効くという万能の軟膏の作り方を伝授され、パリへと向かいます。途中、マンの町で馬のことを笑われて、笑った男たちに殴りかかるものの、逆に殴り倒され、しかも気を失っている間にトレヴィル宛の紹介状を取られてしまうという出来事もあるものの、ダルタニャンは無事にパリのトレヴィルの屋敷に辿り着き、アトスとポルトス、そしてアラミスと知り合うことに。

「三銃士」は子供の頃に大好きだったんですけど、それが「ダルタニャン物語」のごく一部だと知ったのは大人になってから。小学校の頃に読んでたのは岩波少年文庫だし、きちんとしたのを読んでみたかったんですよねえ。でも全11巻だし長いですからね。読みたい読みたいと思いつつ早何年。いえ、去年だって北方水滸伝全19巻とか窯変源氏物語全14巻を読んでるし、読めば読めないわけじゃないはずなんですけど... 長い作品には、やっぱり何かきっかけが欲しいわけです。で、先日丁度いいきっかけがあったので読んでみることに~。
いやあ、やっぱり面白かった。訳が古めで騎士のことを「武士」、剣のことを「刀」なんて言ってるし、「枢機卿」も「枢機官」になってるんですけどね。そして逆に「妹のアドレスをダルタニャンに教えた」なんて文章があって、「アドレス? URL?」なんて思ってしまったり。(笑) でもこの面白さには、全然影響しないですね。今読んでもミレディーの悪女ぶりは凄まじいし、ダルタニャンって実は結構女ったらしだったのね...とびっくりしてみたり。アトスとポルトスとアラミスも、久しぶりで懐かしかったです! これは続きを読むのも楽しみ~。

今回読んだ「友を選らばば三銃士」「妖婦ミレディの秘密」の2冊で第1部、普通の「三銃士」に当たります。私が読んでいるのは図書館にあった講談社文庫版なので、ここでリンクしているブッキング版とは違うんですが、訳者さんが同じなので多分一緒かと。そして3~5巻は第2部で「二十年後」、6~11巻が第3部で「ブラジュロンヌ子爵」。この「三銃士」の時、ダルタニャンは20歳なんですけど、第2部ではいきなり40歳になっちゃうってわけですか。びっくり! 次は3~5巻を借りて来ようっと。(講談社文庫)


+シリーズ既刊の感想+
「ダルタニャン物語」1・2 A・デュマ
「ダルタニャン物語」3~5 A・デュマ

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母が突然亡くなり、父は永年勤めた製薬会社を辞めて、ヨーロッパを旅してまわることに。そしてその旅の合間に、娘のルーマが夫のアダム、息子のアカーシュと暮らす家にやってきます... という表題作他、全8編。

「停電の夜に」「その名にちなんで」に続くジュンパ・ラヒリの3作目。
これまでの2作同様、主要な登場人物たちはほとんどがインドにルーツを持つ人々。でも主人公となるのは、移民の第一世代ではなくて第二世代です。育ちも(そしてほとんどの場合は生まれも)アメリカという彼らは、もうアメリカ人と全く同じような生活を送っているし、本を読んでいる限りでは「アメリカ人」と呼んでもまるで違和感がありません。しかもこの本に描かれているのは、ごく普通の家庭にあり得る物語ばかりなんですよね。それでもインドの人々の浅黒い肌にくっきりとした目鼻立ちは、アメリカの白人の中にあって相当目立つはず。そうだ、インドの人々だったんだ、と読みながらふと気付いて、そのたびに驚くことになりました。最初の2作を読んだ時は「インド」という言葉が頭から離れたことはなかったのに。そして2作目の「その名にちなんで」を読んだ時には、第一世代と第二世代の意識の違いに驚かされたし、インドでもアメリカでも彼らが本質的に受け入れられることは既にないんだなあと強く感じさせられたのに、この本ではそうではありませんでした。肌の色が違っていても、彼らは既にアメリカという土地にしっかりと根付いているんですね。時の流れを感じるなあ。
やっぱりジュンパ・ラヒリはいいですね。本を開いたところに、インターナショナル・ヘラルド・トリビューンの「ラヒリが造形する人物には、作家の指紋が残らない。作家は人物の動きに立ち会っているだけのようだ。人物はまったく自然に成長する」という書評が載ってるんですが、本当にその通りですねー。それはもう本当にびっくりするほど。
そういえば去年は新潮クレストブックスを1冊も読まなかったんですよね、私。久しぶりに読みましたが、やっぱり良かったです。今年はまた色々と読んでいきたいな。(新潮クレストブックス)


+既読のジュンパ・ラヒリ作品の感想+
「停電の夜に」「その名にちなんで」ジュンパ・ラヒリ
「見知らぬ場所」ジュンパ・ラヒリ

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遥か昔、元来太陽の周囲を回る惑星だった月は、地球の引力に吸い寄せられてしだいに地球に接近し、とうとう地球の周りに軌道を描くようになります。そして月と地球が相互の引力で引き合った結果、2つの天体の表面は変形し、柔らかい月の表面が地球に滴り落ちることになるのです。それを Qfwfq は帰宅途中の高速道路で見ていて... という「柔らかい月」他、全11編。

以前読んだ「レ・コスミコミケ」と同じくQfwfq 氏の出てくる短編集。あちらでも「月の距離」という月と地球がとても近くにあった頃の話から始まってたんですけど、こちらも月の話から。柔らかい月の表面が地球に滴り落ちるなんて部分もとても映像的で楽いし、その出来事が起きた当時もマディソン・アヴェニューには摩天楼があり、その時の月の滴り(隕石)に破壊されたものを、何百何千世紀かけて「かつての自然のままの外観を取り戻そうとして」再現しようとしているなんて、一体どんな発想なんでしょうね! 「語り」って、ほんと「騙り」なんだなあ。
ということで、この本は「Qfwfq 氏の話」「プリシッラ」「ティ・ゼロ」という3部構成。「Qfwfq 氏の話」で起源としての誕生、「プリシッラ」で細胞分裂としての生と死... 「ティ・ゼロ」で描かれているのは永遠のような一瞬? 最初は前面にいたQfwfq 氏は、第2部に入った頃から徐々に姿を消し始めて、第3部では、もういないも同然となってしまいます。2部の「死」と共に、「個」を失ってしまったみたい。先に書かれた「レ・コスミコミケ」から一貫して語ってきた Qfwfq 氏がこんな風にフェイドアウトするところにも、きっとすごく大きな意味があるんでしょうね。で、その第3部がまた面白かったりするんだわ! こういうの好き好き。そして最後の「モンテクリスト伯」で描かれてるのは、すでに迷宮のようになってしまった「イフ城」からの脱出について。「個」を失ったQfwfq氏は、ここから脱出していずこへ...? というよりカルヴィーノはどこへ脱出しようとしてるんでしょう。そうやって重さを払いのけて身軽になろうとしていたのかなあ。(河出文庫)


+既読のイタロ・カルヴィーノ作品の感想+
「宿命の交わる城」イタロ・カルヴィーノ
「不在の騎士」イタロ・カルヴィーノ
「レ・コスミコミケ」イタロ・カルヴィーノ
「なぜ古典を読むのか」イタロ・カルヴィーノ
「まっぷたつの子爵」「木のぼり男爵」イタロ・カルヴィーノ
「イタリア民話集」上下 カルヴィーノ
「魔法の庭」イタロ・カルヴィーノ
「見えない都市」イタロ・カルヴィーノ
「マルコヴァルドさんの四季」カルヴィーノ
「冬の夜ひとりの旅人が」イタロ・カルヴィーノ
「柔かい月」イタロ・カルヴィーノ
「カルヴィーノの文学講義」イタロ・カルヴィーノ
「パロマー」カルヴィーノ
「くもの巣の小道」イタロ・カルヴィーノ
「むずかしい愛」カルヴィーノ

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大西洋の沖合いの6000メートルもの深さの海面に浮かぶ小さな村。村を通るただ1本の道に沿って色褪せた赤煉瓦の家や店が並び、沢山の小窓がある鐘楼が立つこの村には、木靴をはいた12歳の少女がたった1人で暮らしています。船が近づくと少女は激しい眠気に襲われ村全体が波の下に沈むため、船乗りの誰1人として、この村を望遠鏡の隅にすら捉えたことがないのです... という「海の上の少女」他、全20篇が収められた短篇集。

日本では最初に堀口大學が紹介して以来、詩人たちのアイドル的存在だったというシュペルヴィエル。聖書のエピソードを膨らませたりアレンジした作品もあれば、ギリシャ神話をモチーフにしているものもあり、フランスの普通の人々を描いた作品もあり、どこか分からない場所の物語もあり、収められている20編はとてもバラエティ豊かです。でもそこに共通しているのは、透明感のある美しさ。どの作品も散文なんですけど、詩人だというだけあって詩的な美しさがありました。
特に印象に残ったのは、大海原に浮かぶ村を描いた幻想的な表題作「海に住む少女」。そして娘の溺死体が海に流れ着く「セーヌからきた名なし嬢」。読んでいると情景が鮮やかに浮かび上がってきます。美しいなあ...。そして驚いたのは、死を感じさせる作品がとても多いこと。大半の作品が何らかの形で「死」を描いてるんですね。「死」そのものというよりも、「生」と「死」の境界線上かも。「死」とは関連していなくても、たとえば「少女」と「女」、「人間」と「人間でないもの」みたいな何らかの境界線上で揺らいでる印象が強いです。それはもしかしたら、フランスと生まれ故郷のウルグアイとの間で揺れ動いていたシュペルヴィエル自身だったのかしら、なんて思ってみたり。
それと思ったのは、作品を自分の方に引き寄せて読むのではなくて、作品の方に歩み寄らなければならないということ。そこに書かれているがままを受け入れ、味わわなければならないというか... 絵画的な美しさが感じられることもあって、まるで静まりかえった美術館で絵画を眺めているような気分になりました。 (みすず書房)

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格闘技を観るのが好きな父と、格闘するのが好きな母。母にとっては全てが敵か味方か二つにひとつ。そして「私」は、普通のやり方で子供を授かることに不満だった母が、孤児院から貰ってきた子供。母とタッグを組んで「自分たち以外のすべてのもの」と闘うために、この家に連れてこられたのです。「私」は狂信的な母によって宗教的な教育を受け、異教徒たちと日々戦うことになります。

先日読んだ「さくらんぼの性は」がとっても面白かったジャネット・ウィンターソン。これは彼女の自伝的な作品なのだそう。主人公の名前も「ジャネット」です。
ここに登場する母親は狂信的なキリスト教の一派の信者。新約聖書ではなく旧約聖書ばかり読んでるというところも、通常のキリスト教の信者とはかなり違う感じ。そんな母親にジャネットは徹底的に宗教教育されることになります。読み書きを習うのも旧約聖書を使って。だから小学校に入った時には、周囲から完全に浮き上がってしまうんですね。真に迫った様子で地獄の話をしてクラスメートを怖がらせてみたり、家庭科の時間も、みんながふわふわした羊なんかを刺繍してるのに、1人地獄をモチーフに黒一色で刺繍をしてみたり。それでもジャネットは母親と教会を100%信頼してるし、先生にも、自分に理解できないものだからって、価値がないと決めつけるの間違いですなんて反論してます。
でもある出来事がきっかけで、自我に目覚めて、全ての物事を自分の目で見つめなおすようになるんです。ま、思春期ですしね。それまで信頼してた親の言動に疑問を持つようになるというのは、ごく普通のことなんですが。ジャネットの家がちょっと極端だっただけで。...とは言っても、やっぱりここの家はスゴイのだけど。(笑)

最後はどうやらすっかり元の鞘に収まってしまったようで、それが少し不思議だったんですが... でもこんなものなのかな。狂信的な信者だったというのが問題なだけで、母親はジャネットのことをきちんと愛情を持って育てていたわけですしね。これが家族の絆なのかな。しばらく合わない間に「果物といえばオレンジ」だった母親は「オレンジだけが果物じゃないってことよ」になってたんですけど... でも実は何も変わってなくて。そんな母親をコミカルにシニカルに描写しているのが、さっぱりとしてていい感じです。
本筋も面白かったんだけど、それ以上に(?)面白いのが時折挿入される寓話。これがその時々のジャネットの心情を現してるんです。こういうのがジャネット・ウィンターソンらしさなんだろうな。こういうの好き好き♪(国書刊行会)


+既読のジャネット・ウィンターソン作品の感想+
「さくらんぼの性は」ジャネット・ウィンターソン
「オレンジだけが果物じゃない」ジャネット・ウィンターソン

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イヴがエデンの園の禁断の木の実を食べたのは、蛇のせいではなく、自分で食べようと決めたから。しかし繊維が多くもったりとした果肉、ぼんやりとした甘さはイヴを落胆させただけ。イチジクを食べたことによって空が落ちることはなく、神の怒りを示す雷鳴が鳴り響くこともなく、自分裸なのに気付いて恥ずかしくなることもないまま、イヴは夜になって顔を合わせたアダムにイチジクを食べたことを告白し、イヴを失いたくないアダムもまたイチジクの実を食べることに。そして翌朝、いい加減待ちくたびれた頃に4人の天使たちがやって来て、2人と蛇、そして動物たちをエデンの園から追い出します。

聖書の創世記、アダムとイヴの楽園追放の物語をイヴの視点から描いた作品。創世記を物語にしたといえば、ミルトンの「失楽園」(感想)もそうなんですけど、あちらは堕天使たちがやけにカッコいいとはいえ、かなり正統派ですしね。こちらはまた全然雰囲気が違っていて面白かったです~。
アダムの最初の妻・リリスがエデンの園にいるというのもすごいなあと思ったんですが、それ以上に面白かったのは蛇のこと。ここに出てくる蛇は、まだ今のような蛇ではなくて、人間のような姿。とても興味深いのです。エデンの園の世話をしているのも蛇ですしね。丁度現代の園芸用品みたいな様々な道具を使いこなして様々な果樹の世話をしてるし、そもそも蛇の家の文化的なレベルの高いこと! しかも蛇はイヴに、まだ起きていないノアの箱舟の話やバベルの塔の話を語って聞かせるんです。世界にはまだアダムとイヴとリリスしかいないというのに、いきなり大勢の人間の話なんてされても、イヴには想像もつかないんですが。(笑) その話の中には、イヴ自身の未来の物語も含まれています。そして蛇はイヴに生きていく上で必要な様々なことを教えるんです。来るべき楽園追放の日に備えるかのように。

この物語は、聖書よりももっと様々なエピソードが語られているユダヤの創造神話からできあがったのだそう。ということで、いくつかオススメの参考文献が書かれてたんですけど、これって全然日本語訳が出ていないのでは...。うわーん、読みたい、読んでみたい! 聖書だけじゃどうしても物足りないとは前から思ってたんですよね。でも私が読みたいのは「タルムード」(ユダヤ教の聖典)みたいなのじゃなくて、もっと神話そのもの。何かいい資料はないかしら。(トパーズプレス)

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オーストリアとボヘミアの両国が接する辺りに広がるボヘミアの森、そしてモルダウ川の近くにあるトイフェルスマウアーの峡谷に、かつて好んで森を訪ねることから「森ゆく人」というあだ名のついたゲオルグ老人が暮らしていました。彼は森番のライムント一家と親しくなると、森番の1人息子のジミを連れて森の中を歩き回り、読み書きを教えるようになります。

この物語の舞台は、シュティフターの故郷なんでしょうね。ボヘミアの情景がまるで風景画のように描写されていきます。でもそういう描写はいいんだけど、ちょっとばかり長すぎるのではないかしら... 物語そのものよりも、そちらに重点を置かれているように感じられるほどなんですもん。シュティフター自身の感傷? 20ページほど読んで、ようやく話の中心となる「森ゆく人」が登場。一時はどうなることかと思いました...。
この「森ゆく人」は、最初に登場した時には既に老人なんです。まるで隠者のような落ち着きを見せているので、いつものように穏やかな流れの物語となるのかと思ったのですが、そうではありませんでした。今回は自然の情景があくまでも美しいままで、その恐ろしさを見せなかったからなのかしら。そして後半は「森ゆく人」となるゲオルグの半生の物語。
この半生の物語がメインだと思うし、短い幸せの日々と大きな後悔の話はなかなかいいんだけど... でもどうなんだろう。なんだか全体にもう少し構成しなおした方がいいような。と思ってしまったのでありました。半生の物語に突っ込みを入れるのはその後で、という感じ。(松籟社)


+既読のシュティフター作品の感想+
「水晶 他三篇 石さまざま」シュティフター
「森の小道・二人の姉妹」シュティフター
「晩夏」上下 シュティフター
「ナレンブルク 運命に弄ばれた人々の城」A.シュティフター
「石さまざま」上下 アーダルベルト・シュティフター
「森ゆく人」アーダルベルト・シュティフター
「書き込みのある樅の木」アーダルベルト・シュティフター

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新聞でイタロ・カルヴィーノの新しい小説「冬の夜ひとりの旅人が」が出たのを知り、早速本屋で買ってきて読み始めようとしている「あなた」。しかし準備万端整えてじっくり読む体勢に入り、読み始めてしばらく経った時、妙なことに気付きます。製本のミスで、32ページから16ページに戻っていたのです。3箇所で32ページから16ページに戻るのをみつけた「あなた」は、翌日本屋で取り替えてもらおうとするのですが、本屋はその本はカルヴィーノの作品ではなく、実はポーランド人作家の小説だったと説明。続きを読みたい「あなた」は、その本をポーランド人作家の小説に取り替えてもらうのですが...。

カルヴィーノの作品を読んでいると思っていたら、それは実はポーランド作家の作品だった? そしてポーランド小説の続きを読もうと思ったら、その本は全然続きなどではなくて、チンメリア文学だった...? と、迷路の中にぐるぐると迷い込んでいくような、蜘蛛の巣に絡め取られていくような、蟻地獄に落ち込んでいくような感覚の作品。作中作がなんと10作! どんどん出てきて、でもどれも丁度話の中に入り込んだ頃に途切れちゃう。でもそれの作中作がまた面白いんですよねえ。どの話も続きを読みたくなっちゃうんですもん。

でも一番面白かったのは、終盤で何人かの読者たちが語ってる言葉。私はこれに一番近いかも。

私が読む新しい本のひとつひとつが私がそれまでに読んだいろんな本の総計からなる総体的な統一的な本の一部に組み込まれるのです。でも安易にはそうなりません、その総括的な本を合成するには、個々の本がそれぞれ変容され、それに先立って呼んだいろんな本と関連づけられ、それらの本の必然的帰結、あるいは展開、あるいは反駁、あるいは注釈、あるいは参考文献とならねばならないのです。何年来私はこの図書館に通って来て、本から本へと、書棚から書棚へと渉猟しているのですが、でも私は唯ひとつの本の読書を押し進める以外のことはしていなかったと言えましょう。(P.344-355)

ちょっと訳が如何なものかという感じもしますが...
これだけじゃないですけどね。前の読者が言ってるように再読で新たな発見をするというのもほんと分かるし。でも私の基本は、次の読者が言っているような記憶の彼方にかすかに残る「唯ひとつの本」を目指して、総括的な本を作り続けているような感じかな。(ちくま文庫)


+既読のイタロ・カルヴィーノ作品の感想+
「宿命の交わる城」イタロ・カルヴィーノ
「不在の騎士」イタロ・カルヴィーノ
「レ・コスミコミケ」イタロ・カルヴィーノ
「なぜ古典を読むのか」イタロ・カルヴィーノ
「まっぷたつの子爵」「木のぼり男爵」イタロ・カルヴィーノ
「イタリア民話集」上下 カルヴィーノ
「魔法の庭」イタロ・カルヴィーノ
「見えない都市」イタロ・カルヴィーノ
「マルコヴァルドさんの四季」カルヴィーノ
「冬の夜ひとりの旅人が」イタロ・カルヴィーノ
「柔かい月」イタロ・カルヴィーノ
「カルヴィーノの文学講義」イタロ・カルヴィーノ
「パロマー」カルヴィーノ
「くもの巣の小道」イタロ・カルヴィーノ
「むずかしい愛」カルヴィーノ

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「互いにベージュ色の高価なレインコートに身を包んで出会いましょう。豆スープのようにどんよりした霧の夜に。まるで探偵映画もどきに。」という文章で始まる「別の女になる方法」他、「離婚家庭の子供のためのガイド」「母親と対話する方法」「作家になる方法」など全9編。

これはハウツー本の文体で書かれた小説、ということでいいのかな。どれも内容的には結構スゴイことが書かれてるのに、文章がとにかく淡々としてるので、なんだかまるでごく普通の事務的な説明を受けているだけのような錯覚に陥ってしまうという、とっても不思議な作品です。
とにかく淡々... たとえば「作家になる方法」の冒頭はこんな感じ。

作家になるためには、まず最初に、作家以外のものになろうとしてみることです。どんなに途方もないものでもいいのです。映画スターと(か)宇宙飛行士。映画スターと(か)宣教師。映画スターと(か)幼稚園の先生。世界大統領、大いに結構。そしてミジメな挫折を味わうことです。早ければ早いほどいいのです。十四歳で挫折を知るなんて理想的。早いうちに決定的に幻滅することが、くじけた夢に関する長い俳句を十五歳でひねり出すのに必要な条件なのです。

ちょっと面白いでしょう? ハウツー物を小説にしてしまうなんて、アイディアですよねえ。全編こんな感じで物語が始まるんです。
表面に現れてるのは、シニカルなユーモアセンス。でも基本的に不倫とか離婚とか挫折とか死がテーマになっているので、奥底から寂しさや絶望感が滲み出てくる感じ。でも面白いとは思うんだけど、純粋に好みかと言えば、あまり好みではなかったかも。例えばアメリカ人が読むと、私が今読んでいるよりももっとすごく面白く感じるんだろうな、なんて思っちゃうんですよね。そんな、いかにもアメリカ~なユーモアセンス。そうでなくてもユーモア物って難しいのに。その時の自分自身との波長が合うかどうかというのも、かなり重要ポイントになってきますしね。日本物のユーモアだって合う合わないが激しいのに、ましてや外国物ときた日には、って感じかな。(白水uブックス)

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17世紀、清教徒革命下のイギリス。テムズ川に捨てられていた赤ん坊は、50匹の犬と共に暮らし犬たちを闘犬やレースに出して生計を立てている「犬女」に拾われ、ジョーダンという名前をつけられることに。成長したジョーダンは、自分の中に見えないインクで綴られたもう1つの人生があることに気付き、かつて野イチゴが高く香る家で見かけた踊り子・フォーチュナータを探して旅立ちます。

本の紹介に「幻の女フォーチュナータを捜して時空を超えた冒険の旅に出る」なんて書かれていたので、もう少しSF寄りの作品なのかと思っていたのですが、全然違いました! これはファンタジーなのですねー。放っておけば、もう空想がどこまででも広がってしまいそうな不思議な作品。まるで生まれつき軽すぎて天井に頭をぶつけそうになった3番目のお姫さまのエピソードみたい。でもそのまま飛んでいってしまうのではなく、危ういところでへその緒に引っ張られるんです。王女さまもこの物語も。神話とか聖書とかのエピソードもあり、歴史的でもあり、何ていうかものすごく懐が深いなあ... しかもそこかしこに私が好きな雰囲気がたっぷり。女の掃除人が掃除する様々な色の雲のエピソードも、宙吊りの家での生活も、恋が疫病扱いされている町の話も、そして12人の王女たちの物語も...!
でもこういったファンタジックな物語は、ジョーダンの側の物語なんですよね。これと平行して進んでいくのは、もっと現実的な17世紀のイギリスを描いた「犬女」の物語。こちらのベースはあくまでも史実に忠実。でも「犬女」の存在だけはファンタジーなんですよねえ。ジョーダンがそのファンタジックな世界の中で1人リアルな存在だったように。
リアルでありながらファンタジック、ロマンティックでありながらグロテスク。でも美しい! この本に詰まっているエピソードは、まるでピューリタンたちに割られてしまった教会のステンドグラスの色ガラスに、日の光が当たって色んな色が石畳に映って踊っているような感じです。

冒頭で時間についての言葉が書かれています。

ホピというインディアンの種族の言語は、英語と同じくらい高度に洗練されているにもかかわらず、時制というものがない。過去、現在、未来の区別が存在しないのだ。このことは、時間について何を物語っているのだろう?

まさしくこの言葉の通りの作品だったかも。 (白水uブックス)


+既読のジャネット・ウィンターソン作品の感想+
「さくらんぼの性は」ジャネット・ウィンターソン
「オレンジだけが果物じゃない」ジャネット・ウィンターソン

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父の生家の前にあった大きな八角形の石に座っていた「私」は、車軸用の油を売りに来ていたアンドレーアスじいさんに足に油を塗ってもらい、嬉しいような落ち着かないような気持ちのまま母のところへ。しかし綺麗に洗われ磨かれたばかりの床に油の跡がつき、家の中は大騒ぎになります。泣くことすらできないでいた「私」に話し掛けたのは常日頃から優しく寛大だった祖父。祖父は「私」の話を聞くと一緒に隣村へと行くことにして、歩きながらかつてこの土地で起きた出来事を物語ります... という「花崗岩」他、全6編。

「石さまざま」の全編が読める新訳版。以前岩波文庫の「水晶 他三篇 石さまざま」を読んでるので、6編中4編は再読。でもやっぱりいいなあ、と序文からまたじっくりと読んでしまいました。作品ももちろんいいんですけど、この序文が本当に素敵なんです。「かつて私はこう言われたことがある。私が描くのは小さなものばかりで、登場人物たちも、いつもありふれた人間ばかりだと。」という言葉から始まってるんですが、そんな風に批評されたシュティフターの自分の作品に対する姿勢がよく表れていて、すごく好き。シュティフターが描くものは、まず美しくも恐ろしい大きな自然と、その自然と共に暮らす普通の人々なんですよね。もちろん時には全然違うものを描いた物語もあるんですが、根っこの部分は同じ。波乱に満ちたドラマティックな人生とは対極にあるような、ごく普通の日常の積み重ね。
シュティフターは、外的な自然に対して、人間の心を内的な自然と捉えていたようです。自然における「大気の流れ、水のせせらぎ、穀物の成長、海のうねり、大地の緑、空の輝き、星のまたたき」を偉大なものと考え、人間の中の「公正、素朴、克己、分別、自分の領域での立派な働き、美への感嘆。そういったものに満ちた人生が、晴れやかで落ち着いた死をもって終わるとき、私はそれを偉大なものと見なす」と書いています。雷雨や稲妻、嵐、火山の噴火、大地震といったものの方が人目を引くし目立ちやすいけれども、シュティフターにとっては、それらはむしろ小さな現象に過ぎないんですね。同じように、怒りや復讐心、破壊的な精神といった人間の感情の動きも小さな現象。そういうのをじっくりと読んでいると、なるほどなあと思うし、シュティフターの作品の良さが一層見えてくるような気が。

自分が子供の頃好きだったもの、今も好きなものについてもっと気軽に語った「はじめに」もいいし、そしてやっぱり作品も! 訳してらっしゃる方が違うので、また少し印象が違ったところもあるんですが、まるで絵画を見ているような気がしてくる美しくて力強い自然描写は、作家であると同時に画家でもあったシュティフターの特質が良く表れてますね。特に「水晶」での青すぎるほど青い洞穴の場面、その後子供たちが岩室から見上げる夜空の描写は、やっぱり本当に素敵でした♪(松籟社)


+既読のシュティフター作品の感想+
「水晶 他三篇 石さまざま」シュティフター
「森の小道・二人の姉妹」シュティフター
「晩夏」上下 シュティフター
「ナレンブルク 運命に弄ばれた人々の城」A.シュティフター
「石さまざま」上下 アーダルベルト・シュティフター
「森ゆく人」アーダルベルト・シュティフター
「書き込みのある樅の木」アーダルベルト・シュティフター

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フランツィスクスは、父が犯した呪わしい悪行を償うために両親が聖地リンデに巡礼の旅に出ていた時にできた子供。苦行で身体を損なっていた父は、フランツが産まれた丁度その瞬間に他界。その後、母はリンデの修道院で出会った巡礼の言葉に感銘を受け、フランツをシトー会の女子修道院の院長に預けることになります。司祭について様々なことを学んだフランツは、16歳の時に隣町のカプチン会修道院に移って更に勉強し、やがてメダルドゥスという修道名を得ることに。そして、修道院に入って5年が過ぎた時、老齢のキュリルスの代わりに聖遺物の管理をすることになります。ほとんどの聖遺物は偽物。しかしその中には、聖アントニウスを誘惑するために悪魔が使ったという霊液(エリクシル)も入っており、キュリルスはこの霊酒の入った小函だけは決して気軽に開けないようにと注意するのですが...。

「つい、うっかり」「悪魔の霊酒」を口にしてしまったことから、主人公が様々な出来事に巻き込まれていくという物語。先日のたらいまわし企画第46回「つい、うっかり」の時に、overQさんが出してらした本です。(記事) 作者のE.T.A.ホフマンは「くるみ割り人形」を書いた人。以前これを読んだ時に、バレエの可愛らしさとはまた全然違う薄ら怖さにびっくりして、他の作品も読みたいなあと思ってたんです。でもなかなか手に入る本がないんですよね。こんな本が出ていたとは知りませんでしたー。

奇妙な類似や繰り返しが印象に残る幻想的な作品。登場人物に関してもそうなんですけど、ここで起きる出来事も全てが類似と繰り返し... つまりこの主人公にまつわる全ての出来事は、実はその場限りで起きたことではないんですね。最後には5代にわたる大河小説だったということが判明しますし。(このことは巻頭の登場人物表からも分かっちゃうんですが) そう考えると、主人公が悪魔の霊酒を飲んだのは、実は決して偶然ではなかったわけで... 「つい、うっかり」のように見えて、実は巧妙に仕組まれた罠にはまっていたんですねえ。そんなことをするのは、やっぱり悪魔? それが彼の運命(宿命)だった、なんて言い方もできるんですが、それにしては巧妙すぎるんです。読んでいると、まるで悪魔が本当にいて「悪魔の霊酒」が本物だったことを証明されてしまったような気になります。
でもとてもキリスト教色の濃い物語なんですが、何かしら起きる出来事が必ず後々に直接的に影響してるのを見てると、「因果応報」なんて仏教的な言葉が浮かんでしまうー。「因果応報」は、前世の行いが今世に影響してるということなので、ちょっと違うんですけどね。ぴったりの言葉は思い浮かびません... 思い浮かんだのは、せいぜい「業(ごう)」ぐらい。
というのはともかくとして、ものすごく緻密に出来上がった物語でした。全てが夢の中のことみたいなのに、妙に現実的でもあって、最終的に綺麗に収まってしまうのはミステリ的? いやあ、面白かったなあ。(ちくま文庫)


+既読のホフマン作品の感想+
「クルミわりとネズミの王さま」ホフマン
「悪魔の霊酒」上下 ホフマン
「黄金の壷」「スキュデリー嬢」 ホフマン
「ホフマン短篇集」ホフマン
「黄金の壺/マドモワゼル・ド・スキュデリ」ホフマン

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近未来のイギリス。15歳の少年・アレックスは、3人の仲間ジョージー、ピート、ディムとともに「何か新しいものを」入れたミルクでハイになっては、夜の街でしたい放題の毎日。図書館から借りた学術書を大事そうに持って歩いている教授タイプの男性を襲って殴る蹴るの暴行を加え、本を破壊。続けて商店に強盗に入り、木の下にいたカップルを殴り、さらに「ホーム」と書かれた家に押し入って、夫の目の前で妻を強姦。押し入った時、その夫は「時計じかけのオレンジ」という題名の原稿を執筆しているところでした。しかしその後入ったバーで、女性客がオペラの一節を歌い始めたことが原因で、アレックスとディムの仲は険悪になるのです。次に盗みに入った家でアレックスは仲間たちに裏切られて警察につかまり、アレックスは14年の実刑判決を受けることに。

スタンリー・キューブリック監督が映画化したことでも有名な作品。中学の時に本を読んだつもりになってたんですけど... 今回読んでも内容を全然覚えてなかったので、読んでなかったのかも。(汗)
とにかくパワーのある作品。極悪非道なことを繰り返すアレックスもすごいんですが、文章に造語が沢山入っていて、それがまた一種独特な雰囲気なんですよね。仲間は「ドルーグ」、男の子は「マルチック」、男性は「チェロベック」、女の子は「シャープ」、若い女性は「デボーチカ」、おばあさんは「バブーチカ」。他にも「デング」「ハラショー」「スコリー」「モロコ」「ベスチ」... こういった言葉はロシア語にヒントを得ているのだそうです。そういった言葉が饒舌なアレックスの一人語りにふんだんに散りばめられているので、読み始めた時は鬱陶しくて! でも一旦慣れてしまったら、この一種独特な雰囲気にするりと入り込めちゃう。
まあ、色々とあるんですが、やっぱりポイントは、アレックスが実はクラシック好きだったというところですね。外でどれだけ暴力を振るっても、自室に戻ると自慢のステレオでモーツァルトのジュピター交響曲やバッハのブランデンブルク協奏曲を聴いてるんです。(そういう場面に、架空の音楽家や演奏者の名前がそ知らぬ顔で混ざってるのが可笑しい) その音楽好きが、アレックスと仲間の反目の原因になるわけで、後のルドビコ療法でも利いてくるわけで。そしてそのまた後には音楽の好みの変化もあったりして。

アメリカ版では出版社の意向で最終章が削られていて、キューブリックはそのアメリカ版を元に映画化したので、この本と映画とでは結末が違うのだそうです。本国イギリス及びヨーロッパでは、最終章もきちんと付いているそうですが。
そして日本語版では、「デボーチカ」や「デング」といった言葉には「おんな」とか「かね」とかルビが振られてますが、原書にはそういう配慮はないようですね。新井潤美さんの「不機嫌なメアリー・ポピンズ」に原文が紹介されてましたが、文章にいきなり見知らぬ単語が登場してました。だから読者は文脈から意味を汲み取るしかなくて、その解読で気を取られてしまい、暴力描写をあまり生々しく感じなくなるんだとか。まあ、日本語版でもいちいちルビを見るわけだから、読みやすくなってるとはいえ、その効果は多少あるのかも。でも映画ではそのものの場面が映されるわけで...。映画は観てませんが、序盤は相当衝撃的な場面になってるようですね。「不機嫌なメアリー・ポピンズ」を読むと、本と映画の違いが色々面白そうなんだけど... でもやっぱりちょっと観るのを躊躇っちゃうなあ。(ハヤカワepi文庫)

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爆弾テロで夫と一人息子を亡くした女性が書く、オサマ・ビン=ラディンへの手紙。夫は警察の、夜昼構わず出動要請がかかる爆発物処理班の配属。いつ爆死してもおかしくない状況に夫婦どちらもひどいストレスが溜まっており、その夫がようやく警察を辞めると言い出してくれた矢先の出来事。夫は息子を連れてサッカーを観戦に行っており、爆弾テロはまさにそのサッカー場で起きたのです。

ニューヨーク・タイムズやニューズウィークで絶賛され、アメリカでは優れたフィクション第一作に贈られるファースト・フィクション賞を受賞、本国イギリスでも35歳以下の有望なイギリス人作家に贈られるサマセット・モーム賞を受賞、フランスではフランス読者賞特別審査員賞を受賞... と、なんだか賞をいっぱい取ってる作品。確かにそれに相応しく、良かったんだけど... 読む前に薄々予想していた通り、ものすごく読むのがツラかったです。夫と息子を失った女性が時間とともに癒されるという話ではありません。もうやるせなくて堪らない...(ハヤカワepi文庫)

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1836年。ある夏の日にペルニッツ川沿いのフィヒタウのロマンティックな森の渓谷を歩いていたハインリヒは、城の廃墟を発見します。それはローテンシュタイン城。かつて当主が、その城と財産を受け継ぐ者全員に、その生涯の事細かな自叙伝を書き保管室にきちんと整理し、それまでに書かれた自叙伝を全て読むことを義務付けたことで近隣に知られていました。しかし最後の当主がアフリカで射殺されてからというもの城を受け継ぐ者もなく、城は廃墟と化していたのです。ハインリヒはフィヒタウの旅館に逗留し、やがて旅館の娘・アンナと恋仲になります。そしてアンナと結婚するためには、まず地位と公職を手に入れなければと考えていました。

自然描写の美しさが魅力のシュティフターの作品。この作品も楽しみにしてたんですが...! これはちょっと訳がひどすぎました。多少自分とは合わない文章でも「ひどい」なんてまず言わない私ですが、これはひどいです。ちょっと前の「中国黄金殺人事件」(ロバート・ファン・フーリック)の「いまの彼女にはちょいと人好きする美しさが欠けてはいなかった。」系の訳。しかも誤植が多すぎ! この本は校正されてないんですかね?
もう、読んでても全然集中できませんでしたよー。自然描写の美しさどころか、ハインリヒとアンナのことも、ローテンシュタイン城のことも、かつて城にいた人々の物語もまるで楽しめず仕舞い。この本の解説は、原書にあったものをそのまま訳してるんだと思うんですが、ここに「「ナレンブルク」がシュティフターの創作力のもっともよく発揮されている作品の中に数えられているのは当然である」とあってびっくり。そんなにいい作品だったのか。でもこの日本語版では到底その良さは味わえないと思います。もっときちんとした日本語を書ける方が改めて訳して下さることを切望。(林道舎)


+既読のシュティフター作品の感想+
「水晶 他三篇 石さまざま」シュティフター
「森の小道・二人の姉妹」シュティフター
「晩夏」上下 シュティフター
「ナレンブルク 運命に弄ばれた人々の城」A.シュティフター
「石さまざま」上下 アーダルベルト・シュティフター
「森ゆく人」アーダルベルト・シュティフター
「書き込みのある樅の木」アーダルベルト・シュティフター

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ヨークシャ地方北部にある小さな国教会の壁画を復元するためにロンドンからやって来たトム・バーキンは、戦争後遺症のために頬の痙攣や悪夢に苦しめられている青年。しかし1人でやる仕事はこれが初めてで、バーキンは今回の仕事を見事に仕上げようと張り切っていました。そんなバーキンをまず歓迎したのは、チャールズ・ムーン。ムーンは村の住人の先祖の墓探しを請負いつつ、この教会がサクソン人が建てた初期キリスト教時代の聖堂であることを見抜いて、密かにその発掘調査をしていました。お互い先の大戦を経験した仲間ということもあり、2人はすぐさま意気投合します。

戦争で悲惨な体験をし、しかも妻のヴィニーに手ひどく裏切られたバーキンが、仕事で訪れた北部ヨークシャでひと夏を過ごすうちに癒されていくという物語。安い報酬で引き受けた仕事なんですが、バーキンにとっては初の1人での仕事。幸い漆喰の下に隠れている絵画は綺麗に保存されているようで、やりがいのある仕事となります。美しい田園での生活、そして村人たちとの交流。戦争後遺症を共有するムーンの存在と、バーキンがその美しさに目を奪われるアリス・キーチの存在。バーキンの仕事は国教会での仕事ですが、メソジスト派の駅長一家の存在も大きいんですよね。
読み進めるうちに、これらの物語が回想であることが徐々に分かってきます。今はもう失われてしまった若い頃の美しい日々を愛しむ未来のバーキン。過ぎ去ってしまったからこそ、その日々は一層美しく...。まるで教会の壁画そのもののように、塗りこめられてしまった過ぎ去った日々が蘇ってきます。(白水uブックス)

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著名なピアニストのライダーは、長旅を終えてとある町に降り立ちます。ライダーの名前を聞くだけで、態度が丁重になる町の人々。どうやら町は何らかの危機に面しており、ライダーがその救世主と見なされ、大きな期待をかけられているようなのですが...。

ハヤカワepi文庫はほとんど全部読んでるんですけど、これは読み始めるまで随分長いことかかっちゃいました。なんせ1000ページ近くある煉瓦本。もちろん京極さんの方がもっと分厚いですけど、あっちは私はノベルスで読んでるし、ノベルスは本そのものが大きい分、形状的にはもう少し読みやすい! もう、読んでる途中で何度本を落としそうになったことか。なんでこういう本を上下巻にしないのかしら? 単行本の時は上下巻だったみたいなのに。
というのはともかく。

どうやらイギリス出身で、ドイツの小さな町に演奏旅行に来たらしいピアニストのライダー。初めて訪れた町のはずなのに、話している相手の顔に見覚えがあるような気がしてきたり、実際にその人間のことを知っていたりします。町にはライダーの妻や息子までいる...? そして時には昔の知り合いが現れることも。町の住民は皆一様に彼がライダーだと知ると大歓迎。みんながライダーと話したがるし、先を競って丁重にもてなそうとします。でも丁重に厄介ごとも持ち込むんですよね。そしてライダーがその場その場で相手に話を合わせているうちに、話はどんどんややこしくなっていきます。そもそもライダーはかなりのハードスケジュールらしいのに、自分のスケジュールを全然知らないどころか、演奏する曲も決まってません。きちんと世話役の女性が出迎えて、何か不満や疑問がないか確かめるのに、なぜかスケジュールをまるで把握してないとは言い出しにくい雰囲気。
とにかくこの世界は不条理でいっぱいで、まるで夢の中にいる時みたい。「不思議の国のアリス」状態です。でもライダーはその不条理をあんまり気にしてないんですよね。その場その場でライダーが選び取る行動が、この世界での事実となって積み重なっていくような...。
「充たされざる者」なのはライダーのことなのかと思いきや、町の住民は揃いも揃って「充たされざる者」でした。しかも彼らのやり取りを読んでいる読者もまた、読んでる間にすっかり「充たされざる者」になってしまうし。まるで他人の悪夢の中に紛れ込んでしまったような感覚の作品。読後感としてはまず「長かった~」なんですが、面白かったです。訳者あとがきを読んで、マトリョーシカには納得。確かに!(ハヤカワepi文庫)


+既読のカズオ・イシグロ作品の感想+
「日の名残り」カズオ・イシグロ
「遠い山なみの光」カズオ・イシグロ
「わたしたちが孤児だったころ」カズオ・イシグロ
「浮世の画家」カズオ・イシグロ
「私を離さないで」カズオ・イシグロ
「充たされざる者」カズオ・イシグロ

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19世紀末。エルヴェ・ジョンクールは、20年かけて南仏の町・ラヴィルデューを養蚕の町にしたバルダビューに誘われて、蚕の卵の売買の仕事を始めることになります。しかしやがてヨーロッパの養蚕農家は疫病に悩まされるようになり、その疫病はじわわと全世界に及ぶのです。蚕の卵が疫病に冒されていないのは、世界中で日本だけ。32歳のジョンクールは、最近まで鎖国をしていたという日本へと向かうことに。

絹を生み出す蚕、そしてそれを巡る人々の物語。
まず「日本の読者へ」という序文があって、ここに描かれている日本は西洋人の空想の中に存在する日本だと書かれていました。日本人に読まれることを想定しないで書いたので、日本人にとってはあり得ない姿かもしれないし、登場する日本語の名前に抵抗を感じるかもしれない、と。確かにここに描かれているのは、西洋の映画に登場するようなエキゾティックな日本の姿。でもハリウッド映画の「フジヤマ・ゲイシャ」じゃなくて、もっとしっとりと静かな雰囲気なんですよね。だから私は逆に、イタリア人の思い描く「幻想の日本」として結構楽しめたかも。「ハラ・ケイ」なんて名前が出てくるたびに、妙に反応してしまうんですが。(笑)
そしてバリッコがその「ハラ・ケイ」という名前を使ったのは、言葉の響きがとても好きだったからなのだそう。それも含めて、全体的にそういう感覚的なものをすごく大切にした作品なんですね。訳者あとがきに、作者が「物語がひとりでに透けて見えてくるようにしたかった」と語っていたとある通り、ものすごく光を感じる物語でした。太陽の光をそのまま仰ぎ見るのではなくて、ごくごく薄い絹の布ごしに感じる光。(ん? なんだか几帳のような... ああ、「窯変源氏物語」が私を呼んでいる!) 文章もまるで詩を読んでいるようで音楽的だし(バリッコは実際、音楽学者でもあるらしいです)、そんな文章で描かれた場面場面はとても幻想的。特にハラケイの家を訪れて美しい女性に出会う場面は、まるで夢の中の一場面のようです。話がどうこういうよりも、感覚的に楽しむ作品なんだろうな、きっと。(白水uブックス)


+既読のアレッサンドロ・バリッコ作品の感想+
「海の上のピアニスト」アレッサンドロ・バリッコ
「絹」アレッサンドロ・バリッコ

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南に向けて6時間も飛びっぱなしだったカモメたちの一団は、見張り係がみつけたニシンの群れを目指して急降下。しかし銀色の翼のケンガーが4匹目のニシンをとりに海に潜った時、見張り係の警告の叫び声が。ケンガーが海面に頭を出した時、既に仲間たちの姿はありませんでした。警告は、海に原油が広がっていることを知らせるものだったのです。羽に原油がべっとりとついたカモメは、魚の餌食になるか餓死するさだめ。ケンガーはなんとか飛び立つことに成功するものの、やがて力尽きてハンブルクの一軒の家のバルコニーに墜落。そこにはゾルバという黒い猫がいました。自分の命が長くはないことを悟ったケンガーは、自分の産む卵をゾルバに託すことに。そして卵を食べないこと、ひなが生まれるまで卵の面倒をみること、そしてひなに飛び方を教えることをゾルバに約束させます。

ゾルバ、大佐、秘書、博士、向かい風といった猫たちと、フォルトゥナータと名づけられたカモメとの友情物語。「港では、一匹の猫の問題は、すべての猫の問題だ」「港では、一匹の猫が名誉にかけて誓った約束は、港じゅうのすべての猫の約束じゃ」という言葉のもとに、死んでいったカモメのケンガーとの約束は厳重に守られることになります。でも何でも載ってる博士の百科事典にも、カモメの育て方は載ってないんですよね。猫たちのカモメのヒナ育ては、全く手探り状態でスタート。ゾルバは綺麗な石みたいだなと思いつつも卵を温め続け、やがて生まれたヒナにハエを取ってやり、人間たちに見つからないように場所を移し、ヒナを狙わないように野良猫と下水管のネズミに話をつけます。フォルトゥナータをという名前になったヒナは、猫たちの愛情に包まれて育つんです。自分も猫だと思いたくなるほどまでに。
この猫たちがすごくいいんです。なんていうか男気があってカッコいい。私は本当は動物モノってあんまり好きじゃないんですけど、これは良かったなあ。とてもシンプルな物語なんですけど、とても力強くて愛情もたっぷり。ヨーロッパでは「8歳から88歳までの若者のための小説」という副題で刊行されたと聞いて納得です。確かに一見童話のような作品だし、すぐ読めてしまう短さなんですけど、これは単なる子供向けの作品ではないですね。子供も大人もそれぞれに楽しめる作品。なかなかいいものを読みましたー。(白水uブックス)

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ダヴンホール島のチャイナタウンで生まれ育ったマークは、生まれつき真っ白い髪をした少年。そのマークが、母親の足元に見知らぬ男の死体が横たわってるのを見たのは19歳の時。マークはそのまま回れ右をして島を出て行きます。島と本土を行き来する小さい船で働きながら、決して島に降り立とうとはしないマーク。そして15年が経った時。ダヴンホール島にやって来た青いドレスの娘に心を奪われたマークは、娘がなかなか戻って来ないのに苛立ち、15年ぶりに島に降り立ちます。しかし娘は見つからず、マークは母と再会。そして15年前に死んだ男の声、バニング・ジェーンライトの生涯を語る声を聞くことに...。

裏表紙に「仮に第二次大戦でドイツが敗けず、ヒトラーがまだ死んでいなかったら...」と書いてあったので、てっきりヒトラーのif物、第二次世界大戦でナチスが勝ち、その勢力が全世界に及んでいく話なのかと思ったら! いや、確かにヒトラーは生きてるんですけどね。そういう話ではなかったんですね。そして裏表紙に「ヒトラーの私設ポルノグラファーになった男を物語の中心に据え」ともあったので、最初に出てくる少年がそのポルノグラファーになるのかと思ったんですけど、どうやらそれも違うみたいで、そうこうしてるうちにバニング・ジェーンライトの話が始まっちゃうし。しかもそのバニング・ジェーンライトの話の中にも、いくつもの話の流れがあるんです。面白くてどんどん読み進めてしまうんですけど、えっ、これってどういうこと? 話はあとでちゃんと繋がるの? このまま読み進めちゃって本当に大丈夫...? なんて不安になってしまいました。
それでもとりあえず読み続けてたら。「あっ」と思った瞬間全てが繋がってました。そうか、よく分からなかったあの場面はこういうことだったのか! あれもこれも、そういうことだったのか! いきなり目の前がクリアになりました。オセロゲームで、いきなりパタパタと駒がひっくり返って、黒一色に見えた盤上が白一色になってしまった時みたいな感覚。
そうか、これはパラレルワールドじゃないんですね。パラレルワールドと言えるほど平行してないもの。捩れて絡まりあって侵食しあってます。そうか、クリストファー・プリーストの「双生児」か。あと、先日読んだばかりのガルシア=マルケス「百年の孤独」も? いや、凄かったな。これはもう一同最初に戻って読み返してみなくっちゃ。そうすれば、もう少し全体像を掴みながら読めるよね。ああ、作者の理解力を持ってこの作品を読みたい。って、理解力のなさを暴露してるようですが、そこはそれ、隅々まで理解したいということで♪

...で、結局カーラって誰だったんでしょうか?(す、すみません、よく分からなくて...)(白水uブックス)

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19世紀末。葉巻店主の息子として生まれたマーティン・ドレスラーは、9歳の時に既に葉巻やパイプ、煙草に関する知識を十分持ち、客の気質を素早く見抜いてはぴったり合った品を勧めるのを得意としていました。人々はマーティンを気に入り、その判断を信頼していたのです。やがてヴァンダリン・ホテルの早番フロント係のチャーリー・ストラトマイヤーに、ホテルのロビーの葉巻スタンドでは売っていない高級パナテラ葉巻を毎日届けることによって、ビジネス上の初の成功を収め、14歳の時にマーティンはヴァンダリン・ホテルのベルボーイとして働くことになります。

今回主人公として描かれているマーティン・ドレスラーという人物像自体は、ミルハウザーが描いているほかの人物たちと基本的に同じ。自分の興味の対象に打ち込んで、素晴らしい作品を作り上げるというのも同じ。でもマーティン・ドレスラーは芸術家じゃないんですよね。アウグスト・エッシェンブルクやJ・フランクリン・ペインと同じように確かに職人気質なんだけど、マーティン・ドレスラーが作り出すのは時代を先取りするようなカフェレストランでありホテルであり、決して自動人形や絵画やアニメーションではないんですよねえ。そしてもう1つ違うのは、彼には全面的にお膳立てを整えて後押ししてくれる人間がいないということ。そういう人間の存在によって、アウグスト・エッシェンブルクやJ・フランクリン・ペインは自分の作り出す芸術品に没頭していればそれで良かったんだけど、マーティン・ドレスラーは自分が作り出す立場でもあり、全面的にお膳立てを整える立場でもあり、なんですよね。その都度パートナーはいるんだけど、気がついたら去っていってしまっていて。
いつものようにミルハウザーらしさを堪能できたし、今回は長編のせいかマーティン・ドレスラーの感情の移り変わりもいつも以上に濃やかに描かれていたんですけど、やっぱりどこか違うなあって気も...。いつもと同じような人物造形だけに、生み出すものに期待してしまうのかな。レストランやホテルというのがリアルすぎるんですよね、多分。あまり夢みる対象にはならないからかも。(白水uブックス)


+既読のスティーヴン・ミルハウザー作品の感想+
「イン・ザ・ペニー・アーケード」スティーヴン・ミルハウザー
「バーナム博物館」スティーヴン・ミルハウザー
「三つの小さな王国」スティーヴン・ミルハウザー
「マーティン・ドレスラーの夢」スティーヴン・ミルハウザー

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檻の前にいたのは、2時間以上も身動きせずにじっと立ち続け、青い毛並みのオオカミが行ったり来たりするのを眺め続けている少年。オオカミは、少年が一体自分に何をして欲しいのかと不思議に思います。そのうち飽きるだろうと考えるオオカミでしたが、少年は翌日もそのまた翌日も、そしてその翌日も、月に一度の休園日も、オオカミの檻の前に1日中立っていたのです。10年前に人間に生け捕りにされた日に片目を失って以来、人間に二度と興味を持つまいと誓っていたオオカミですが、やがて根負けして檻の中を歩き回るのをやめ、少年に真正面から向き合うことに。

今まで読んだダニエル・ペナックの作品って、マロセーヌシリーズの4冊だけなんですけど、そちらとはもう全然雰囲気が違っててびっくり。マロセーヌシリーズはもう本当に饒舌な作品でしたが、こちらはとっても静かなんです。外界から心を閉ざして檻の中を歩き続けるオオカミと、そのオオカミを見つめる少年が正面から向き合うことによって徐々に理解や信頼が生まれて、オオカミは再び生きる力を得るという物語。
読み始めた時は、児童文学?と思ったんですが、実際にはすごく深くて大人向きの作品ですね。子供のうちに読んでも楽しめるとは思うんですけど、本当に理解できるのは大人になってからでしょう。「先進国に対するアフリカ」とか「自然破壊」みたいに、表にはっきりと出てきてるテーマもあるんですが、一番大切なことはむしろ隠れてるし。読みながら、これはどういうことを意味してるんだろう?って1つずつ考えちゃう。
この作品に出てくる少年は、アフリカ生まれの黒人の少年なんですよね。フランス人作家のダニエル・ペナックがこんな作品を書いてるとはびっくりでしたが、モロッコのカサブランカで生まれ、両親とともにアジアやアフリカの各国で暮らした経験を持つのだそう。そうだったのか。納得です。 (白水uブックス)


+既読のダニエル・ぺナック作品の感想+
「人喰い鬼のお愉しみ」D.ぺナック
「人喰い鬼のお愉しみ」「カービン銃の妖精」ダニエル・ぺナック
「散文売りの少女」ダニエル・ぺナック
「ムッシュ・マロセーヌ」ダニエル・ペナック
「片目のオオカミ」ダニエル・ペナック
「カモ少年と謎のペンフレンド」ダニエル・ペナック
「奔放な読書」ダニエル・ぺナック

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アウレリャーノ・ブエンディーア大佐が子供の頃のマコンドは、澄んだ川が勢い良く落ちていく川のほとりに、葦と泥づくりの家が20軒ほど建っているだけの小さな村。毎年3月になるとぼろをぶら下げたジプシーの一家がやってきて、アウレリャーノの父のホセ・アルカディオ・ブエンディーアが母・ウルスラの反対を押し切って、なけなしの金で不思議な道具を買い込むのが常。当初は若き族長として村の発展のために尽くしたホセ・アルカディオ・ブエンディーアは、いつしか家の仕事も子供の世話もせず、ジプシーのメルキアデスに贈られた錬金術の工房に篭りきりの生活を送るようになっていたのです...

読もう読もうと思いつつ、ラテンアメリカ文学にはちょっと苦手意識があってなかなか手に取るところまではいかなかったんですが、ようやく読めました。いや、これを読んでもやっぱりラテンアメリカにはまだまだ慣れないなあという感じなのだけど... でも今なら寝かせ中のボルヘスの「伝奇集」が、もう少し読めるようになってるかな? 少しずつ読んでは寝かせてるので、一体いつになったら読み終わるの?状態なんですけど。(笑)

この「百年の孤独」を読み始めて最初に戸惑ったのは、同じ名前の人間が沢山登場すること。ホセ・アルカディオとアウレリャーノがいっぱい! もう半端じゃないです。そしてその2つの名前ほどじゃないけど、ウルスラとアマランタもいっぱい。これは混乱せずにはいられないでしょう。でも、これはわざとだったんですね。親の名前を子供につけるというのは普通にあることでしょうけど、なんでこんなことするんだろう... と、ずっと思いながら読んでたんです。最後まで読んですとんと腑に落ちました。
この作品、途中も十分面白く読んでたんですけど、同時にどこか収まりが悪くて落ち着かない気分もあったんですよね。ちょっと読んでは、また前に戻ってもう一度読み返したくなって仕方がなくて。しかも、先週の後半から週末にかけて全然まとまった読書の時間が取れなかったので、もう全然進まなくてー。でもそうやって「三歩進んで二歩下がる」読書を続けてた甲斐があったのか(笑)、最後の最後でドカンと来ました。いや、すごいな、これは。全てがこの最後のための積み重ねと反復だったのね。なるほど! この100年というスパンがまた素敵。いやあ、面白かったです。濃い話だったわー。

という私が読んだのは旧版。上の書影とリンクは最新版です。1999年度に出た版はレメディオス・バロの表紙が素敵だし作品にも合ってると思うのに、なんで変えちゃったのかな?(新潮社)

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月光の照る夜、ベッドの中で仏陀の本を読みながらなかば夢見心地になっていた「ぼく」が石と脂肪について考えていると、場面は突然プラハのゲットー(ユダヤ人街)にあるアパートの中庭に転換。赤毛のロジーナを避けて自室に戻った「ぼく」は、古道具屋のアーロン・ヴァッサートゥルムが店先に立っているのを眺め、ロジーナを探す双生児の兄弟の気配を感じ、隣の建物の同じ階から聞こえてくる男女の話し声に、数日前に人形遣いのツヴァック爺さんがアトリエを青年紳士に又貸ししたという話をしていたのを思い出します。その時、突然1人の貴婦人が部屋に飛び込んできたのです。「ペルナートさま、お助けくださいましーー後生ですから!ーーなにも言わないで隠れさせてくださいまし!」...「ぼく」は、宝石職人のアタナージウス・ペルナートになっていました。

ゴーレム伝説を下敷きにした幻想小説。マイリンクはユダヤ教、キリスト教、東洋の神秘思想を学び、しかもプロテスタントから大乗仏教徒に改宗という経歴の持ち主なんだそうです。マイリンクの作品には、新プラトン派やグノーシス派の哲学、錬金術やカバラの思想、バラモン教や道教などの東洋思想の影響が指摘されるそうで... 確かにそういう雰囲気がたっぷり。
ゴーレムというのはユダヤ教の伝承に登場する土人形のことなんですが、プラハのラビ(ユダヤ教の律法学者)・レーフが作ったゴーレムの伝説が一番有名なようですね。レーフは土を捏ねて人形を作り、護符を貼り付けて動けるようにするんですが、ある晩その護符を取り外すのを忘れるとゴーレムが凶暴化。護符を剥ぎ取ってようやく土くれに戻ったという話。でもこの作品は「ゴーレム」という題名ほどにはゴーレム伝説中心ではないんですね。本当はもっとそのゴーレム伝説そのものを読みたかったんだけど、ちょっと違ってて残念。

でもこれはこれで... なんて言い方をするのはこの作品に失礼なんだけど、すごく迫力のある作品でした。陰鬱な雰囲気のプラハのゲットーを舞台に、いくつもの断片的なエピソードが積み重ねられていて、まさに夢の中にいるような不思議な雰囲気。いくつかの場面が、ものすごくくっきりと鮮やかに脳裏に焼きついてしまったのだけど、その中でも謎の男が修理に持参した「イッブール(霊魂の受胎)」という羊皮紙の本を開く場面が、とても幻想的で美しい~。奇妙な通路を抜け出た先の部屋に落ちていたタロットカードを拾った場面も印象的だったし... あとはやっぱりラストの場面かな。きっと主人公がより深く自分自身を探っていく物語だったんだろうと思うんですけど、きちんと理解できたとは到底言いがたいです。でもものすごく存在感のある作品。これは落ち着いた頃にまた読み返してみたいな。(河出書房新社)

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幼い頃から絵を描くのが好きだったフランクリンは、高校を卒業すると似顔絵描き、広告ポスター仕事を経て、新聞の漫画を描くようになり、じきに自宅でアニメーションを作り始めることに... という「J・フランクリン・ペインの王国」。昔々、川向こうの険しい崖の上に建っている城に住んでいたのは美しい王と王妃。2人は心から愛し合っていたにも関わらず、1年と経たないうちに幸福は絶望へと変わり果てることになるのです... という「王妃、小人、土牢」。そしてエドマンド・ムーラッシュという画家の遺した絵画の解説から、エドマンドとその妹・エリザベス、エドマンドの友人・ウィリアムとその妹・ソフィアの4人の関係が見えてくる「展覧会のカタログ」の3編。

「J・フランクリン・ペインの小さな王国」のJ・フランクリン・ペインは、ミルハウザーがよく描く職人タイプの人間。1920年、まだディズニーのミッキーマウスも出てきていない、アニメーションのごくごく初期の時代。セル画を使えば相当楽になると分かってはいても、細部にまで拘って自分で描かずにはいられないフランクリンの姿は、まさしく「アウグスト・エッシェンブルク」タイプ。
そしてあとの2作は、小さなエピソードを積み重ねていくタイプの作品。「王妃、小人、土牢」は、それぞれ表題がついたエピソードがいくつも積み重なることによって、王と王妃、辺境伯、小人の4人の物語が展開していきます。「展覧会のカタログ」も、画家の遺した絵1枚1枚に書かれた解説を読んでいくに従って、4人の人間の変化し緊迫してゆく関係が見えてくる作品。

でも最初はそんな外見的な形式の違いに目が行ってしまってたんですけど、考えてみたら「J・フランクリン・ペインの小さな王国」は、フランクリンが自ら小さなエピソード積み重ねてるようなものだし... それにアニメーションというのは、観客がそこで繰り広げられる物語を眺めるというもの。「王妃、小人、土牢」で、川向こうのお城のお話がどんなに酷い展開をみせたとしても、川のこちら側の町の住人にとっては「昔々」のお話に過ぎないというのと同じなんですよね。展覧会のカタログだってそう。3つの作品はそれぞれに共通するものを持ってたのね。「探偵ゲーム」の現実の世界とゲームの中の世界のように、外の世界と中の世界と。

3編とも本当にミルハウザーらしい作品でした。幻想的という意味では今まで読んだ2冊の方が好きだったけど、この本もなかなか良かったです。この3作の中では「王妃、小人、土牢」が一番好きだな。これが一番境界線があやふやだからかな。(白水uブックス)


+既読のスティーヴン・ミルハウザー作品の感想+
「イン・ザ・ペニー・アーケード」スティーヴン・ミルハウザー
「バーナム博物館」スティーヴン・ミルハウザー
「三つの小さな王国」スティーヴン・ミルハウザー

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パリ左岸の静かな地区に住む著者は、自分の住むアパルトマンの近所に「デフォルジュ・ピアノー工具と部品」という小さな店があるのに気付きます。毎朝子供を幼稚園に送り迎えする度に店の前を通り、ピアノの修理に使う工具や部品を眺め、時には店の正面にあるカフェから店を眺める著者。そのうち、もう一度自分のピアノが欲しいという思いがふくれあがります。そしてとうとう店の扉を叩くことに。店の主人に、中古ピアノはなかなか手に入らないと言われながらも、店に通う著者。そんなある日偶然目にしたのは、店の奥の光溢れる空間。そこは、ありとあらゆるピアノとその部品で埋め尽くされているアトリエでした。

この作品は再読。以前読んだのは丁度5年前、ブログを始める直前です。その後また読みたいなと思いつつ、なかなか通して読むところまではいかなかったんですが、ようやくじっくり読み返せました。
何度読んでも本当に素敵な作品。楽器を弾かない人にももちろん楽しめると思うんですけど、特に子供の頃にピアノが大好きだった人、大人になってからも弾きたいと思ったことがある人は、そのまま楽器屋さんに直行したくなっちゃうかもしれませんー。そしてまた先生について習いたくなっちゃうかも。という私は大学生になって上京する時にピアノをやめてしまったんですが、あそこでやめてなければ... って思っちゃう。ああ、細々とでも続けていれば...! そしてそして、ベビーグランドピアノが欲しいですーっ。そうでなくても、今通ってるサックス教室にグランドピアノがあって、触りたくて仕方ないのを毎週我慢してるというのに、ほんと酷な作品だわ。(笑)
リュックのアトリエにものすごーく行ってみたくなるけど、これは絶対無理。著者もそんなこと望んでないでしょうし。でもせめて、今からでもアンナみたいな先生にめぐり合えたらいいのにな。そしたら家の真ん中に可愛いベビー・グランドピアノを置いて、いつでも熱心に練習するのに。ああ、やっぱり無理かしら。(新潮クレストブックス)

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1818年12月24日の朝。オーストリアのザルツブルグに近い小さな町・オーベルンドルフの聖ニコラ教会にやって来た若いオルガン奏者・フランツ・グルーバーは、オルガンの音が出ないのに気付きます。パイプオルガンのパイプの革製のふいごに、ネズミが小さな孔をあけてしまっていたのです。困り果てたフランツ・グルーバーと若い助任司祭・ヨゼフ・モールはその夜のミサのために、ギターの伴奏で歌を歌うことを思いつきます。そしてヨゼフ・モールがその日作った詩に、フランツ・グルーバーが曲をつけることに...。クリスマスの賛美歌「きよしこの夜」を作り上げることになったヨゼフ・モールとフランツ・グルーバーの物語。

本当はクリスマスの頃に読むつもりにしてたんですけど、うっかりしててちょっと早くなってしまいました。
クリスマスになると世界中で歌われる「きよしこの夜」は作者不詳とされてることも多いんですが、実は19世紀のオーストリアの田舎町で作られた曲だったんですね! しかもパイプオルガンの故障から生まれた曲だったとは。記念すべき最初の演奏は、グルーバーによるギターの伴奏に合わせて歌うモールとグルーバーと12人の子供たちの歌。でも評判こそ決して悪くなかったものの、教会のミサにギターなんてとんでもない!と考える気難し屋の老司祭によってモールは更迭されてしまうし、2人にとってはあまりいい思い出とはならなかったみたい。
でもそのまま忘れ去られてしまうはずだったこの曲は、パイプオルガンの修理屋が楽譜をもらったことによって、次第に広がっていくことになります。2人が作者だと名乗らなかったせいで、一時はミヒャエル・ハイドン(有名なハイドンの弟)の作曲と思われたこともあるようですが、楽譜探しを依頼されたザルツブルグの聖ペトルス・ベネディクト派修道院に偶然グルーバーの末の息子がいたせいで、本当の作者が判明したんですって!
表紙の画像が出ないんですけど、この本がまたとても素敵なんです。黒地の表紙の中央に天井画(多分)が配されて、その上下に金色の字で「The Story of Silent Night」「Paul Gallico」と書かれている、とてもシックな装幀の本です。(大和書房)


+既読のポール・ギャリコ作品の感想+
「トマシーナ」ポール・ギャリコ
「セシルの魔法の友だち」ポール・ギャリコ
「マチルダ ボクシング・カンガルーの冒険」ポール・ギャリコ
「われらが英雄スクラッフィ」ポール・ギャリコ
「幽霊が多すぎる」ポール・ギャリコ
「猫語の教科書」ポール・ギャリコ
「ハリスおばさんパリへ行く」「ハリスおばさんニューヨークへ行く」他2冊 ポール・ギャリコ
「七つの人形の恋物語」「スノーグース」ポール・ギャリコ
「トンデモネズミ大活躍」「ほんものの魔法使」ポール・ギャリコ
「ポセイドン」上下 ポール・ギャリコ
「ザ・ロンリー」ポール・ギャリコ
「「きよしこの夜」が生まれた日」ポール・ギャリコ
Livreに「ジェニィ」の感想があります)

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キャシー・Hは31歳。もう11年も務めているというベテランの介護人で、仕事は提供者と呼ばれる人々を世話すること。仕事がよく出来るのに2~3年でやめされられる人もいれば、まるで役立たずなのに14年間働き通した人もいる中で、キャシーの仕事ぶりが気に入られていたのは確か。キャシーが介護した提供者たちの回復ぶりは、みな期待以上だったのです。6年ほど働いた時に介護する相手が選べるようになったキャシーは、親友のルースとトミーをはじめとする自分が生まれ育った施設・ヘールシャムの仲間に再会することになります。そんなキャシーがヘールシャム時代のこと、そしてヘールシャムから卒業した後のことを回想していきます。

「提供者」「介護人」といった言葉。そして一見普通の生活に見えるけど、どこか普通と違う「ヘールシャム」の施設の話。もしや... という予感が正しかったことは、徐々に明らかになっていきます。ヘールシャムの生徒たちが「教わっているようで、教わっていない」のと同じような状態ですね。トミーの言う「何か新しいことを教えるときは、ほんとに理解できるようになる少し前に教えるんだよ。だから、当然、理解はできないんだけど、できないなりに少しは頭に残るだろ? その連続でさ、きっと、おれたちの頭には、自分でもよく考えてみたことがない情報がいっぱい詰まってたんだよ」... 違うことに注意をひきつけておいて、その間に他の内容を忍び込ませるというのは、当たり前のことなのかもしれないけど、なんかスゴイな。
何についての話なのかは、読み始めて比較的すぐに見当がついてしまうんですけど、終始淡々としているキャシーの語り口が逆に哀しくて、怖いです。やっぱりカズオ・イシグロはいいですね。それでも一番最初に読んだ「日の名残り」が一番好きだったなとは思うのだけど。(ハヤカワepi文庫)


+既読のカズオ・イシグロ作品の感想+
「日の名残り」カズオ・イシグロ
「遠い山なみの光」カズオ・イシグロ
「わたしたちが孤児だったころ」カズオ・イシグロ
「浮世の画家」カズオ・イシグロ
「私を離さないで」カズオ・イシグロ
「充たされざる者」カズオ・イシグロ

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第二次大戦中のイギリス。戦争神経症の兆しがあるため、搭乗勤務をやめて2週間ほどスコットランドで休んでくるようにと航空医官に言い渡された23歳のジェリー。休暇をとればそれだけアメリカに帰るのも遅くなり、婚約者のキャサリンとの結婚も遠のくのです。しかもスコットランドで男1人過ごす休日なんて、とジェリーは苛立ちます。そんな時に憧れのハリソン少佐に言われたのは、スコットランドへ女の子を連れていけばいいということ。その時だけのつきあいだときちんと最初に言っておけば、イギリスの女の子はほぼ100パーセント大丈夫だというのです。そう言われた時にジェリーの頭に浮かんだのは、英国空軍婦人補助部隊の地味な女の子・パッチズ。丁度パッチズも10日間の休暇をとるところで、2人はスコットランドへと向かうのですが...。

アメリカの故郷で待っているのは、恵まれた生活に尊敬すべき両親、そして申し分ない婚約者。もうすぐイギリスでの任務も終わるのです。それなのに、イギリスで出会った、ちょっと風変わりな女の子に惹かれてしまったジェリー。キャサリンが嫌いになったんなら、まだ話は簡単だったんでしょうけどね。そしてもしパッチズが婚約者よりもずっと美人で性格も良くて、だったなら。だけどキャサリンは美しく健康的で誠実な女の子。子供の頃からジェリーのことが好き。母親同士は長年の親友で、家同士の社会的な立場や物の見方も似通っていて、周囲にとってはこれ以上ないほどの組み合わせ。そういう状況を打破するのはしんどいでしょうねえ。
ジェリーとパッチズの思いが肌理細やかに描き込まれてるので、読んでるうちにこの2人にとても感情移入してしまうし、とてもいい作品だったと思うのだけど... キャサリンは姿だけの登場なんですよね。キャサリンの本当の気持ちを放っておいて、「いい作品だった」なんて言ってていいものなのかしら?なんて思ってしまったりもします。
物語が始まる前に、「ザ・ロンリーとは、年端もゆかぬうちから天国と地獄とをまのあたりに見てしまった者たちのことである」という言葉がありました。地獄を見てしまったジェリーを、果たしてキャサリンがきちんと受け止められたかと考えると疑問なので、やっぱりこれで良かったんでしょうけど...。(王国社)


+既読のポール・ギャリコ作品の感想+
「トマシーナ」ポール・ギャリコ
「セシルの魔法の友だち」ポール・ギャリコ
「マチルダ ボクシング・カンガルーの冒険」ポール・ギャリコ
「われらが英雄スクラッフィ」ポール・ギャリコ
「幽霊が多すぎる」ポール・ギャリコ
「猫語の教科書」ポール・ギャリコ
「ハリスおばさんパリへ行く」「ハリスおばさんニューヨークへ行く」他2冊 ポール・ギャリコ
「七つの人形の恋物語」「スノーグース」ポール・ギャリコ
「トンデモネズミ大活躍」「ほんものの魔法使」ポール・ギャリコ
「ポセイドン」上下 ポール・ギャリコ
「ザ・ロンリー」ポール・ギャリコ
「「きよしこの夜」が生まれた日」ポール・ギャリコ
Livreに「ジェニィ」の感想があります)

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3月のある晩のこと。ロンドンに滞在していたボヘミアのフロリゼル王子は、ジェラルディーン大佐と共に変装して牡蠣料理屋へ。面白そうな人間との出会いもなく、早くもその晩の冒険に飽き始めていたフロリゼル王子ですが、その時、店に1人の若者が勢い良く入って来ます。若者は、クリームタルトを盛った大皿を抱えた2人の供を連れていました。

「ジキル博士とハイド氏」や「宝島」で有名なスティーヴンスンの作品。ヴィクトリア時代のロンドンをアラビアの都・バグダッドに見立てて、ボヘミアの王子・フロリゼルと腹心のジェラルディーン大佐のお忍びの夜の冒険を描いたというオムニバス形式の短編集です。この2人が「千夜一夜物語」の教主(カリフ)・ハルン・アル・ラシッドと腹心の大宰相になぞらえられているんですね。
7つの短編が収められているんですが、実際には「自殺クラブ」と「ラージャのダイヤモンド」の2編。いかにも古い時代のロンドンといった雰囲気がとてもいい感じだし、フロリゼル王子とジェラルディーン大佐のコンビが好き~。でもせっかくのお忍びの冒険が「自殺クラブ」の方だけとは残念。「ラージャのダイヤモンド」も、オムニバス形式がうまく生かされてて面白い作品なんですけど、こちらでは最後にフロリゼル王子が出てくるだけで、ジェラルディーン大佐は登場しないんですよね。しかも変装してないし! お忍びの冒険じゃないし! となると「自殺クラブ」の方が面白かった、となりそうなところなんですけど... こちらは大佐が気の毒で、一長一短。(それでもやっぱり「自殺クラブ」の方が好きかも)
王子と大佐のお忍びの冒険をもっと読みたかったな。でも発表された当時はあまり評判が良くなくて、スティーヴンスン自身もこの作品にあまり重きを置いてなかったようですね。最後の最後でフロリゼル王子が意外な展開となってしまうし...。これはもっと冒険を重ねてからにして欲しかった。でもそんな展開になった後の「続・新アラビア夜話 爆弾魔」という作品もあるんだそうです。こちらは夫人ファニーとの合作だとか。南條竹則さんが(この本の訳者は南條竹則さんなんです)、こちらも訳して下さったらいいのになー。(光文社古典新訳文庫)


+既読のスティーヴンスン作品の感想+
「新アラビア夜話」スティーヴンスン
「ジーキル博士とハイド氏」スティーヴンスン

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町の中心にあるバーナム博物館は、様々な様式が混在している上、非常に複雑な構造。そしてその中には、ありとあらゆる不思議な物が詰まっているのです... という表題作「バーナム博物館」他、全10編の短編集。

まるで表題作となっている「バーナム博物館」そのままのような本でした! 10編の短編が、まるでバーナム博物館のそれぞれの展示室のような感じ。細密画のようにみっしりと描きこまれたそれぞれの物語が濃厚な空気を発散していて、読者を「自然な世界から怪奇・幻想の誤った世界へ」と誘います。しかも、ふと異世界に踏み込んでしまえば、もう二度と元の世界に戻れなくなりそうな危機感もたっぷり。でも博物館の中をいくら歩いて回ってもその全貌はなかなか掴めないように、この短編集をいくら読んでも、ミルハウザーという作家の全貌はなかなか見えて来ないのかも。博物館の中を歩くたびに新たな部屋や展示物が見つかるように、本を開くたびに新たな発見がありそうです。
私が特に気に入ったのは表題作の「バーナム博物館」と「探偵ゲーム」かな。「バーナム博物館」は「イン・ザ・ペニー・アーケード」の中の「東方の国」のような雰囲気で、説明だけといえば説明だけなんですが... それぞれの部屋や展示物を想像しているだけでも素敵。そして「探偵ゲーム」は、3人きょうだいの末っ子のデイヴィッドの誕生日に、久々に兄のジェイコブと姉のマリアンが家に戻ってくるんですが、ジェイコブは大遅刻をした上、何の予告もなく恋人を連れて来るんですね。で、4人で探偵ゲームというボードゲームをするんだけど... という物語。それぞれの人物のモノローグが積み重なっていく形式なんですが、ゲームの参加者1人1人だけでなく、ゲームの盤上の駒として動いている人物たちのモノローグも入って、それぞれの思いや腹の探り合いが渾然一体。どちらが現実なのか分からなくなりそうなほど緊迫感たっぷり。
シンドバッドの架空の8番目の航海を物語りながら、時折「千夜一夜物語」がヨーロッパに広まった経緯などの考察が挟み込まれる「シンドバッド第八の航海」や、「不思議の国のアリス」の冒頭のアリスが落ちるシーンだけを描きこんだ「アリスは落ちながら」も楽しかったし、「千夜一夜物語」や「不思議の国のアリス」を読み返したくなっちゃう。そして最後は、映画化もされた「幻影師、アイゼンハイム」。「イン・ザ・ペニー・アーケード」の中の「アウグスト・エッシェンブルク」タイプの作品。やっぱりこれが一番ミルハウザーらしい作品なのかもしれないなー。(白水uブックス)


+既読のスティーヴン・ミルハウザー作品の感想+
「イン・ザ・ペニー・アーケード」スティーヴン・ミルハウザー
「バーナム博物館」スティーヴン・ミルハウザー
「三つの小さな王国」スティーヴン・ミルハウザー

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アウグストの父は時計職人で、彼が覚えている一番古い情景は、父親が懐中時計の裏蓋をあけて、歯車が重なり合って神秘的に動いている情景。時計や歯車のことを習い始めたアウグストは、12歳の時に見た動く絵を自分でも作り、14歳の時には自動人形を作り始めます。そして18歳になったアウグストは、大手百貨店を経営するプライゼンタンツに誘われて、ベルリンで自動人形を作る仕事に取り組むことに... という「アウグウト・エッシェンブルク」他、全7編。

スティーヴン・ミルハウザーの本を読むのは初めて。これは森山さんにオススメいただいた本です。この本に収められた「東方の国」が私好みじゃないかとのことだったんで早速探してみたら... いや、もうほんと好みでした! 森山さん、私の好みがよく分かってらっしゃるわー。
この本は3部構成になっていて、第1部には上にあらすじを書いた中編「アウグスト・エッシェンブルク」が、2部と3部は短編が3作ずつ収められてます。第2部の3作に関しては、雰囲気ががらっと変わってしまって驚いたんですけど、これは訳者あとがきによると「ミルハウザーとしては比較的珍しいタイプの作品」とのことなので、まあいいとして。(これも決して悪くはないんですが)1部と3部はほんと良かったです。特に「アウグスト・エッシェンブルク」と、最後の「東方の国」。素晴らしい。
「アウグスト・エッシェンブルク」は、なぜかとても懐かしく感じられる物語。かつて好きだった物や憧れていた場所、既に忘れかけていた懐かしい情景を集めてきて物語の形にしたら、こんな感じになるのでしょうか。これは19世紀後半のドイツを舞台に、天才的な自動人形の作り手・アウグスト・エッシェンブルクを描く物語。12歳のアウグストがまず動く絵に、14歳で自動人形に魅せられる場面の懐かしい空気ったら。アウグストの作る自動人形が百貨店のウィンドウに置かれている場面のどれも素晴らしいことったら。当時のヨーロッパの文化の持つ濃厚な美しさや豊かさが伝わって来るようです。そして後にアウグストの作り上げる自動人形の舞台の美しく哀しいことったら。もう胸をぎゅーっと鷲掴みにされ続けてました。この物語自体が、アウグストの自動人形の舞台を見ているような作品。きっとミルハウザー自身が、アウグストのような職人的な作家なのでしょうね。
そして最後の「東方の国」は、まるでイタロ・カルヴィーノの「見えない都市」のような幻想的な物語。最初に本を手にした時にこの「東方の国」を開いたら、もう目が釘付けになってしまって... 見た途端に好きだと分かるのもすごいなあと思うんですが、その予感通りの作品でした。こういうの、ほんと好き!

あわせてオススメされた「バーナム博物館」も読まなくちゃ。それにしても白水uブックスってほんと外れがないなあ。少しずつ読んでいこうっと。(白水uブックス)


+既読のスティーヴン・ミルハウザー作品の感想+
「イン・ザ・ペニー・アーケード」スティーヴン・ミルハウザー
「バーナム博物館」スティーヴン・ミルハウザー
「三つの小さな王国」スティーヴン・ミルハウザー

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派遣使として訪れた都市のことをフビライ汗に語り聞かせるマルコ・ポーロ。最初は東方の言葉にはまるで無知で、身振り手振りで伝えることしかできなかったマルコ・ポーロも、徐々に韃靼人や周辺の諸民族の言葉に慣れ親しみ、いつしか精緻詳細をきわめる報告をするようになっていたのです... 「東方見聞録」のマルコ・ポーロがフビライ汗に架空の都市のことを語るという趣向の作品。8章に分かれて55の架空の都市のことが語られていて、各章の最初と最後にマルコ・ポーロとフビライ汗の会話があります。

これが「見えない都市」という題名なんですけど、見えないどころか、文字を追うごとにそれぞれの都市の情景が頭の中に次々に鮮明に浮かび上がっていくようで、その濃密さに息苦しくなってしまいそうなほどなんです。すごいですね、これは。でも読み始めてすぐに一体いつの時代の都市のことなのかと考えさせれることになります。一昔前の華やかな都市を思わせる描写の中に登場するのはアルミニウムづくりの塔であったり、摩天楼であったり、整備された上下水道だったり... 海をゆく交通手段といえばまず帆船だった大航海時代に、蒸気船や飛行船、地底列車が。それぞれの都市の姿もすごくユニーク。高い柱の上にそそり立つ都市であったり、奈落の底の上に宙吊りになっている都市であったり、壁も床も天井もなく水道管だけが縦横無尽に張り巡らされている都市であったり。人間同士の様々な関係をより堅固にするために戸口から戸口へと糸を張り渡していき、通り抜けられないほど張り巡らされると、その都市を捨ててまた別の場所に都市を再建することを繰り返していたり。
そのまま物語が生まれてきそうな都市も多いんですけど、読んでいるとなんだか既に世界は終わってしまっていて、どこかからその亡霊のような残像を眺めてるような気がしてきます...。

でも、こんな感じで情景が立ち上がってくる作品は大好きだし、今回はそれだけで面白く読んでしまったんですが、本当はこれらの都市の描写を通して、様々なことが語られているんですよね、きっと。マルコ・ポーロとフビライ汗の会話もとても暗示的だし。...この会話がまたすごくいいんです。時間を置いてもう一度読み返したら、その時はまた全然違うものが見えてきそうな気がします。まるで詩のような物語。(河出文庫)


+既読のイタロ・カルヴィーノ作品の感想+
「宿命の交わる城」イタロ・カルヴィーノ
「不在の騎士」イタロ・カルヴィーノ
「レ・コスミコミケ」イタロ・カルヴィーノ
「なぜ古典を読むのか」イタロ・カルヴィーノ
「まっぷたつの子爵」「木のぼり男爵」イタロ・カルヴィーノ
「イタリア民話集」上下 カルヴィーノ
「魔法の庭」イタロ・カルヴィーノ
「見えない都市」イタロ・カルヴィーノ
「マルコヴァルドさんの四季」カルヴィーノ
「冬の夜ひとりの旅人が」イタロ・カルヴィーノ
「柔かい月」イタロ・カルヴィーノ
「カルヴィーノの文学講義」イタロ・カルヴィーノ
「パロマー」カルヴィーノ
「くもの巣の小道」イタロ・カルヴィーノ
「むずかしい愛」カルヴィーノ

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カルヴィーノの比較的初期の作品だという11編を収めた短編集。
青い空に白い雲、明るい陽射し、光を照り返す海の水... 読んでると眩しくて目を細めてしまいそうな情景がどんどん広がる短編集なんですけど、でもどこか影が付きまとうんですよね。「蟹だらけの船」で子供たちが遊び場にしてるのは、戦争中にドイツ軍が沈めた船。「不実の村」で逃げているのは、パルチザンの青年。「小道の恐怖」に描かれているのは、駐屯隊から駐屯隊へと走る伝令・ビンダ。「動物たちの森」は、パルチザン狩りに来るドイツ兵の物語。どこか戦争の影が見え隠れしていて... これは、未読なんですが「くもの巣の小道 パルチザンあるいは落伍者たちをめぐる寓話」に近いのかな? 
私が気に入ったのは、寓話的な「動物たちの森」。ドイツ兵がパルチザン狩りに来ると、パルチザンたちは自分の大切な物を持って森の中に逃げるんですけど、この森の中がまるで魔女の森みたいなんですよねえ。現実のような非現実のような、このバランスがすごく好き。あと、いい年をした大人が揃いも揃ってお菓子を食べることに夢中になっちゃう「菓子泥棒」も滑稽で楽しかったし~。そして美しい庭園の中で遊んでいる少年と少女の姿はとても微笑ましいはずなのに、どこか不穏なものを感じて落ち着かない気分になってくる「魔法の庭」も印象深い作品でした。(ちくま文庫)


+既読のイタロ・カルヴィーノ作品の感想+
「宿命の交わる城」イタロ・カルヴィーノ
「不在の騎士」イタロ・カルヴィーノ
「レ・コスミコミケ」イタロ・カルヴィーノ
「なぜ古典を読むのか」イタロ・カルヴィーノ
「まっぷたつの子爵」「木のぼり男爵」イタロ・カルヴィーノ
「イタリア民話集」上下 カルヴィーノ
「魔法の庭」イタロ・カルヴィーノ
「見えない都市」イタロ・カルヴィーノ
「マルコヴァルドさんの四季」カルヴィーノ
「冬の夜ひとりの旅人が」イタロ・カルヴィーノ
「柔かい月」イタロ・カルヴィーノ
「カルヴィーノの文学講義」イタロ・カルヴィーノ
「パロマー」カルヴィーノ
「くもの巣の小道」イタロ・カルヴィーノ
「むずかしい愛」カルヴィーノ

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先日「アイスランドサガ」に入っている「ヴォルスンガサガ」を読んだところなので、この2冊が目についたのは、私の中ではとってもタイムリー。ジークフリート伝説に関しては「エッダ」(感想)「ヴォルスンガサガ」(感想)「ニーベルンゲンの歌」(感想)「ニーベルングの指環」(感想)と読んできたわけなんですが、その4つの作品、大きな流れは同じでも、細かい部分ではかなりの相違点があるんです。ジークフリートの設定からして、孤児だったり王子だったりと様々。この4作の中ではワーグナーの「ニーベルングの指環」だけ成立年代がかなり離れているし、これに関してはワーグナーの創作ということで構わないんですが... 他のものに関しては、どれが原型がどんな風に変化していったのかとか全然知らなかったんですよね。でもこの2冊を読んですごーくよく分かりましたよ。「ニーベルングの歌」の前半と後半ではクリエムヒルトとハゲネの造形があまりに違うのも以前から気になってたんですが、そのわけも分かりました。そもそも「ブリュンヒルト伝説」と「ブルグンド伝説」という2つの伝説があって、それが合わさって前編と後編となってたんですね。2つの違う伝説が合体させられてしまったのなら、雰囲気が変わってしまったわけもよく分かります。しかも「ティードレクス・サガ」だなんて、まだ私が読んでないシグルズ伝説のサガがあったようで!
この本を読むと、元となったジークフリート絡みの伝説やその内容、その伝説が広がって変化していき、「ニーベルンゲンの歌」ができ、他の作品ができていく様子がよく分かります。そしてそれらを土台にして書かれることになった沢山の戯曲のことも。
2冊続けて読んでしまって、しかもすぐに感想を書かなかったので、どちらがどうだったか分からなくなってしまったんですけど... 重複してる箇所も結構ありますしね。でも全体的には「『ニーベルンゲンの歌』を読む」の方が良かったかな。「ジークフリート伝説」には北欧のエッダやサガが取り上げられているところが、私にとってはポイントが高かったんですが、「『ニーベルンゲンの歌』を読む」の方が、「ニーベルンゲンの歌」や「ニーベルングの指環」について詳細なんです。作品の構造や解釈について色々と新しい発見があったし、より理解が深まったような気がします。(講談社学術文庫)

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秋の山で湿原に広がった真っ赤なこけのじゅうたんに足を踏み入れた「わたし」は、その美しい景色に見とれているうちに、すっかり道に迷ってしまいます。そして一番高いところから見極めようと山道を登り始めた「わたし」が見つけたのは、コタと呼ばれる、白いトナカイの皮で作ったサーメ人の小屋。その中には焚き火が燃えており、今はもういない魔術師ツォラオアイビの魔法のたいこが置かれていました。そのたいこは100年に一度、運よくコタを見つけた人にだけ、ツォラオアイビが残していった物語を聞かせてくれるのです。

ラップランドでトナカイの放牧をしてきた先住民族・サーメ人に語り伝えられてきた12編の物語。
これがもうとにかく美しい! 北極圏の厳しい自然の中で暮らす人々が語り伝えてきたのは、やはり自然にまつわる物語が中心なんでしょうね。この世に白夜ができたことや、オーロラの始まり、タビネズミ(レミング)の行進、花の中に太陽の光をたくわえて金色に熟すヒラという野イチゴ、深い緑色の目と砂金のように光る髪を持つ地の精... 山の風は、ヨイク(サーメ人特有の歌)が胸に溢れている青年が歌う声だし、初めは銀色だった花びらが赤く変わり、そして濃い青紫色になるきんぽうげの花は、美しい少女が変わったもの。白樺の木は、無理矢理な結婚から逃げ出した恋人たち。そして飼っていた銀の角を持つ真っ白なトナカイがいなくなり、魔術師のツォラオアイビも姿を消してしまったこと。
読んでいると鮮やかな色彩が浮かび上がってくるような、情景が印象的な物語ばかりなんです。生き生きとした夏も素敵なんですが、それ以上に冬の静謐な美しさが印象的で。

1つ紹介すると、「青い胸のコマドリ」は、どのようにして白夜の夏や闇に覆われる冬ができたのかが描かれる物語。
最初は光の精ツォブガが世界の南半分を、闇の精カーモスが北半分を治めていたんですが、ある時、1羽のコマドリが道に迷ってカーモスの闇に閉ざされた雪と氷の世界に入り込んでしまうんですね。そしてようやく見つけた陸地で6つの卵を産むんですけど、このままだと卵も自分も凍え死んでしまう... と、必死でツォブガに訴えるんです。そしてツォブガとカーモスの争いがあり、最終的には1年の半分をツォブガが、1年の半分をカーモスが治めるようになります。

そこでツォブガはカーモスのマントをめがけて力いっぱい熱い息を吹き付けました。火花のようないきおいでした。たちまち地平線のあたりでカーモスのマントが青い煙を上げてくすぶり、見る見るうちに炎をあげて燃え始め、東の空が金色や赤にそまってかがやきました。これが朝焼けの始まりです。

やがて秋がしのびよってきました。マントをつくろい終えたカーモスが、地平線のあたりからラップランドのようすをうかがっています。カーモスは黒い胸にたっぷりつめこんできた冷気を、今こそとばかりに力いっぱいあたりに吹きつけました。ツォブガも必死でたたかい赤い炎を吹きつけたので、カーモスのマントのすそがまた燃え始めました。西の空と地のさかいに現れる夕焼けは、こうして始まったのです。

いずれにせよ燃えるのはカーモスの黒いマント。花が咲き乱れ小鳥がさえずる青い空の世界を守ってるのはツォブガの白いつばさなんですけど、こちらは無事だというのが面白いなあ。(春風社)

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副題はトルストイ民話集。この2冊で全部で14編の物語が収められています。
どれも読んだことがある話なので、子供の頃に岩波少年文庫で読んでいたものと、入ってる話は同じなのかな? 岩波少年文庫版が手元にないので、比べられないのがもどかしいー。そして比べられなくてもどかしいといえば、訳もなんですよね。岩波文庫版は中村白葉訳、岩波少年文庫版は金子幸彦訳と訳者さんが違うので、岩波少年文庫の方は子供用に平易な訳となっているのかもしれないんですが、伝わってくるものは全く同じ。トルストイほどの文章になると、ロシア語→日本語なんて壁も既に壁じゃなくなってしまうのかしら、なんてふと思ってみたり。でもこの「イワンのばか」以下15編はトルストイ晩年の作品で、その頃のトルストイは、一般の民衆がきちんと理解できるように簡潔で平易な表現で書かれるべきだと考えていたようなので、日本語に直しても読み手に伝わりやすいのかもしれないですね。

内容的にはとてもキリスト教色が強いです。特に「人はなんで生きるか」の表題作とここに収められている「愛のあるところに神あり」「二老人」。「イワンのばか」も基本的にキリスト教色が強いんですけど、こちらに収められている作品は民話色も強いのです。「人はなんで生きるか」の方は、もっと純粋にキリスト教に近づいているような印象があります。キリスト教色が強いとは言っても、ロシアの話なのでイギリスやフランスの作品とはまた少し違う雰囲気だし、どことなく異教的な純粋さがあるような気がして結構好きなんですが。
他のたとえば「アンナ・カレーニナ」みたいな作品もいいんですが、私はこちらの方がずっと好き。芸術は宗教的なものを土台に持つべきだ、なんてことは思わないけど(トルストイはそういうことも言っていたらしい)、一般の民衆によく理解されるために簡潔で平易な表現で書かれるべきだという部分はその通りだと思いますね。私なんかからすれば、小難しい文章を書く人よりも、読み進めるにつれてすんなりと頭に入ってくるような文章が書ける人の方が頭がいいように思ってしまうんですけど、どうなんでしょう。誰にでも理解できるように表現できる方がずっと大切だと思うんですが... って、私の理解力ではあんまり難しいものは理解しきれないというのもあるんですけどねー。(笑)(岩波文庫)

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主人が事故に遭ったと医者を呼んだ妻。しかし医者がその寝室に入った時、その家の主人の頭には斧がめり込んでいて、既に死亡していたのです... という「斧」他、全26編。短ければ2ページ、一番長くても19ページ、大抵は4~5ページの作品を集めたショートショート集。

アゴタ・クリストフらしい、余計な装飾を一切そぎ落としたような文章の作品ばかりの作品集。内容的には結構ブラックでびっくりです。最初の「斧」を読んでいたら、ロアルド・ダールの「あなたに似た人」を思い出しちゃいました。でも全体的には、あそこまで突き抜けたブラックさではないかな。重苦しい空気の中で孤独や絶望感に苛まれつつも、そういった感情があまりに身近な日常になりすぎてしまって、それを孤独や絶望とは感じていないような感じ。
これらの作品は、1970年代から1990年代前半にかけてのアゴタ・クリストフのノートや書付けの中に埋もれていた習作のたぐいで、編集者が発掘して1冊に纏めたのだそう。習作だけあって、確かにそれぞれの作品の出来栄えにはちょっとばらつきがあるみたい。「悪童日記」のインパクトには、やっぱり及ばないですしね。それでも4~5ページという短さでこれほどの存在感があるというのが、やっぱり驚き。むしろ短い作品の方がインパクトが強くて面白かったです。(ハヤカワepi文庫)


+既読のアゴタ・クリストフ作品の感想+
「悪童日記」アゴタ・クリストフ
「ふたりの証拠」「第三の証拠」アゴタ・クリストフ
「昨日」アゴタ・クリストフ
「文盲 アゴタ・クリストフ自伝」アゴタ・クリストフ
「どちらでもいい」アゴタ・クリストフ

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李白に引き続きの「ビギナーズ・クラシックス中国の古典」。老荘思想には以前からちょっと興味があったので読んでみたんですが、孔子の「論語」を読んだ時みたいには楽しめなかったなあ。老子はなんだか抽象的なことばかり言ってるし... 実際、彼の説く「道」というのは簡単に言葉にできるようなものではないとのことなので、それも致し方ないんでしょうけど、読んでいても大きすぎるというか、深遠すぎてなかなか響いて来なかったです。それに比べると荘子の方がもうちょっと地上の人間に近い感じかな。具体的な分、分かりやすいですね。
このシリーズは、あと「 韓非子」と「 杜甫」があるんですが、そちらは未購入。せっかくだし、やっぱりこの2冊も買っておいた方がいいかしら。「韓非子」は、また読むのにちょっと苦労しそうかな? やっぱり「 杜甫」だけにしておくかなあ。(角川ソフィア文庫)


+関連シリーズ作品の感想+
「論語 ビギナーズ・クラシックス中国の古典」加地伸行
「陶淵明 ビギナーズ・クラシックス中国の古典」釜谷武志
「李白 ビギナーズ・クラシックス中国の古典」筧久美子
「老子・荘子 ビギナーズ・クラシックス中国の古典」野村茂夫
「紫式部日記 ビギナーズ・クラシックス日本の古典」紫式部・山本淳子編

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古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスによる、ギリシア諸都市とペルシア帝国の争いの歴史。前5世紀、ついにペルシア帝国が大軍を擁してギリシアに攻め入ったペルシア戦争、そして当時存在した様々な国々の紹介。ヘロドトス自身が各地を歩き回って聞き集めた説話や風土習俗を元に書き上げたものであり、ヨーロッパにおける最も古い歴史書とも言われている作品。元々は全9巻として書かれており、それがこの文庫1冊に3巻ずつ収められています。

基本的には、ペルシア戦争と呼ばれるアケメネス朝ペルシア帝国のギリシア遠征の原因から結果までが描かれているし、ペルシア戦争に関する貴重な資料でもあるそうなんですが... 実際、サラミスの海戦のことなんかもすごく面白いんですが、それ以外のことも色々書かれてるんですよね。そちらの方が私にとっては楽しかったかも。たとえばアルゴー船の遠征でのイアソンと王女メディアのこととか、ペルセウスとアンドロメダのこと、トロイアのパリスがヘレネを奪って始まったトロイア戦争のことなどが、神話ではなく、歴史的な出来事として書かれているのが面白かったし~。ギリシアやペルシア周辺諸国のことが色々と詳しく説明されているんですが、その中でも特に2巻で触れられているエジプトの風物や宗教、その地理的な話もすごく面白かったです。ミイラの作り方とか、そのミイラの松竹梅的な値段による違いとか。(笑)
ヘロドトスが自分が聞いた話を紹介するというスタンスで、自分はこう考える、自分はこの意見を信じるけれど、読者がどの意見に納得するかは読者次第、というのも良かったです。ただ、ギリシアとペルシアはもちろんのこと、アフリカからインドまでものすごく沢山の国が登場するし、それに伴って人名もものすごく沢山! 到底覚え切れなくて、それだけは大変でした。(岩波文庫)

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大夜会に出席するためにめかしこんだアデルファン伯爵は数年来の友人・セラフィーニョと共にタンポポ男爵夫人の屋敷へ。しかしタンポポ男爵夫人に無視されてめ怒り始めたセラフィーニョを連れて入り込んだ小部屋の中で、アデルファンはズボンのポケットに入れておいたバルバランが何者かに盗られてしまったのに気づいて... という「アンダンの騒乱」。
21歳の誕生日を迎え、邸宅でどんちゃん騒ぎを開くことにした少佐。段取りは全てアンティオッシュ・タンブルタンブルに一任され、沢山の飲み物や食べ物、そしてレコードが用意されます。そのパーティで少佐はジザニイと出会い、彼のアヴァンチュールが始まることに... という「ヴェルコカンとプランクトン」。

以前からボリス・ヴィアン全集を読もうと思っていて、ようやく読み始めたんですが... うわー、よく分かりませんでした! どちらもとにかく自由に書かれたという印象。特に「アンダンの騒乱」はヴィアンの処女作品なんですが、謎の「バルバラン」が結局何だったのかも分からず仕舞いだったし、何を書きたかったのかもよく分からないまま... 主人公かと思っていた人物も実はそうじゃなかったようですしね。気がついたら全然違う話になっちゃってました。でもそれがイヤな感じというわけじゃなくて、むしろこれがボリス・ヴィアンなんだろうなあ~といった感じ。こんなにのびのびと書いてるっていうのは(少なくとものびのびと書いてるように見えます)、実はやっぱりすごいことなのかも...。それでも「日々の泡」や「心臓抜き」のような、きちんと物語が展開していく作品の方が読んでいて面白いし、読み応えもあるんですけどね。こちらはまだ登場人物を作者が好きなように動かして遊んでいるという感じだし。言葉遊びも沢山あるでしょうし、笑いどころも実は多そう。でも日本語訳からは言葉遊びは分からないし、笑うほどの余裕はありませんでした、私。まだまだ修行不足かも。(笑)
続けざまに読むのはしんどそうなので、全集にはぼちぼちと手をつけていきます。


+既読のボリス・ヴィアン作品の感想+
「日々の泡」ボリス・ヴィアン
「心臓抜き」ボリス・ヴィアン
「アンダンの騒乱」「ヴェルコカンとプランクトン」ボリス・ヴィアン

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伝えられるところによると、その昔、サンダリング・フラッド(引き裂く川)と呼ばれる大河が大地を分断し、その上流の渓谷地方の東側にウエザメルと呼ばれる農場には両親を早くに亡くし、祖父母に育てられた強く頑丈な少年・オズバーンが住んでいました。オズバーンは生まれながらの詩人であり、しかもわずか12歳の時に羊の群れを襲った狼3匹を殺して、少年闘士としてその近隣では有名な存在となります。そんなオズバーンがエルフヒルドという名の同じ年頃の乙女と出会ったのは、彼が13歳になったばかりの頃のこと。しかしエルフヒルドはサンダリング・フラッドの西側の鹿の森の丘に住んでおり、2人は川越しに様々なことを語り合うものの、川は空を飛ぶ鳥以外の生き物に流れを横切ることを決して許しはしなかったのです。

北欧文学に強く影響を受けて書いたといわれる、ウィリアム・モリスの遺作。
確かに北欧文学の影響を受けているだけあって、まるでサガのような雰囲気を持つ作品。物語全体としてはオズバーンのサガで、オズバーン自身の成長物語と、オズバーンを始めとする男たちの勇壮な戦いが中心。そしてその中に、美しいエルフヒルドとの恋物語も描きこまれているという形。このロマンス自体は中世のイギリス文学にも見られるようなものなんですが、キリスト教圏というよりも北欧圏らしく、若い2人の思いがとてもストレートに描かれてます。
でも、とっても素敵な物語になる可能性が高い作品だったと思うんですが... 日本語訳がどうもとても読みにくくて話になかなか入り込めなかったこと、物語そのものにも推敲されきっていない、あまり整理されていない部分が目についてしまうのが残念でした。途中、エルフヒルドが行方不明になって、そこからはオズバーンの戦いばかりがクローズアップされることになるんですけど、この辺りが少々長すぎて冗長に感じられてしまいましたしね...。しかもオズバーンとエルフヒルドのやっとの再会も、盛り上がり不足。失踪していた間のエルフヒルドの物語を老婆が1人で全て語ってしまうというのも、その大きな要因かな。モリス自身が筆を取ったのではなくて、病床で口述筆記をしたそうなので、ある程度は仕方ないと思うんですけどね。
この老婆や2人に贈り物をする小人、そしてスティールヘッドなどの人物についても、最後に明かしてもっと盛り上げて欲しかったところです。モリスにもっと時間があれば良かったのに、残念!(平凡社ライブラリー)


+既読のウィリアム・モリス作品の感想+
「世界のはての泉」上下 ウィリアム・モリス
「理想の書物」ウィリアム・モリス
「輝く平原の物語」ウィリアム・モリス
「ジョン・ボールの夢」ウィリアム・モリス
「ユートピアだより」ウィリアム・モリス
「不思議なみずうみの島々」上下 ウィリアム・モリス
「世界のかなたの森」ウィリアム・モリス
「サンダリング・フラッド」ウィリアム・モリス
「アイスランドへの旅」ウィリアム・モリス

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2001年夏。サンフランシスコに暮らすアミールは、パキスタンにいる古い友人のラヒム・ハーンからの電話を受けます。それは「もう一度やり直す道がある」から会いに来て欲しいという電話。その電話を受けながら、アミールの心は26年前の1975年、12歳の冬にとんでいました。アミールが今の自分となったのは、その12歳の冬の日のこと。事業家で、カブールでも屈指の金持ちだった父親のババ、ハザラ人の召使でありながら、ババの兄弟同然だったアリ、そしてアリの息子で当時アミールと兄弟同然に育っていたハッサンのこと...。

アフガニスタンが舞台という、なかなか珍しい作品。私自身はアフガニスタンについて何も知らなくて... そもそも国の場所自体ちょっと勘違いしてましたしね。もう少し東寄り、インドの隣辺りにあるのかと思い込んでたんですけど、イランとパキスタンの間だったんですね。で、読む前は、こんな状態で大丈夫かしらとちょっと心配だったんですが... そんな必要な知識すら持っていない私にとっても、すごく入りやすい作品でした。
物語自体は、まだまだ平和だった主人公の少年時代から始まっています。主人公が18歳ぐらいの時にクーデターが起きるまでは、アフガニスタンもとても長閑な場所。もちろん平和な中にも色々な問題はあるし、子供時代の主人公が直面しているのはハザラ人に対する民主差別。どの時代であっても、どこの国であっても、子供たちって本当に残酷...。ハザラ人のハッサンの、主人公アミールに対する真っ直ぐな思いが痛々しいです。そしてほんのちょっとの弱さが原因で、ハッサンに対して一生消えない負い目を感じることになってしまうアミールの純粋さも。本来ならハザラ人の召使をどのように扱おうが、誰にも何も言われないんですけどね。そこでこんな思いをしてしまうからこそのアミールとも言えるんですが。
クーデターが起きてからのアフガニスタンは、坂を転げ落ちるように酷い状態になっていきます。後半のタリバン政権下のアフガニスタンの状態には、色々考えさせられてしまうし、読んでいてとてもツライのだけど... やっぱりこれはアミールとハッサンの友情の物語なんですよね。良かったです。(ハヤカワepi文庫)

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デヴィッド・ラウリーは、2度の離婚歴のある52歳の大学教授。性的欲望は人一倍強いものの、これまではかなり上手く処理してきたつもり。しかし週に1度会っていた娼婦と会えなくなったのがきっかけで、大学の20歳の教え子に強烈に惹かれ、半ば強引に肉体関係を持つことに。ところが彼女にはたちの悪いボーイフレンドがいたのです。デヴィッドはセクハラで告発されて、追われるように大学を去ることになります。そして、しばらく娘のルーシーが経営する農園に身を寄せるのですが...。

J.M.クッツェーという人は全然知らなかったんですが、ノーベル文学賞を受賞した作家だったんですね。そのクッツェーが2度目のブッカー賞を受賞したという作品。
大学での描写があんまり自然なので読み始めた時はうっかりしてたんですが、これはアパルトヘイト撤廃後の南アフリカが舞台の作品なんですよね。それがものすごく肝心要というか、それがなければ成り立たない作品。大学という、いわば白人社会の中でぬくぬくと過ごしてきた大学教授も、一歩外に出ればそこはアフリカ。大学では、ちょっとカッコをつけて、セクハラの査問会でも下手な言い訳なんて全然しないで自分の行動に自信を持ってるデヴィッドなんですが、その大学という砦から一歩外に出れば、そこは黒人社会なんです。娘のルーシーの農場に滞在している時に起きた事件や何かで、彼はそのことをイヤと言うほど思い知らされることになります。大学でのセクハラと農場での事件は一見違うものに見えるけれど、実は同じなんですね。強者と弱者の立場が入れ替わっただけ。結局、デヴィッドは徐々に黒人社会に隷属させられている自分に気づくことになるし、その結果、彼好みの「若くて美しい女との関係」とはまるで違う価値感の幸福を手に入れることになるし...
淡々と書いているようでいて、読後感は意外と濃厚な作品でした。そういえば、私が小学校の時の友達に、お父さんの仕事の関係で何年か南アにいたという子がいたんです。その頃のことだから、日本人は名誉白人という立場だったはずだし、彼女の家に遊びに行くと実際、欧米人の家みたいでカルチャーショックを受けたものですが(笑)、それでも色々なことがあったようです。その頃も色々な話を聞かせてくれたんですが... その後私も彼女も引越してしまって、今は音信不通になってしまってるんですよね。仲良かったのになあ。とても残念。(ハヤカワepi文庫)

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アダム・トラスクは、1862年、コネチカット州の農家の1人息子として生まれた少年。しかしコネチカット連隊に召集されていた父・サイラスが帰宅すると、トラスク夫人は夫から戦争から持ち帰った感染症にうつされ、それを苦に自殺。サイラスはすぐに近所に住む農夫の娘に目をとめて再婚し、アダムの1歳年下の弟となるチャールズが生まれます。軍隊を礼賛しているサイラスは、2人の息子に軍隊式の訓練を強要。弟のチャールズは力でも技でもアダムに勝り、軍隊式の訓練も受け入れていましたが、暴力や争いの嫌いなアダムにとって、それは苦痛でしかない習慣。しかし父は2人が成長した時、いかにも軍隊に向いていそうなチャールズではなく、アダムを騎兵隊に送り込んだのです。

ジェームス・ディーン主演で映画にもなってるこの作品なんですが、私は映画も観てなければストーリーも全然知らない状態。なんとこんな大河ドラマだったとはー。ええと、アダム・トラスクとその弟チャールズ、アダムの息子のキャルとアロンという、2世代の4人の男たちが中心となってる物語なんですけど、ジェームズ・ディーンがやってたのは、アダムの息子・キャル役だったみたいですね。話の最初から最後までちゃんと映画化してるかどうかは知りませんが。作中にはスタインベック自身もちらっと登場して、自伝的作品でもあったのか! と、またまたびっくり。

で、この作品で唯一事前の知識として知ってたのは、聖書の創世記のカインとアベルの話をなぞらえてるという部分だったんですが、アダムとアロンが「アベル」で、チャールズとキャルが「カイン」ということなんですね。ということはA(アベル...アダムとアロン)とC(カイン...チャールズとキャル)の対立ということなのか。羊飼いであるアベルの捧げ物は神に受け入れられたのに、農夫であるカインの捧げ物は受け入れられなかったのと同様に、アダムとアロンは父に愛され、チャールズとキャルは父の愛情を感じられなかったという図。
でもこの4人を見てて感じたのは、純粋すぎるアダムやアロンの弱さ。この世が既にエデンの園ではない以上、純粋すぎる人間は生き延びていくことができないってことなんですかねえ。アダムもアロンも万人に愛されるような人間だけど、悪に対する抵抗力が全然ないんです。だから悪そのもののキャシーという1人の女性に滅ぼされちゃう。それに比べて、キャルとチャールズは強いです。自分の中にある悪を持て余して苦しみながらも、生きぬく力は十分持っているんですよね。作中に効果的な嘘のつき方の話が出てきたけど、嘘の中に真実を少し混ぜるだけで、あるいは真実の中に嘘を少し混ぜるだけで、その嘘がすごく強くなるのと同じようなことなんだろうな。
読み始めた時はこんな大河小説とは知らなかったので、一体誰が主役なんだろう?って感じだったんですけど、いやあ、面白かったです。こんなに面白いとは思わなかった。随分前に読んだっきりなのですっかり記憶が薄れてるんだけど、パール・バックの「大地」を思い出しました。4人以外の登場人物もそれぞれ良かったですしね。私が断然気に入ったのは、アダムの家にコックとして雇われる中国人のリー。でも映画にはリーは登場しないんだそうです。勿体ないなー。(ハヤカワepi文庫)

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従男爵のエリオット卿にとっては、自分の美貌と社会的地位がこの世の幸せ。相当な財産も虚栄心の強い彼には足りず、13年前に夫人が亡くなってからというもの財政的に赤字続き。とうとう屋敷を人に貸して、バースに移り住むことを決意します。連れて行くのは、自分の美貌を一番継いでいる29歳の長女・エリザベス。次女のアンは、卿にとっては全く存在感がなく、しかも彼女自身バースが嫌いなこともあって、まずは母代わりの存在だったラッセル夫人の家へ、そして既に嫁いでいる妹のメアリの家へと行くことに。しかし屋敷の借り手となったクロフト提督の夫人は、アンが8年前に婚約していたウェントワース大佐の実の姉。しかも8年ぶりに海外勤務から戻ってきた大佐は、メアリの嫁ぎ先に始終顔を出し、アンに当てつけるかのように2人の令嬢と親しくするのです...。

この作品の主人公は、エリオット卿の次女のアン。美しくて優しくて献身的な女性なんですが、彼女の美貌が父親ではなく母親譲りだったため、父親は彼女に何の関心も示さないんですね。そんな父親の態度を見てか、姉のエリザベスもアンを軽視。そして我侭でプライドばかりが高いメアリは、体調が悪いと言ってはアンを気軽に呼びつけるような妹。そんな気の毒な環境に育ったアンなんですが、母の古い友人のラッセル夫人だけはアンを溺愛しています。だからこそ、8年前にアンが婚約した時、ウェントワース大佐に資産がないことを理由に強固に反対するラッセル夫人に、アンも逆らいきれなかったんですが...。8年ぶりに現れたウェントワース大佐は、既に一生働かなくてもいいだけの資産を手にしていて、しかも非常に感じの良い好男子。娘の婿に相応しい~と思われるような人物になっちゃっています。でもアンに失恋させられたことを未だに許してないみたい。
という話なんですが...
オースティンの作品としては地味な方ですねえ。「マンスフィールド・パーク」も地味だと思ったけど、こちらの方が地味度は上かも。「マンスフィールド・パーク」のファニーよりはアンに華があると思うんですけど、物語としてもそれほど波風は立たないですしね。それに、アンの家族は散々な描かれようなんですが、この作品では他のオースティンの作品ほど登場人物が欠点だらけという感じもなくて、オースティン節とでも言えそうな部分が少し薄い気も。...だからツマラナイというわけじゃないんですけどね。これはこれでやっぱり面白いですし。
読んでいてちょっと驚いたのは、この時代に30歳間近の女性がオールドミス扱いされていないこと。日本でもほんの20年ほど前までは、24歳までに結婚しなかったら「クリスマスケーキ」なんて呼ばれて売れ残り扱いされたはずなんですけど、18世紀のイギリスでは全然そんなことなかったんですねー。27歳のアンも29歳のエリザベスも全然焦ってません。まあ、自分の美貌と家柄に絶大な自信を持ってるエリザベスはそんなものかもしれないですが、周囲も特に何も思っていないみたい。「いずれ、いい人が現れれば」程度。浪費家のお父さんのせいで、それほどの財産は継げなさそうだし、結婚しないからといって仕事に生きるってわけにもいかないはずなんですけどねえ。まあ、親きょうだいが元気なうちは、無理に結婚して苦労するぐらいなら、独身のままでいた方がずっといいのかもしれませんが(笑)、当時の女性が一般的にどんな感じだったのか、もっと知りたくなってきちゃいます。(岩波文庫)


+既読のジェイン・オースティン作品の感想+
「自負と偏見」オースチン
「エマ」上下 ジェイン・オースティン
「分別と多感」ジェイン・オースティン
「マンスフィールド・パーク」ジェイン・オースティン
「ジェイン・オースティンの手紙」ジェイン・オースティン
「説きふせられて」ジェーン・オースティン
「ノーサンガー・アベイ」ジェーン・オースティン

+既読のジェイン・オースティン関連作品の感想+
「ジェイン・オースティンの読書会」カレン・ジョイ・ファウラー

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ウォルターは美しく優しく賢い若者。しかし、お互いに恋に落ちて結婚したはずの美しい妻に裏切られ、富裕な商人である父の船に乗って他国を色々と見て回りたいと考え始めます。船出の前日、波止場で目に入ったのは奇妙な3人組でした。最初の1人は暗褐色のぞっとするような肌色をした小人。次は20歳ほどの花のように美しい、しかし右足のくるぶしに鉄の環をはめた乙女、そして最後は、背が高く威厳に満ちた、あまりの美しさでじっと見つめることができないような貴婦人。ウォルターは故郷を後にした後、再びその3人連れを目にすることになります。

「輝く平原の物語」と同じような、こじんまりとした中編。モリスの晩年である60代の頃に書かれたという作品です。でも「輝く平原の物語」や「不思議なみずうみの島々」のように水を越えて異界へと旅立つのではなくて... こちらの作品でも海を越えてはいるんですけどね。異界への入り口は岩壁の「裂け目」。
この作品を読んでいて一番感じたのは、「ナルニア」のC.S.ルイスへの影響。美しいけれど傲慢な貴婦人は、丁度ナルニア国に出てくる女王・ジェイディスのようだし、この世界の描写とか異界への入り方は、「銀のいす」のイメージ。別にそっくりというわけじゃないし、実際違う部分も多いんだけど、読み始めてそれが頭に一旦浮かんできたら不思議なほどしっくりきて、すっかり頭から離れなくなってしまいましたー。
相変わらずの豊かなイメージ、森の中の瑞々しい描写を楽しめたんですが、純真な乙女のはずの「侍女(メイド)」の狡猾さに驚かされたり、「女王(レイディ)」の最期の呆気なさにはこちらが呆気に取られたり。ウォルターの故郷の話はどうなっちゃったの? 行きて還りし物語ではなかったの? 形式的ではあっても、最後はきちんと閉じてくれる物語の方が好きだし、安心できるんだけどなあ...(笑)

ということで、晶文社のウィリアム・モリス・コレクションを読んできたんですが、「アイスランドへの旅」だけが入手できてなくて読めない状態。これは、アイスランド・サガゆかりの地を訪ねた6週間の旅の紀行文だそうです。私もアイスランド・サガにはものすごく興味があるので、とても読んでみたいのだけど、残念。でも、いずれ読むぞー。(晶文社)


+既読のウィリアム・モリス作品の感想+
「世界のはての泉」上下 ウィリアム・モリス
「理想の書物」ウィリアム・モリス
「輝く平原の物語」ウィリアム・モリス
「ジョン・ボールの夢」ウィリアム・モリス
「ユートピアだより」ウィリアム・モリス
「不思議なみずうみの島々」上下 ウィリアム・モリス
「世界のかなたの森」ウィリアム・モリス
「サンダリング・フラッド」ウィリアム・モリス
「アイスランドへの旅」ウィリアム・モリス

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バーダロンは、幼い頃に魔の森の魔女にさらわれて、奴隷として育てられた少女。日々の忙しい仕事をこなしながら、時間ができると湖や森で過ごしていました。そして17歳になった夏、美しく成長したバーダロンは森のオークの木の下で見知らぬ女性に出会ったのです。鏡を覗いたことのないバーダロンには分からないものの、その女性・ハバンディアはバーダロンに瓜二つ。彼女は森に住む聖女でした。2人はすぐに親しくなり、バーダロンはやがてハバンディアに授かった知恵により、魔女の小船に乗って魔女の元から逃げ出すことになります。

「ジョン・ボールの夢」「ユートピアだより」は、ファンタジーながらも社会主義的思想が色濃く出てた作品なんですが、これは「世界のはての泉」や「輝く平原の物語」系列の中世風ロマンス。やっぱりこういう作品が好きだなあ。話の筋書き云々というより、この世界の雰囲気がほんと好きなんですよね。魔女の元を逃げ出したバーダロンが、「無為豊穣の島」「老若の島」「女王の島」「王の島」「無の島」と魔法の小船で巡る不思議な島々の様子は、まるで「ケルトの古歌『ブランの航海』序説」(感想)にも載っているようなケルトの古い航海譚のよう... そしてたどり着く「探求の城」は、アーサー王物語の世界のよう。ウィリアム・モリスがこの辺りの作品を読んでないとはまず考えられないので、おそらくその辺りを踏まえてるんでしょう。
でも、それ以外には不思議な部分が多々目につきました。まず、バーダロンは魔の森の魔女の元で奴隷として育てられてて、その生活をすごく嫌がってるんですけど、「奴隷」という言葉から想像するような生活ぶりとは思えないんですよね。魔女はバーダロンをたっぷり食べさせてるし、酷く折檻することもないようだし、バーダロンの仕事というのは森の中で生きていくために必要な日々の基本的な仕事みたい。バーダロン自身、かなりの自由時間を持っているようです。もちろん魔女が邪悪で、いずれ邪悪な目的に利用されるだろうというだけでも嫌う理由としては十分なんですけど(自分が幼い頃に母親の元から攫われたというのは、バーダロンにとってさほど重要な問題でないらしい)、その邪悪な目的というのも特に具体例が挙げられてるわけじゃないので、魔女の言いなりに嫁がされる程度のことのように思えるし。(それが嫌な相手だったら、もちろんものすごく嫌なことなんですが) それと、魔女の元から逃げ出してたどり着いた無為豊穣の島で、囚われている3人の貴婦人に出会うんですが、その3人の恋人たちを探して連れて来て助ける約束をするのはいいんですけど... その3人の恋人たちに実際に会えた時に3人が3人ともバーダロンに一目惚れしちゃうんです。最初の2人はそれでも流せる程度なんですけど、一番親切にしてくれた貴婦人の恋人とは決定的に両思い。いくらバーダロンが世間知らずだからって、これはマズイでしょー。しかも城中の男たちが皆揃いも揃ってバーダロンの美貌に心を奪われてしまうんです。神に純潔を誓っているはずの司祭までもが。それをバーダロンは何気に利用してたりして... 美人だったら何でもアリなのかーっ。

基本的には中世来の物語の形式に則ってるのに、そこから意図的に外されたらしい部分もすごく目につく作品。ものすごーく楽しめたし、こういう作品は大好きなんですけど、つきつめて考え始めると不思議な部分もいっぱい。きっと私には読み取りきれてない部分があるんでしょうけど... 誰か解説プリーズ。(晶文社)


+既読のウィリアム・モリス作品の感想+
「世界のはての泉」上下 ウィリアム・モリス
「理想の書物」ウィリアム・モリス
「輝く平原の物語」ウィリアム・モリス
「ジョン・ボールの夢」ウィリアム・モリス
「ユートピアだより」ウィリアム・モリス
「不思議なみずうみの島々」上下 ウィリアム・モリス
「世界のかなたの森」ウィリアム・モリス
「サンダリング・フラッド」ウィリアム・モリス
「アイスランドへの旅」ウィリアム・モリス

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ある初冬の晩、社会主義同盟の集まりから帰ってきた「私」は、家についた途端ベッドに転がり込んで、すぐに寝入ってしまいます。しかし翌朝、すっかり日が高くなってから目が覚め、服を着替えて外に出てみると、そこは6月上旬のようなうららかな美しい朝。空気が心地よく、そよ風が気持ち良いのです。なかなか眠気が去らないせいだと考えた「私」はテムズ川で泳ぐことを思い立ち、いつの間にか家の真正面にできていた浮桟橋から舟に乗り込むことに。しかし水の中から見た川岸の光景はいつもとはまるで違っていて、船方の青年も14世紀風の美しい服装をした洗練された紳士だったのです。その船方の青年・ディックと話すうちに、「私」がなんと未来のロンドンにいることが判明して...。

19世紀に生きる主人公が、22世紀の未来にタイムスリップしてしまうという物語。未来のイギリスはまさにユートピア。貨幣制度は既に廃止されていて、人々は生きるために働いているのではなく、自分の楽しみのために、あるいは夜の眠りを心地良くするために働いています。機械によって粗悪品が大量生産されることもなく、美しい手工芸品が喜ばれる世界。生活に追われて嫌な仕事に追われるということもなく、各自がそれぞれに好きな仕事をこなし、必要とする人に必要とする物を供給することによって自然に社会が運営されていくという仕組み。いつか「革命」がおきて、そういった世界が来ることを望んでいた主人公は、自分の生きていた時代から後に一体何が起きたのか、古老たちに聞かずにはいられません。
これはモリスにとっての理想の社会の未来図なんでしょうね。モリスにとって現実の19世紀の世の中がどんなものだったのか、そして彼の持っていた社会主義とはどのような思想だったのか、この作品を読むとよく分かります。でも、あまりに夢物語で... もちろんこの作品の中でもこれは夢物語なんですけど(笑)、ここまでくるとなんだか逆に痛々しくて、読むのがちょっとツラかったかも。
でも、満ち足りた幸せな生活を送っていると、人間の老け方も全然違ってくるというのが面白かったです。主人公はじき56歳という年齢なんですけど、未来の世界では80代ぐらいの老人と思われてるんですね。逆に20歳そこそこだと思った女性が実は40歳を過ぎていたり、がっしりと逞しい初老の男性が実際には90歳ぐらいだと分かったりして、主人公はびっくり。確かに生活に追われてると老けやすいでしょうけど、ここまで極端なのは... でも言いたいことは分かるような。(笑)(晶文社)


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「世界のはての泉」上下 ウィリアム・モリス
「理想の書物」ウィリアム・モリス
「輝く平原の物語」ウィリアム・モリス
「ジョン・ボールの夢」ウィリアム・モリス
「ユートピアだより」ウィリアム・モリス
「不思議なみずうみの島々」上下 ウィリアム・モリス
「世界のかなたの森」ウィリアム・モリス
「サンダリング・フラッド」ウィリアム・モリス
「アイスランドへの旅」ウィリアム・モリス

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様々な問題にいらいらしている時によくみるのは、思いがけない楽しい夢。そんなある晩みたのは、1381年に起きたワット・タイラーの乱の只中にあるケントにいる夢でした。「私」はケントのウィリアム・タイラーという男と親しくなり、ワット・タイラーの指導者の1人となった司祭・ジョン・ボールと語り合うことになったのです。

ウィリアム・モリスは芸術家であるだけでなく社会主義者だったんですが、この作品はモリスが編集者となっていた社会主義同盟の機関紙「コモンウィール」に発表されたもの。それだけに、これまで読んだ中世風ロマンスとはまるで違っていて、社会主義者としてのモリスの一面を強く感じさせる作品でした。仲間と共に会社を設立したモリスは、自ら資本家となることで現実と理想の矛盾を身をもって体験し、社会を変えていかねばならないという使命を感じたのだそう。「社会主義」と聞くと、正直ちょっと引いてしまうところはあるんですが、モリスの理想の世の中というのは、旧ソ連のような社会主義とはまたちょっと違うんですよね。(多分) 
「ジョン・ボールの夢」という題名から、主人公がジョン・ボールになった夢をみたのかと思ったんですが、そうではなくて、ジョン・ボールと出会ったという夢でした。大筋としては、ワット・タイラーの乱の当時のケントの人々を描いたもので、実際、中世当時の田園風景や人々がとても生き生きと描かれているのが魅力的。特に村の酒場・薔薇亭での村人たちと飲み食いしている様子や、ウィリアム・タイラーの家での夕食の様子が素敵です。生命力が満ち溢れてる感じ。でも中心となっているのは、乱の指導者であるジョン・ボールと語らう場面。その場面を通して、モリスは現実の自分が生きている19世紀の世の中を改めて見つめ直しているんですね。
この本の挿絵は、ジョン・ボールが残した言葉として有名な「アダムが耕し、イヴが紡いでいたときに、ジェントルマンなどいただろうか」という言葉をバーン=ジョーンズが絵にしたもの1枚だけ。それがちょっと寂しいかな。(晶文社)


+既読のウィリアム・モリス作品の感想+
「世界のはての泉」上下 ウィリアム・モリス
「理想の書物」ウィリアム・モリス
「輝く平原の物語」ウィリアム・モリス
「ジョン・ボールの夢」ウィリアム・モリス
「ユートピアだより」ウィリアム・モリス
「不思議なみずうみの島々」上下 ウィリアム・モリス
「世界のかなたの森」ウィリアム・モリス
「サンダリング・フラッド」ウィリアム・モリス
「アイスランドへの旅」ウィリアム・モリス

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由緒あるレイヴァン家の息子・ホールブライズが愛しているのは、ローズ家のこよなく美しい乙女・ホスティッジ。2人は夏至の夜に結婚式を挙げることになっていました。しかし春もまだ浅いある日のこと、乙女たちと共に海辺で海草を集めていたホスティッジは、海賊たちに攫われてしまったのです。ホールブライズは早速海辺へと向かい、そこにいた男がホスティッジの行方を知っていると知って、男の船で海賊たちの島へ。そして夢の中に出てきたホスティッジが、既にそこから「輝く平原の国」に向かったと言うのを聞いたホールブライズは、今度はその「輝く平原の国」を目指すことに...。

題名の「輝く平原の国」とは、「不死なるものたちの国」。その国は美しく平和で穏やかで、そこでは老人は若返って再び美しくなり、人々は過去を忘れ、死や老い、苦しみや悲しみを知らずに、喜びの中に幸せに暮らす... という、まさに理想郷。でもホスティッジを探しているホールブライズにとっては、そこは全然理想郷じゃないんですよね。探してるホスティッジが見つからないんですから。でもそれを抜きにしても、この理想郷はやけに胡散臭い...。最初は天国のことなのかなと思ったんですが、「輝く平原の国」の王は全然神様という感じではないし... 王はホスティッジのことなんて何も知らないし知ろうともしないし、それどころか、以前からホールブライズに恋焦がれている自分の娘の願いを叶えてやりたいなんて思ってるんです。全ての人間が幸せに暮らしているこの国で、王の娘だけが幸せではないというのもすごく変だし、他の住人たちが人間らしい感情をすっかり失ってるのも気持ち悪い。幸せに暮らす=人間らしさを失う、ではないはずなのに、みんなで幸せに暮らすために余計な感情を排除させられてしまったみたい。そして唯一まともなために誰からも助けが得られないホールブライズは、ホスティッジを探し続けるために、この理想郷を自力で脱出しなくちゃいけなくなります。
主人公が海を渡って異界へ、というこういった物語の形式に則って書かれているのは分かるのだけど、形式的にもどこか詰めが甘いような気がするし、物語としてもどこか中途半端。以前読んだ「世界のはての泉」の方が形式的にも物語的にもずっと美しかった気がするんですけど... と言いつつ、これはこれで私はすごく好きなんですけどね。ウォルター・クレインによる挿絵がても美しい1冊です。(晶文社)


+既読のウィリアム・モリス作品の感想+
「世界のはての泉」上下 ウィリアム・モリス
「理想の書物」ウィリアム・モリス
「輝く平原の物語」ウィリアム・モリス
「ジョン・ボールの夢」ウィリアム・モリス
「ユートピアだより」ウィリアム・モリス
「不思議なみずうみの島々」上下 ウィリアム・モリス
「世界のかなたの森」ウィリアム・モリス
「サンダリング・フラッド」ウィリアム・モリス
「アイスランドへの旅」ウィリアム・モリス

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「自負と偏見」や「エマ」などの作品群で、一貫して18世紀の上中流(アッパーミドルクラス)の人々を描き続けたジェイン・オースティン。そんなジェイン・オースティンが親しかった姉・キャサンドラなどに送った書簡集。

この本を読むと、ジェイン・オースティンって筆まめだったんだなあと思っちゃうんですけど、これでもかなりの数が失われてしまっているのだそう。姉のキャサンドラは晩年ジェインの手紙を読み返して、人の目に触れて欲しくない手紙を燃やし(姪のキャロラインの回想では「その大部分を燃やし」と表現されているとのこと)、残したものでも不適当と感じた箇所は切り取ってしまったのだそうです。なんてこと! でもその頃はイギリスもヴィクトリア朝に入っていて、すっかりお堅い雰囲気になっていたでしょうしね。ジェインの若い頃(ジョージ3世時代)の自由闊達な雰囲気は既にあまりなかったでしょうし... まあ、気持ちは分からないでもないです。読めないのは残念ですが、残っている手紙だけでも当時の中流階級の人々の日々の暮らしが分かって楽しいんだから良しとしなくては。ちなみに当時の手紙は今の電話のような感覚とありましたが... むしろメール感覚ですかね?

そして一読しての印象は、意外と辛辣なことを書いているということ。特に「綺麗で軽薄な蝶々?」と題された20代の手紙を集めた第1章での

シャーボーンのホール夫人は、予定日の数週間前に死産してしまいました。何かショックを受けたからだということです。うっかり夫の姿を見てしまったのでしょう。

このくだりにビックリ。ひえー、凄いこと言いますね。ここまでキツいブラックユーモアは他の手紙には見当たらなかったので、キャサンドラが燃やしたり切り取ったりした手紙には、こういった類のことが多かったのかも。こういうことを書く人だったのかあ。
作品の中では一貫して「品」にこだわり続けたジェイン・オースティンですが、作中でほとんど全部の登場人物たちの欠点をさらけ出しているように、手紙でも辛辣な人物観察は留まるところを知らなかったようです。そして、ジェイン・オースティンの素顔は、どうやら「マンスフィールド・パーク」のファニーのような、あるいは「分別と多感」の姉のエリナーのようなタイプではなくて、恋をした時はむしろエリナーの妹のマリアンタイプ。「エマ」の主人公・エマような早とちりも多かったんじゃないかしらと思うんですが、一番近いのは、やっぱり「自負と偏見」のエリザベス? この本の前に読んだのが「マンスフィールド・パーク」だったので、どうもそのイメージが強いんですけど、やっぱりあんな地味なタイプではないですよね。(笑) 完全無欠ではないからこその茶目っ気が可愛らしいです。(岩波文庫)


+既読のジェイン・オースティン作品の感想+
「自負と偏見」オースチン
「エマ」上下 ジェイン・オースティン
「分別と多感」ジェイン・オースティン
「マンスフィールド・パーク」ジェイン・オースティン
「ジェイン・オースティンの手紙」ジェイン・オースティン
「説きふせられて」ジェーン・オースティン
「ノーサンガー・アベイ」ジェーン・オースティン

+既読のジェイン・オースティン関連作品の感想+
「ジェイン・オースティンの読書会」カレン・ジョイ・ファウラー

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マライア・ウォードは、その美貌でマンスフィールド・パークのサー・トーマス・バートラムの心を掴んで結婚、準男爵夫人となります。しかしその姉と妹はマライアに劣らぬ美人だったにも関わらず、結婚にはそれほど恵まれず、姉はほとんど財産のないノリス牧師と結婚、妹に到っては教育も財産もない海兵隊の一大尉と結婚して子供が増えるばかりの貧乏生活を送ることに。そして妹に9番目の子供が生まれた時、生活が立ち行かなくなっていた妹一家のために、その時9歳になっていた長女のファニーをサー・トーマスが引き取って育てることになります。

訳者あとがきにもある通り、「自負と偏見」や「エマ」に比べるとすごく生真面目な作品。生真面目というよりも地味といった方が相応しいかもしれません。それはやっぱり主人公のファニーが内気で臆病で、あまり華がないからなんでしょうね。ファニーの良き理解者となる従兄のエドマンドも堅実な性格だし。...あまりにそつがない2人なので、2人が仲良くなるクロフォード兄妹の方が、欠点だらけでも人間的に感じられる人が多いのでは? むしろノリス夫人の徹底した意地悪ぶりの方がリアリティがあるかも? そんな私が一番気に入ったのは、厳格ながらも愛情深いサー・トーマスでした。でも周囲に全然注目されずに、言わば格下扱いされ続けて育ったことが、ファニーの物事を公平に客観的に見る目を育てていきます。彼女が嫌いな男から求婚され、周囲の誰1人としてそれが幸せな結婚と信じて疑わないところなんかは、もっとはっきり言わないと周囲のためにもならないのに!と歯がゆかったんですが、孤立しながらも、恩知らずと思われることを恐れながらも、意思を通そうとする彼女はとても健気。後にファニーのその意思が正しかったことが判明する場面なんかは、溜飲が下がります。
ただ、翻訳がちょっと固めかな... 「エマ」や「分別と多感」の中野康司さんの訳がとても読みやすかったので、ちょっと古く感じられてしまいました。流れに乗ってきたらそれも気にならなくなって、面白く読めたんですけどね。それとこの本を読むまで知らなかったんですが、たとえばサー・トーマスの長男は「ミスター・バートラム」、長女は「ミス・バートラム」と苗字で呼ばれて、次男のエドマンドは「ミスター・エドマンド・バートラム」、次女のジュリアは「ミス・ジュリア・バートラム」と苗字+名前で呼ばれるという慣習があったんですねー。その辺りを全然知らなかったので、ちょっと混乱してしまいました。この辺り、もう少し親切な説明があっても良かったのでは?(中公文庫)


+既読のジェイン・オースティン作品の感想+
「自負と偏見」オースチン
「エマ」上下 ジェイン・オースティン
「分別と多感」ジェイン・オースティン
「マンスフィールド・パーク」ジェイン・オースティン
「ジェイン・オースティンの手紙」ジェイン・オースティン
「説きふせられて」ジェーン・オースティン
「ノーサンガー・アベイ」ジェーン・オースティン

+既読のジェイン・オースティン関連作品の感想+
「ジェイン・オースティンの読書会」カレン・ジョイ・ファウラー

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サセックス州の旧家で大地主のダッシュウッド家の当主は、生涯独身を通すものの、晩年には甥のヘンリー・ダッシュウッド夫婦とその3人の娘たちを呼び寄せて同居し、幸せに過ごします。しかし亡くなる時、ヘンリーたちに全財産を譲るのではなく、一旦ヘンリーに全てを譲るものの、ヘンリーの死後はヘンリーの先妻の息子であるジョン・ダッシュウッドとその4歳の息子・ハリーがその財産を受け継ぐように遺言していたのです。そしてその1年後。ヘンリーが亡くなると、ジョン・ダッシュウッドの妻・ファニーが何の予告もなしに子供と召使を引き連れて屋敷に乗り込んできて、ダッシュウッド夫人と3人の娘はたちまちのうちに居候の立場となってしまいます。

ジェイン・オースティンの初の長編作品。この作品の題名の「分別」はダッシュウッド夫人の長女・エリナーのことで、「多感」は次女・マリアンのこと。ぱっとしないながらも誠実で頭の良い青年・エドワードに恋をする理性的なエリナーと、母娘が屋敷から引っ越した先で出会った情熱的で気品のある美男子・ウィロビーに恋をする情熱的なマリアンの物語です。
エリナーとマリアン姉妹の恋は、始まった当初はどちらも上手くいきそうに思えるんですけど、それで本当に上手くいってしまったら話は終わってしまうわけで(笑)、実際には紆余曲折。邪魔をしようとする人もいるし、それ以上に勝手な憶測で話を進めたり広めたりしようとする人が多くて大変! これじゃあ、上手くいくものも上手くいくはずありません。周りから固めるという手ももちろんありますけど、エリナーとマリアンにとっては大きなお世話。周囲の人に迂闊に触れて欲しくない微妙な時期というのもありますしね。
読んでいて一番思ったのは、よくこれだけ欠点だらけの登場人物を集めたなーということ。恋にのぼせ上がったマリアンは正直見苦しいし、エリナーが惹かれるエドワードはほんとぱっとしないし... ウィロビーも単なるお調子者。マリアンに惹かれるブランドン大佐はせっかく落ち着いた人物のように描かれているのに、華やかな美人であるマリアンに惹かれていること自体、どうなんですかー。他にも下世話だったり、上品ぶってるだけだったり、相手に無関心だったり、退屈だったり、自己中心的だったり、やけにケチだったり、みんなそれぞれに相当辛辣な描き方をされています。そんな中で1人常に冷静なエリナーは、欠点がないというよりも、逆に人間味を感じられない存在だったり...。でもそういった18世紀の人々が実は現代と何も変わりない、というのがまた楽しいんですよねえ。面白かったです。(ちくま文庫)


+既読のジェイン・オースティン作品の感想+
「自負と偏見」オースチン
「エマ」上下 ジェイン・オースティン
「分別と多感」ジェイン・オースティン
「マンスフィールド・パーク」ジェイン・オースティン
「ジェイン・オースティンの手紙」ジェイン・オースティン
「説きふせられて」ジェーン・オースティン
「ノーサンガー・アベイ」ジェーン・オースティン

+既読のジェイン・オースティン関連作品の感想+
「ジェイン・オースティンの読書会」カレン・ジョイ・ファウラー

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プリハドアシュヴァ仙が語り始めたのは、ナラ王とダマヤンティー姫の物語。ニシァダ国のナラ王子は眉目秀麗で逞しく、望ましい美質を全て具えている王子。ヴィダルバ国の珠玉のように麗しく光り輝くダマヤンティー姫のことを耳にするうちに、ダマヤンティー姫に恋をするようになり、金色のハンサ鳥の助けを得て、大インドラ神、アグニ神、ヴァルナ神、ヤマ神らを差し置いて、ダマヤンティー姫と結婚することに。しかしそれを快く思わなかったカリ魔王は、いまや王となったナラ王に取り憑き、賽子賭博によって王権も財産も全て失わせてしまうのです。ナラ王に残ったのは、何も言わずに付き従うダマヤンティー妃のみ。しかし未だカリ魔王に取り憑かれていたナラ王は、森の中でダマヤンティー妃を置き去りにして1人去って行ってしまい...。

古代インドの大叙事詩「マハーバーラタ」の中の一節。ナラ王と同じよう王国喪失を嘆く王子たちに向かって、ブリハドアシュヴァ仙が語ったという物語です。でも基本的に英雄詩である「マハーバーラタ」とは少し趣きが違うところ、ダマヤンティー姫の婿選びの式の場面の描写、シヴァ神、ヴィシュヌ神が登場していないところなどから、「マハーバーラタ」成立以前、紀元前6世紀頃から存在して、後に叙事詩に組み込まれた作品と考えられているようです。...「マハーバーラタ」も通して読みたいんですが、長いので本を揃えるのも大変でなかなか。こうやってちょっとずつ切り崩していこうとは思ってるんですが。(笑)
表向きの主人公はナラ王かもしれませんが、実質はダマヤンティー姫なんでしょうね。カリ魔王のせいで正気を失っているナラ王に捨てられて、身の危険をすんでのところでかわしながら、夫への愛を貫き通して、最後には夫を取り戻す物語。生き生きとしているダマヤンティー姫に比べると、ナラ王は正直あんまり生彩がないようです。いくらハンサムだとか何だとか言っても、ちゃんと行動で示してくれないと伝わってこないですよぅ。そうでなくても、美人だと噂に聞くだけで、まだ顔も見たことのないダマヤンティー姫に恋しちゃうような人なんですから。しかも、求婚するにも鳥に助けてもらってるし! ...でも、相手が美人だとかハンサムだとかいうだけで恋をしてしまうのは、この辺りでは当たり前のことみたいですね。中身はどうでもいいのか、中身は!(岩波文庫)


+インド神話関連作品の感想+
「屍鬼二十五話 インド伝奇集」ソーマデーヴァ
「ラーマーヤナ」上下 ヴァールミーキ
「インド神話 マハーバーラタの神々」上村勝彦
「ラーマーヤナ」ヴァールミーキ
「マハーバーラタ ナラ王物語 ダマヤンティー姫の数奇な生涯」
「バガヴァッド・ギーター」「バガヴァッド・ギーターの世界」上村勝彦

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カッスルは、イギリス情報部に入って30年以上経つベテラン情報員。現在は6課でアフリカ担当として、さほど重要とも思えない極秘電報の暗号を解読したり、逆にこちらから電報を送ったりする日々。かつて南アフリカに勤務していた時に知り合った黒人女性のセイラと結婚し、その息子サムと3人で郊外での生活を送っています。しかしその6課から情報が漏洩していることが発覚。6Aにいるのは課長のワトスンとカッスル、そして40代で働き盛りのデイヴィスのみ。調査の結果ワトスンとカッスルは嫌疑を免れ、デイヴィスが疑われることに。独身でジャガーを乗り回し、年代物のポートワインに目がなく、賭け事もするデイヴィスは、調査をした丁度その日の昼食時にも報告書を持ち出そうとしていたのです。

あまりピンと来ないままに、ハヤカワepi文庫に入っている作品を読み続けていたグレアム・グリーン。著者紹介には「イギリスを代表する作家であるとともに、20世紀のもっとも偉大な作家のひとり」とされてるんですけど... いえ、決して悪くはないんですけど、どこかピンと来なかったんですよね。それはもちろん読み手である私が未熟なせいなんでしょうけど。でもこの作品は面白かった!
この作品は、紛れもないスパイ小説ではあるんですけど、私がこれまでに読んだスパイ小説とは雰囲気が全然違いました。スパイ小説といえば普通、東西の駆け引きあり、裏切りあり、恋愛あり、派手なアクションありの、もっと手に汗を握るサスペンスで、ページターナーって感じの作品が多いと思うんですが、この作品は何ていうか、ものすごく静かなんです。イギリスの冬空のようなイメージ。実際、ジェームズ・ボンドシリーズが作中で何度か皮肉られていたりなんかして。
スパイ物というよりも、ずっしりと重い人間ドラマ。最後に明かされる真相も皮肉です。実際にグレアム・グリーンが第二次大戦中にイギリス情報部の仕事をしていたということもこの作品にリアリティを与えているんでしょうけど... それ以上に、ふとした拍子に垣間見えるキリスト教的な部分が作品に深みを出しているのかも。いやあ、良かったです。(ハヤカワepi文庫)


+既読のグレアム・グリーン作品の感想+
「第三の男」グレアム・グリーン
「おとなしいアメリカ人」グレアム・グリーン
「負けた者がみな貰う」グレアム・グリーン
「権力と栄光」グレアム・グリーン
「事件の核心」「二十一の短篇」グレアム・グリーン
「ブライトン・ロック」グレアム・グリーン
「ヒューマン・ファクター」グレアム・グリーン

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ハイベリー村のハートフィールド屋敷に住む21歳のエマは、父親のウッドハウス氏と2人暮らし。ウッドハウス家はハイベリー村一番の名家で、そこのお嬢様のエマは美人で頭が良くて性格も良くて、しかもお金持ち。しかし最近、16年間ウッドハウス家に住み込んで家庭教師を勤め、エマの姉のような存在だったミス・テイラーがウェストン氏と結婚して家を出てしまい、父親ともども、ちょっぴり寂しい日々を送っていました。そんなある日、エマは1年前にハイベリー村の牧師となったエルトン氏の縁結びをしようと思いつきます。エルトン氏は美男子で、しかも好青年。そもそもミス・テイラーとウェストン氏のことも、エマが仲を取り持ったようなもの。エマは自分が結婚する気のない代わりに、人の縁結びをするのが大好きだったのです。エマはエルトン氏の相手として、近くの寄宿学校に預けられている17歳のハリエットに白羽の矢を当てることに。

「自負と偏見」(感想)を読んで以来の、ジェイン・オースティン作品。この「自負と偏見」もとても面白かったし、カレン・ジョイ・ファウラーの「ジェイン・オースティンの読書会」を読んだ時も(感想)、他のオースティン作品を読みたいと思ったはずなのに、結局そのまま...。いやあ、ようやく読めました! これも「自負と偏見」と同じように田舎の町を舞台にした物語。

主人公のエマは、人も羨む恵まれたお嬢様。でも傍目には欠点なんてまるでなさそうなエマも、まだ21歳。まだまだ世間も人生も知ってるとは言えません。何でも自分の思った通りに物事が進むと思い込んでるんですが、そうそううまくはいかないんですね。(彼女には身分至上主義な面もあるんだけど... これはこの時代ならではのものだから、仕方ないのかな)
本来頭がいいはずのエマも、この作品では他人の気持ちを早とちりしたり勘違いしたり、全然いいところなし。そのままいけば幸せになったはずのハリエットの結婚話をつぶして、彼女の気持ちを牧師のエルトン氏に向けたかと思えば、エルトン氏は実はハリエットなんて眼中になかったことが判明する始末。その後もエマの勘違いとはた迷惑な思い込みは続きます。この辺り、ジェイン・オースティンの書き方にあんまり容赦がないので、可笑しいながらも気の毒になってしまうほどなんですが... でもエマは自分の失敗をきちんと認めて、迷惑をかけた相手に謝ることのできる素直なお嬢さんだから、読んでて憎めないんですよね。困ったちゃんのはずなのに、可愛いんです。それに今の時代にもいかにもいそうな嫌らし~い人たちも登場したりなんかして... いやあ、楽しかったです。「自負と偏見」同様、全然古さを感じさせなくて、いい意味でのクラシックさを感じられる作品でした~。(ちくま文庫)


+既読のジェイン・オースティン作品の感想+
「自負と偏見」オースチン
「エマ」上下 ジェイン・オースティン
「分別と多感」ジェイン・オースティン
「マンスフィールド・パーク」ジェイン・オースティン
「ジェイン・オースティンの手紙」ジェイン・オースティン
「説きふせられて」ジェーン・オースティン
「ノーサンガー・アベイ」ジェーン・オースティン

+既読のジェイン・オースティン関連作品の感想+
「ジェイン・オースティンの読書会」カレン・ジョイ・ファウラー

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漢の大帝国の路から路へさすらいの旅を続けていた老画家汪佛(わんふお)とその弟子の玲は、ある時漢の皇帝の兵士たちに捕らえられ、王宮へと向かうことになるのですが... という「老絵師の行方」他、全9編の短編集。

これもナタリア・ギンズブルグ「ある家族の会話」(感想)と同様に、須賀敦子さんの本を読んで興味を持った本です。
どことなく東洋の香りが漂う短編集。実際に、漢時代の中国を舞台にした「老絵師の行方」や源氏物語を題材に取った「源氏の君の最後の恋」、インドを舞台にした「斬首されたカーリ女神」のように、誰が見ても「東方」だという場所を舞台にした話もあるんですが、バルカン半島もフランス人(ベルギー人?)のユルスナールにとっては「東方」だったのかな... 同じバルカン半島でも、トルコなら分かるんですけど、ギリシャや他の国の話も「東方」に入れられていたのが、ちょっとびっくりでした。でもギリシャはギリシャでも、遥か昔のギリシャ神話の物語に題材を取っていたり、チューリップというトルコ原産の花が重要なモチーフになってたりするせいか、一貫して感じるのはやっぱり「東方」の幻想的な異国情緒でした。民話などに題材を取ってる作品が多いので、独創性という意味ではそれほど発揮されていないのかもしれませんが、どれを読んでもとにかく美しい! 思わず息を呑むような美しい情景が広がります。その中でも特に好きだったのは、上にもあらすじをちらっと書いた「老絵師の行方」。小泉八雲の「果心居士」とかなり共通しているようだし、私自身何かの中国物の本でも読んだことがあるような話なんですが、そちらはそれほど美しくなかったですよぅ。いやあ、これはすごいな。これはユルスナールだけじゃなくて、訳者の多田智満子さんもすごいのだろうけど。
あと驚いたのは、「源氏の君の最後の恋」ですね。まさかこんなところで源氏物語を読むことになるとは...。「訳者として困ったのは、さすがのユルスナールの博識をもってしても日本の固有名詞や官職名にいささか不適切なものがあることで、読者の興をそがぬために、適当に修正したり省略したりしたところもあるが」と解題にあった通り、この作品を訳すには多田智満子さんも結構苦労されたようです。ユルスナール版の「雲隠」、とても興味深い1篇となっていました。私としてはちょっと受け入れがたいものがあったのだけど...。(白水uブックス)


+既読のマルグリット・ユルスナール作品の感想+
「東方綺譚」マルグリット・ユルスナール
「ハドリアヌス帝の回想」マルグリット・ユルスナール

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トリノ大学の医学部教授だったユダヤ系イタリア人・ジュゼッベ・レーヴィと、ミラノ生まれの母リディアの間に、5人きょうだいの末っ子として生まれたナタリア・ギンズブルグ。ムッソリーニの台頭と共に反ファシスト運動に一家全体で巻き込まれ、そのリーダーだったレオーネ・ギンズブルグと結婚、しかし後にその夫をドイツ軍によって殺されることになった、イタリアを代表する女流作家の自伝的作品。

今年の読書1作目は、イタリア文学から。須賀敦子さんの本を読んでいたら、無性に読みたくなった本なんですが、やっぱり面白かった!
前書きにも、何一つフィクションはないと書いてある通りの自伝的な作品... というか、言ってしまえばナタリア・ギンズブルグの家族の話なんです。ごく普通の家族の話なら、まあ面白い話も1つ2つあるでしょうけど、それほどのものではなさそうなところなんですが、これが面白いんですねえ。行儀作法に厳しくて短気で、自分の嗜好を絶対だと信じていて、山やスキーなど自分が好きなものを家族にも強要する父。一見ものすごく横暴なんですけど、どこかピントがずれててなんだか可笑しい人。そして買い物が好きで楽天的で、いつまでも少女のような母。きょうだいは兄が3人に姉が1人で、父譲りで唯一山が好きになった長男のジーノ、文学者肌で常にお洒落なマリオ、母と姉妹のように仲の良い美しいパオラ、まるで勉強しなかったのに、立派な医者になって家族を驚かせるアルベルト、そしてナタリア。1つの家族の話が淡々と描かれてるだけなんですが、その家族の歴史とムッソリーニのファシズムの時代、そして第二次世界大戦の時代が重なることによって、思わぬ重さを見せることになります。ナタリアの家族も反ファシズムの運動家として警察に追われたり、実際に投獄されたり、彼女の夫となるレオーネ・ギンズブルグに至っては獄死してしまうわけなんですが、ことさらに悲壮感があるわけでもなく、家族の絆の強さを強調しているわけでもなく、ましてやファシズムを攻撃することも全くないんです。あくまでも淡々と描かれていきます。でも、すごく雄弁に伝わってくるものがありました。
ただ、肝心なナタリアのことについては、最低限しか触れられてないのが残念。自分のことはあまり書きたくないにしても、もうちょっと、ねえ、という感じ。レオーネ・ギンズブルグと結婚した後のことについては、もちろん触れられてるんですけど、少女時代のナタリアについてもうちょっと読みたかったなあ。(白水uブックス)


+既読の須賀敦子翻訳作品の感想+
「インド夜想曲」アントニオ・タブッキ
「なぜ古典を読むのか」イタロ・カルヴィーノ
「ある家族の会話」ナタリア・ギンズブルグ

+既読の須賀敦子作品の感想+
「トリエステの坂道」須賀敦子
「本に読まれて」須賀敦子
「ヴェネツィアの宿」「コルシア書店の仲間たち」須賀敦子
「こうちゃん」須賀敦子・酒井駒子
「須賀敦子全集1」須賀敦子
「須賀敦子全集2」須賀敦子
「須賀敦子全集3」須賀敦子
「須賀敦子全集4」須賀敦子
「須賀敦子全集5」須賀敦子
「須賀敦子全集6」須賀敦子
「須賀敦子全集7」須賀敦子
「須賀敦子全集8」須賀敦子

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母が亡くなった時に兄のカシスが託されたのは、子供の頃を過ごしたレ・ラヴーズの農園。姉のレーヌ=クロードに託されたのは、地下庫に眠る一財産になりそうなワイン。そして末っ子のフランボワーズが受け継いだのは、母の料理のレシピや様々なメモが書かれた雑記帳1冊とペリゴール産トリュフが1個。母の死から30年、フランボワーズは生まれ故郷の農園をカシスから買い取り、フランソワーズ・シモンという名でそこに住み始めます。本名のフランボワーズ・ダルティジャンを出さなかったのは、この村ではダルティジャンという名が忌まわしいものとされているから。幸い村人たちは誰も現在65歳の女性がかつての女の子であることを思い出さず、じきにフランボワーズが開いたクレープ屋も順調に繁盛します。しかしフランボワーズの料理がある有名シェフの目に留まり、クレープ屋が雑誌で紹介されると、その生活の静けさを破る人間たちが現れて...。

「ショコラ」「ブラックベリー・ワイン」に続く、ジョアン・ハリスの3作目。前2作のようにランスクネ・スー・タンヌという小さな村が登場することはないのだけど、この3作は食にまつわる「食の三部作(フード・トリロジー)」なんだそうです。確かに美味しそうな料理が、これでもかというほどに登場! でも、ものすごーく美味しそうなんだけど、それが明るい光となってるかといえばそうではなく、逆にものすごーく不穏な空気が流れてました。「ショコラ」に登場するチョコレートなんて、あの甘い香りが人々の頑なさを蕩かすって感じだったのに。でも改めて考えてみれば、あの時も不穏な空気は十分漂っていたんだな... 今回ほどにはダークではなかったのだけど。今回特に不吉だったのは、芳しい香りを放つ瑞々しいオレンジ。
物語は、フランボワーズの現在の話と、9歳の少女だった1942年当時の回想によって進んでいきます。その頃に何かとてつもなく不愉快な出来事があったんだろうなというのはすぐに分かるのだけど、それが何なのかなかなか分からなくて、最初はじれったいです。でも母の遺した雑記帳を読み解くうちに、ベールがはがされるように徐々にその出来事が見えてきます。求めている愛情を得られないまま意固地になってしまった子供と、素直に愛情を示すことのできない母。子供ならではの残酷さと浅はかな知恵。そして隠し通さなければならない秘密。
いやあ、面白かった。やっぱりジョアン・ハリスはイイ! ちょっと的外れかもしれないんだけど、やっぱり「食べる」ということは、人間が生きるための基本なんだなあ、なんて思ったりもしました。「1/4のオレンジ5切れ」というこの題名の不安定さがまた、内容にとても合っていていいですねえ。(角川書店)


+既読のジョアン・ハリス作品の感想+
「ブラックベリー・ワイン」ジョアン・ハリス
「1/4のオレンジ5切れ」ジョアン・ハリス
Livreに「ショコラ」の感想があります)

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6週間ぶりに再会した恋人のクラリッサとピクニックに出かけたジョーは、ワインの栓を開けようとしたその時、男の叫び声を耳にして立ち上がります。巨大な灰色の気球が不時着し、かごから半分出かかったパイロットはロープに片足が絡まってひきずられ、かごにはまだ10歳ぐらいの少年が乗っていたのです。思わず助けに走るジョー。同じように駆けつけた何人かの男たちと一緒にロープを掴みます。しかし強風のため、気球は男たちをぶら下げたまま浮かび上がり... やがて男たちは1人また1人とロープから落下。1人が手を放すごとに気球は数フィート浮かび上がり、最後まで残っていたジョン・ローガンが手を放した時、気球は300フィートの上空にいました。ジョン・ローガンは死亡。事故にショックを受けたジョーとクラリッサは家に帰ってからも事故のことを話し続けます。その晩遅くかかってきたのは、気球の事故の時に一緒にかけつけた男たちの中の1人、ジェッド・パリーからの電話。「知ってもらいたいんだ。あなたが何を感じているかぼくには分かる。ぼくも同じことを感じてるから。愛してる」という言葉に、思わずジョーは電話を切るのですが...。

前回読んだ「アムステルダム」は、大人っぽいクールな空気が漂いながらも、あまり起承転結のない作品だったなあという印象があるんですけど、これは全然違うんですね! ひー、怖い。実際には全然ホラーじゃないんですけど、私はこの手の話が苦手なので、そこらのホラーよりもよっぽど怖く感じられてしまいました...。
読み始めた時はてっきり、自分は死にたくないからロープから手を放してしまって、結局最後までロープに掴ってたジョン・ローガンを死なせてしまった罪悪感の話かと思ったんですが(最初にロープから手を放したのは自分じゃなかったって何度も言い訳してるんですもん)、全然そうじゃなくて(笑)、実際にはこの事件をきっかけに妙な男に見初められてしまったという話で、びっくり。相手に愛されていると勝手にかつ強烈に思い込んでしまう、「ド・クレランボー」症候群という妄想症があるんだそうです。そんな相手にストーカーされてしまうだけでも怖いんですけど、どこまでいっても会話は平行線を辿ってる辺りも強烈。ジョーはノイローゼ気味になっちゃうし、それが原因で恋人との仲が内側から崩壊し始めちゃう。いくらジョーにとっては脅威でも、その男はクラリッサには全然接触してないので、彼女にとってみれば多少危ないかもしれなくても特に危険のない相手に過ぎないですしね。本当にそれがジョーが言うように危険な人物なのか、それとも本当はジョーがおかしいのか。本当は科学者になりたかったという微妙なコンプレックスが、ジョーの精神崩壊に生かされてる辺りも巧いなあって思っちゃった。ま、それだけに私としては怖かったんですけどね。面白かったことは面白かったんですけど、読むのがツラかったですー。(新潮文庫)


+既読のイアン・マキューアン作品の感想+
「アムステルダム」イアン・マキューアン
「愛の続き」イアン・マキューアン

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フェヴァーズは、「下町のヴィーナス」とも「綱渡りのヘレン」とも呼ばれる、当代随一の空中ブランコ乗り。「彼女は事実(ファクト)か、それともつくり物(フィクション)か?」というキャッチフレーズで世間の評判になっていました。その晩、ロンドンでの公演を終えたフェヴァーズにインタビューにやって来たのは、アメリカ人の若い新聞記者・ウォルサー。フェヴァーズはインタビューで、自分はトロイのヘレンのように白鳥の卵から孵ったのだと言います。実際、その肩の後ろには途方もなく大きな羽がありました。すっかり彼女とその数奇な物語に魅了されたウォルサーは、フェヴァーズの取材を続けるために彼女の所属するサーカスに道化として入り、巡業に同行することに。

これは「ワイズ・チルドレン」のような、猥雑なショービジネスの世界を舞台にした作品。物語の中心となっているフェヴァーズは、天使のような羽を持ってるんですけど、その実態は天使からは程遠くて... 実は相当の大女だし、言葉は下町訛り。大酒飲みだし下品だし、楽屋には臭いの染み付いた下着やストッキングが散乱。それを若い男性に見られても動じるどころか、逆に相手の反応を見て楽しむ始末。でも彼女の語る生い立ちの話は面白い! 道端に捨てられてるところを売春宿の女性に拾われて、そこで育てられたことや、やがて肩から翼が生えてくると、売春宿では勝利の女神ニケの彫像のように館の中に立つことになったこと。そしてその売春宿がなくなった後は、フリークスが集められた館へ。
第1部の「ロンドン」で語られるのはそんなフェヴァーズのこれまでの人生で、第2部の「ペテルブルク」になると、ウォルサーがフェヴァーズを追ってサーカスに入るので、2人の関係を中心に話が展開すると思ったんですが... どうもちょっと違ったみたい。確かにフェヴァーズは常に中心にいるんですけどね。最後まで読んだ時に浮かび上がってきたのは、様々なフリークスたちの存在。そんな人々の存在がグロテスクでありながらも、幻想的で美しい情景になってました。
でも、「ワイズ・チルドレン」の面白さには及ばなかった気もするのだけど、これもとても良かったです。特に第1部が一番面白かったな。(国書刊行会)


+既読のアンジェラ・カーター作品の感想+
「ワイズ・チルドレン」アンジェラ・カーター
「魔法の玩具店」アンジェラ・カーター
「夜ごとのサーカス」アンジェラ・カーター
「血染めの部屋 大人のための幻想童話」アンジェラ・カーター

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1927年、セントルイスの街で小銭をせびって暮らす悪ガキだった9歳のウォルトは、イェフーディ師匠に誘われて、愛情の全くない伯父夫婦の家を出て、一緒にカンザス行きの汽車に乗ることに。イェフーディ師匠はウォルトには空を飛ぶための天賦の才があるといい、13歳までに必ず飛べるようにしてやると約束したのです。連れて行かれた家にいたのは、歯が2、3本しかない太ったインディアン女のマザー・スーと、体中の骨ががねじれて歪んでいる15歳のせむしの黒人少年・イソップ。なかなか新しい生活を受け入れることのできないウォルトですが、やがて空が飛べるようになるための33の階段を、少しずつ上り始めることに。

日常&読んだ本log のつなさんにオススメ頂いた本。(記事) 私にとってのポール・オースターのデフォルト作品が最初に読んだ「幽霊たち」のせいか、それ以来オースター作品を読む前は妙に緊張してしまうんですけど、これはすごく読みやすくて面白かったです~。今まで読んだ作品みたいなクールな大人視点じゃなくて少年視点で書かれてるし、普通の人間が空を飛ぶなんてファンタジーのようなことが大真面目に書かれてるので、今まで読んだポール・オースター作品とはちょっと違う雰囲気だなあってびっくりしたんですけど、どちらかといえば「ムーン・パレス」系の作品なんですね。
人種差別やKKK団、禁酒法やギャング、大恐慌などの背景をさりげなく絡めて1920年代の雰囲気を出しているところも良かったし、詳細な修行の様子を見ていると、本当に人間は空を飛べるのかも?なんて気になってしまいそう。でも実際に空を飛べるようになって、巡業が成功して名前が知られるようになっても、ウォルトにとってそれはゴールではなかったんですね。ウォルトの人生は飛翔と落下の連続。そして飛翔と落下の連続の人生を歩んでいるのは、ウォルトだけじゃなくて、イェフーディ師匠もマザー・スーも、イソップもなんですよね。こんなことってあり...?(絶句) って感じの展開もあるし、結構キツい部分もあるんですけど、激動の時代の中で何度も人生の岐路に立たされて、再度の方向転換を強いられながらも、最後まで「生き抜いた」ウォルトの人生は、最終的にはどこか爽やか。波乱万丈でありながら、68年にもわたって描いているせいか、どこかゆったりとした印象もあって、まるで古き良きハリウッド映画を見てたみたいな感じ。
こういう作品ばかりだったら、オースターも読みやすいんだけど... でもやっぱりデフォルトが「幽霊たち」のせいか、それでいいのか?と心配になってしまったりもするんですよね。(「ムーンパレス」を読んだ時も似たようなことを思った覚えが...) やっぱりもっと色々読んでみなくてはー。次は「偶然の音楽」かな。
あ、ちなみに終盤でダニエル・クィンなんて人物が登場しました。実は「シティ・オブ・グラス」に繋がっているんですね~。 (新潮文庫)


+既読のポール・オースター作品の感想+
「ムーン・パレス」ポール・オースター
「ミスター・ヴァーティゴ」ポール・オースター
Livreに「シティ・オヴ・グラス」「幽霊たち」の感想があります)

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1957年5月のパリ。フルート奏者のラファエル・ルパージュのアパートを訪れたのは、ドイツからパリにやって来たばかりの20歳のサフィー。ラファエルが新聞に出した家政婦募集の広告を見てやって来たのです。会った途端、ラファエルはサフィーの現実に対する無関心な態度に魅了され、翌6月には2人は結婚。しかし1人息子のエミールが生まれても、サフィーの無関心さには変化がなかったのです。そんなある日、ラファエロのバス・フルートを修理に持って行ったサフィーは、そこで出会った楽器職人のアンドラーシュと突然激しい恋に落ちてしまい...。

第二次世界大戦が終結して12年という、まだまだ戦争の傷の生々しい時代に出会うことになった、3人の男女の物語。
ラファエルは、父親をドイツ人のせいで亡くしているフランス人。ハンガリー系ユダヤ人のアンドラーシュも、多くの血縁をナチスのせいで失っています。そしてドイツ人のサフィーの父は、ナチスの協力者。それだけでも十分すぎるほどなのに、サフィーは母親と一緒にロシア人兵士に陵辱された経験があって、そのために母を失っていて、ロシアに代表される共産主義者は忌み嫌うべき存在だというのに、アンドラーシュはアルジェリア戦争を支持す共産主義者。そしてこの物語の背景となるシャルル・ドゴール時代は、かつてドイツにやられたことを別の相手にやり返そうとしているかのように、フランスはアルジェリア人を大量に虐殺してるんです。本来なら、問答無用で憎み合ってもおかしくない3人なのに、惹かれあってしまうんですね。でも相手に惹かれるということは、その背景をも一緒に受け入れるということに他ならないわけで。
そんな重い愛が描かれていながらも、同時にとても静かで透明感のある作品でした。それにとても映像的。特にサフィーがアンドラーシュに恋した後は、それまでのモノクロームな画面がいきなりフルカラーに変わってしまったような鮮やかさがありました。いそいそと乳母車を押して楽器工房へと向かうサフィーの姿、アンドラーシュと散歩をするサフィーの姿などがとても鮮やかに印象に残ります。そしてそんな場面を眺めていると、ラファエルの奏でるフルートの音色や、アンドラーシュの工房での音楽が遠くから聞こえてくるという感じ... 美しい。

ちなみに原題「L'EMPREINTE DE L'ANGE」は、「天使の刻印」という意味だそうです。ユダヤ人には、赤ん坊が生まれる時に天使が鼻と唇の間に指をおいて天国での記憶を消し去るから、赤ん坊は純粋で無垢なまま地上に生れ落ちるのだという伝承があるのだとか。そんな風に無垢に生まれついたはずの人間がいつの間に無垢でなくなってしまうのだろう... というサフィーの言葉もとても印象に残りました。(新潮クレストブックス)

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