Catégories:“幻想文学1500”

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寝る前にお話を聞かないと寝ようとしない、大のお話好きのナフタリ。両親からも沢山のお話を聞くのですが、字が読めるようになると、お話の本も手当たり次第読むようになります。そんなナフタリは大きくなると本の行商人となり、愛馬・スウスの引く馬車に沢山本を積んで色々なところをまわって本を売り、本を買えない貧しい子には本をプレゼントし、人々の語る様々なお話を聞き、そして自分も沢山お話を語ることに... という「お話の名手ナフタリと愛馬スウスの物語」他、それぞれ8編が収められた短編集。

アイザック・バシェヴィス・シンガーは、ポーランド生まれの作家。ナチスの迫害から逃れてアメリカに渡ったんだそうです。その執筆は英語ではなく、子供の頃から使っていたイディッシュ語。元はユダヤ人やポーランドに伝わる民話なんだろうなってお話も多いし、ユダヤ教徒の家庭に育ったシンガーらしく、ユダヤ教のラビも頻繁に登場。ハリー・ケメルマンやフェイ・ケラーマンの作品でも読んでるんですけど、ユダヤ教の風習ってやっぱり面白いなあ。
とんまな人々が住むヘルムという町を舞台にした寓話的物語もいくつかあって、繋がっていくのが楽しかったんですが、やっぱり一番印象に残ったのは、上にあらすじを書いた「お話の名手ナフタリと愛馬スウスの物語」。この中に登場するナフタリは、作者シンガーの理想の自画像なのだそう。お話の楽しさ面白さを人々に伝えることを生きがい旅から旅への暮らしだったナフタリは、レブ・ファリクという人物との出会いがきっかけで1箇所に根を下ろした暮らしをしたいと初めて思うようになるんですけど、この2人の会話がとても深いんです。

いちにちが終わると、もう、それはそこにない。いったい、なにが残る。話のほかには残らんのだ。もしも話が語られたり、本が書かれたりしなければ、人間は動物のように生きることになる、その日その日のためだけにな。(P.21)

きょう、わしたちは生きている、しかしあしたになったら、きょうという日は物語に変わる。世界ぜんたいが、人間の生活のすべてが、ひとつの長い物語なのさ。(P.21~22)
生きるってことは、結局のところ、なんだろうか。未来は、まだここにはない、そして、それが何をもたらすか、見とおしは立たない。現在は、ほんの一瞬ずつだが、過去はひとつの長い長い物語だ。物語を話すこともせず、聞くこともせぬ人たちは、その瞬間ずつしか生きぬことになる、それではじゅうぶんとは言えない。(P.37)

他のも一見子供向けのただ面白い話に見えて、実はとても深くじっくり味わえる作品ばかり。そしてお話の楽しさや面白さを人々に伝えたいというシンガーの思いがとても伝わってくる、暖かい作品集です。(岩波少年文庫)


+既読のアイザック・B・シンガー作品の感想+
「お話を運んだ馬」「まぬけなワルシャワ旅行」I.B.シンガー
「やぎと少年」アイザック・B・シンガー
「ショーシャ」アイザック・B・シンガー

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黄昏時。騎士・タンホイザーはウェヌスの丘にいたる暗い通い路の下にたたずんでいました。一分の隙もない身仕舞いをしておきながら、この1日の旅行でそれが乱れてしまったのではないかと丹念に直すタンホイザー。その時、かすかな歌声がこだまのように山の上から漂ってきます。タンホイザーは携えた小さな七弦琴(リュート)をごく軽くかきならし、その歌に伴奏をつけ始めます。

ヴィクトリア朝末期の夭折の天才画家・ビアズレーの唯一の散文作品。これ、何箇所かで紹介されていたので存在は知ってたんですけど、タンホイザー伝説を題材にした作品だったんですね! それを知らなかったので、読み始めてびっくりしちゃいました。(紹介記事の一体どこを読んでたんだ、私) ワーグナーもこの伝説を元にオペラ「タンホイザー」を作りあげてますが(感想)、そちらの作品はタンホイザーがウェヌスの城から立ち去ろうと決意を固める場面から始まるんです。こちらはそれとは対照的に、タンホイザーがウェヌスの城に迎え入れられ、享楽的な生活を送り始める場面から。でも未完。
作中にはビアズリー自身による挿画も多々織り込まれていて、この世界観がすごくよく分かるものとなっていました。タンホイザーという人物は、13世紀頃の騎士であり詩人でもあった人物のはずなんですけど、まるで19世紀末のダンディなイギリス紳士みたい。ここで私が思い浮かべたのは、まずオスカー・ワイルド。そんな感じのイギリス的な優雅さを持っていて、デカダンスという言葉がぴったりな人物像です。そして、まさにそんな雰囲気の作品。ウェヌスが中心のはずなのに、異教的な匂いも全然感じられませんでしたし。
よくよく考えてみれば、19世紀末といえばとーーーっても品行方正なイメージの強いヴィクトリア朝で、ここに描かれてる自由奔放な性は、とてもじゃないけどその時期の作品とは思えないんですが... その時代にも、当然のように隠れ家的なサロンはあったんでしょうね。あらゆる道徳観念から解放されて、空中浮遊しているような印象すらあります。ものすごーくエロティックなんだけど、あくまでも優美。でもビアズレーの夭折によって、タンホイザーがウェヌスの丘に入り込んで間もなく、話は唐突に終わってしまいます。このままワーグナーのタンホイザーに雪崩れ込んでしまっても、違和感ないかもしれないなあって思って、なんだか不思議な気もしたんですが... そういえばワーグナーとビアズレーって、ほぼ同時代の人なんですよね。特に不思議はないのかな?(中公文庫)

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5年前に最愛の妻を亡くした翌日にブリュージュに来て以来、ここに定住しているユーグ。妻と2人で様々な国に住みながら、いつまでも変わらない熱情でもって愛を味わっていたのに、やっと30歳を迎える頃、わずか数週間寝込んだだけで妻は亡くなってしまったのです。今も屋敷の客間には亡き妻の所持品や彼女の手が触れたもの、肖像画、今なお色褪せない妻の金色の髪などが安置されていました。家政婦のバルブが客間を掃除する時は、彼自身が必ず立ち合うほど大切にされている品々。しかしその日夕暮れが近づいて日課の散歩に出たユーグが見かけたのは、1人の若い女。そのパステルカラーの顔色、真珠母の中に暗い瞳を大きく開いた眼、そして琥珀と繭の色のしたたるような正真正銘の金色の髪は、亡き妻に生き写しだったのです。

服部まゆみさんの「時のアラベスク」を読んで以来興味を持っていたのですが、ようやくこちらも読むことができましたー! 19世紀のベルギーの詩人・ローデンバックによる、まるで詩のような味わいのある小説。陰鬱な、それでいてこの上なく美しいブリュージュの街を舞台に繰り広げられていく物語。

最愛の妻を死によって失ったユーグ。その女性を再び得ることができたと思うところから物語は始まります。でも当然、2人の女性は同じ人間じゃないですよね。ジャーヌは踊り子だし、亡くなった妻のような気品ある女性ではないんです。(ユーグはおそらく貴族か、それに準じる階級のはず) そうでなくても、死による思い出には誰も太刀打ちなんてできないもの。死んだ人間は、それ以上老いることもなく、そのまま永遠に美しく昇華され続けていくんですもん。2人は別の存在だと、ユーグ自身、徐々に気づくことにはなるのですが...。
途中、書割ということでブリュージュの風景を始めとする写真が多数挿入されています。ローデンバック自身がはしがきで「その町の風景は、たんに背景とか、少々独断的に選ばれている叙景の主題としてあるだけでなく、この書の事件そのものと結びつく」と語っています。ユーグ自身「死んだ妻には死の都が照応しなければならなかった」と考えてますし、ブリュージュの情景がユーグ自身の心象風景にもなってます。やっぱりこの作品の本当の主役は、ブリュージュの街そのものなんですね。死の影に覆われたブリュージュの街。本来なら、そこには人々の賑やかな日々の営みがあるはずなのに、実際には人々は影でしか感じられないし、ユーグ自身、この街に来た時には既に死の影に囚われてます。そんなブリュージュの街で、ジャーヌだけが浮いた存在になるのも無理もないこと。この作品の中ではジャーヌだけが正反対の「生」、モノトーンの中で1人色鮮やかな存在なんですから。でもこの街は、そんなジャーヌも自分の中に取り込もうとします。
健全な観光都市である現実のブリュージュの街側としては、この「死都」というイメージに憤激したのだそうです。美しい作品だし、ブリュージュもこの上なく美しく描かれてるんですけどね。確かに憤激するというのも、無理ないかもしれないですねー。(岩波文庫)

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92歳のマリアンは、この15年間は息子のガラハッドとその妻・ミューリエル、その末っ子のロバートと同居の生活。家は狭く窮屈で、日中のほとんどは部屋に面した裏庭で猫や鶏と過ごす日々。そして毎週月曜日になると、2ブロックほど歩いて友人のカルメラの家へ行きます。そんなある日、カルメラが耳の悪いマリアンにプレゼントしたのはバッファローの角でできた耳ラッパ。カルメラは、その耳ラッパを誰にも見せないで、家族がマリアンの話をしているのを盗み聞きすればいいと言うのですが...という「耳ラッパ 幻の聖杯物語」、そして短編集の「恐怖の館 世にも不思議な物語」。

先日「夢魔のレシピ」(感想)読んだレメディオス・バロと並ぶシュールレアリストの女流画家。裕福なイギリス人実業家を父に、アイルランド人を母に生まれ、父親の反対を押し切ってロンドンの美術学校に進んだ後マックス・エルンストと運命の出会いを果たし、エルンストが強制収容所に送られた後、キャリントン自身はスペインの精神病院へ。そしてその後メキシコに亡命... となかなか波乱万丈な人生を送っている人です。

「耳ラッパ」の方は、不思議な老人ホームで繰り広げられる不思議な物語。老人ホームに集まっているのは、それぞれに個性的な老人たち。家では厄介者扱いされて、それでこの老人ホームに来ることになったんでしょうけど、既に因習とか常識に囚われることなく生きることができる老人パワーがなかなかかっこいいです。この作品の主人公のマリアンはキャリントン自身がモデルで、親友のカルメラはレメディオス・バロがモデルなのだそう。そう言われてみると、先日「夢魔のレシピ」に架空の相手に書いた手紙というのもあったし、確かにバロみたいな感じ。そしてこの作品自体とても絵画的なんですけど、その中でも特にウィンクして見える尼僧の絵や、塔に閉じ込められるイメージなど、レメディオス・バロの絵画のイメージがものすごくしてました。でも私はレオノーラ・キャリントンの絵をあんまり知らないからなあ... もしかしたらキャリントン自身の絵なのかな? 実際のところはどうなんでしょう。
「恐怖の館」は、マックス・エルンストによる序文からして、これぞシュールレアリスムなのかという文章でかっこいいんですが、キャリントンの書く短編もなかなか素敵でした。アイルランド人の祖母や母、乳母からケルトの妖精物語や民間伝承を聞いて育ったとのことなんですが、そういう要素はあまり感じなかったですね。むしろ目を惹いたのは馬。この馬のイメージはスウィフトの「ガリバー旅行記」? それともこの不条理な作品群は「耳ラッパ」の帯に「92歳のアリスの大冒険」とあったように、ルイス・キャロル的? スウィフトもルイス・キャロルもアイルランド系だし、やっぱりそういうことなのかな。長めの作品もあるんですが、私が気に入ったのはむしろ掌編の「恐怖の館」「卵型の貴婦人」「デビュタント」「女王陛下の召喚状」辺り。特に「デビュタント」はレオノーラ・キャリントンの実体験に基づくと思われる作品。出たくないデビュタントの舞踏会に、自分の代わりにハイエナに出てもらったら、という物語なんですが、これが残酷童話の趣きで... 素敵♪
「恐怖の館」にはレオノーラ・キャリントンとその周囲の人々の写真が数10ページ挿入されていました。力強い顔立ちの美人さん。私としてはどちらかといえば、作品を見たかったんですけどねえ。どこで見られるんだろう?(工作舎)

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ここ数日というもの悩みごとを抱えていたウォルディングの司祭は、この日ようやく主教宛の手紙を書き上げます。司祭の悩みの種は、春頃から夕方になると山の端から聞こえてくる笛の音。始めはどこかの若者が村の娘に合図を送るために奏でている音だと考えていたのですが、どうやらそうではないらしいのです。その笛の調べは司祭が生まれてこの方聞いたことがないようなもので、なにやら異様な力を持っていました。そして笛の音が聞こえるたびに、娘たちがその調べを求めて丘を越えていくのです。

舞台はイギリスなんですけど、ウォルディングという場所は架空なのかな? 包容力のある司祭と善良な人々が住んで、日々労働に汗し、日曜日になれば皆教会に集まるというキリスト教的に模範的な村です。でもそんな理想的な村が、徐々に異端のものに侵食されていってしまうんですね。身も心も異界に連れ去ろうとするかのような笛の音。理性はその音に抗おうとしてても、感情はその音に連れ去られたがっていて。まるで「ハンメルンの笛吹き」の笛のように。

タイトルの「牧神」とはギリシャ神話に出てくる半人半獣の森の神・パンのこと。天候や風を司り、農業、牧畜、狩猟、漁業の守護神です。(パンと似た存在でサテュロスやフォーンがいますが、サテュロスは同じギリシャ神話の存在でもパンよりも格下で、フォーンはローマ神話の森と田園の神)
キリスト教の登場と共に異教の神として追放されてしまうことになるんですが、そのパンが19世紀末から20世紀初頭の英文学に頻繁に現れるようになったんだそうです。その役割は、文明の批判者として、物質主義に抗議する大自然の呼び声として。でも、うーん、どうなんでしょう。この「牧神の祝福」もその頃書かれた作品らしいんですが、この作品には「批判」「抗議」といった否定的な言葉は、あまり似合わないような気がしますねえ。「キリスト教批判」とか「現代文明への批判」という風に捉えることもできるんでしょうけど、それほどの主義主張を持った作品というよりも、古い異教時代の居心地の良さへの憧れとでもいったもののような... 「自然への回帰」なんて大層なものではなくて、もっと心が求める方向へと素直に向かってみたという感じがするんですが。
このウォルディングという場所は「エルフランドの王女」の国へと通じるのかも、なんて思ったりもします。ウォルディングそのものがエルフランドとなったということはあり得ないかしら...。(妖精文庫)


+既読のロード・ダンセイニ作品の感想+
「ぺガーナの神々」ロード・ダンセイニ
「魔法使いの弟子」ロード・ダンセイニ
「魔法の国の旅人」ロード・ダンセイニ
「世界の涯の物語」「夢見る人の物語」ロード・ダンセイニ
「妖精族のむすめ」ロード・ダンセイニ
「エルフランドの王女」ロード・ダンセイニ
「影の谷物語」ロード・ダンセイニ
「時と神々の物語」「最後の夢の物語」ロード・ダンセイニ
「ダンセイニ戯曲集」ロード・ダンセイニ
「牧神の祝福」ロード・ダンセイニ

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分邦ユダヤの王・エロド・アンティパスの宮殿では宴会が開かれていました。王の執拗な視線や、その客たちに耐えかねて宴会を抜けてきたサロメは、月の光に照らされる露台へ。そして砂漠から来た預言者・ヨカナーンに出会います。

「ポポイ」を読んで、無性に読みたくなってしまいました。再読です。
ここに登場するヨカナーンとは、聖書における洗礼者ヨハネのこと。ヨルダン川で人々に洗礼を授けていて、救世主イエスの到来を告げる使者でもあります。そしてこの「サロメ」は、マタイによる福音書(第14章第3-12節)やマルコによる福音書(第6章14-29節)に書かれているヘロデ王と、ヘロデ王妃ヘロディアの娘、そして洗礼者ヨハネの記述をふくらませたもの。ヘロデ王が自分の兄の妃だったヘロディアと結婚したことを、洗礼者ヨハネが「律法では許されないことだ」と言ったため、ヘロディアは洗礼者ヨハネを憎んでるんですね。聖書の中のごく短くそっけない記述が作品としておおきくふくらんだという作品は他にもあるし、例えばアニータ・ディアマント「赤い天幕」(感想)も見事だなあと思ったんですが、これもやっぱり素晴らしいー。

聖書ではヘロディアが娘をそそのかすんですが、こちらの作品でのサロメは自らの意思でヨカナーンの首を欲しがってます。サロメのヨカナーンに対する狂気じみた愛。それは作中で何度も登場する月の描写にも現れてます。
これはヨカナーンに出会う前に、サロメが月を見て言う言葉。

「小さな銀貨そっくり。どう見ても、小さな銀の花。冷たくて純潔なのだね、月は... そうだよ、月は生娘なのだよ。生娘の美しさが匂ってゐるもの... そうとも、月は生娘なのだよ。一度もけがされたことがない。男に身を任せたことがないのだよ、ほかの女神たちみたいに」(P.22)

この時点でのサロメは、その月のような乙女なんですよね、多分。変化の予兆はあるのだけど。でもサロメがヨカナーンに出会い、その白い肌や赤い唇を求めるようになり、やがてエロド王の求め通りに踊ることを了承すると... 月は血のように赤くなるのです。それはまたヨカナーンに「ソドムの娘」と言われてしまうサロメ自身の変化でもあるのでしょう。

聖書の記述によれば、らくだの皮衣を着て腰に革の帯をしめ、いなごと野蜜を食べているという野性的な洗礼者ヨハネなんですが、このヨカナーンの雰囲気はまたまるで違います。むしろとても女性的な美しさを持った人物のように描写されてますね。レオナルド・ダ・ヴィンチの「洗礼者ヨハネ」の絵にどうも私は違和感があるんですが、どちらかといえばあのヨハネに近いです。野の百合のように、山に積もった雪のように、そしてアラビアの女王の庭に咲く薔薇のように白い肌。エドムの園の黒葡萄の房、レバノンの大きな杉林、月も星も見えない夜のよりも黒い髪。そして柘榴の実や、ツロの庭に咲く薔薇の花、珊瑚の枝よりも赤い唇。白い肌に黒い髪、赤い唇とくれば白雪姫なんですが(笑)、聖者のその白い肌に、黒い髪に、赤い唇に、サロメは魅了されるのです。

旧仮名遣いの訳もすごく美しいし、岩波文庫版にはビアズレーの挿絵18点も収められていて、既に挿絵というよりも「サロメ」に触発された独特の絵画世界を見せてくれて、そちらも素晴らしいです。ワイルドはビアズレーが嫌いだったって聞いたことがあるんですけど、読者にとっては既に切っても切れない関係かも。(笑)(岩波文庫)


+既読のオスカー・ワイルド作品の感想+
「サロメ」ワイルド
「幸福な王子」「ドリアン・グレイの肖像」ワイルド
「ウィンダミア卿夫人の扇」ワイルド

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ウォルター・スコット邸を訪れることによって、才能が開花したというアーヴィング。そのアーヴィングが書いた作品を集めたのが、この「スケッチ・ブック」。原書の「スケッチ・ブック」には、エッセイと短編小説を取り混ぜて全32編が収められているそうですが、日本の文庫にはその中から「わたくし自身について」「船旅」「妻」「リップ・ヴァン・ウィンクル」「傷心」「寡婦とその子」「幽霊花婿」「ウェストミンスタ-寺院」「クリスマス」「駅馬車」「クリスマス・イーヴ」「ジョン・ブル」「スリーピー・ホローの伝説」という全9編が収められています。

読む前にエッセイと短編小説が混ざっていること知らなかったので、スタンスが取りづらくて困った部分もあったんですが、まさに「スケッチ・ブック」という名に相応しい作品集でした。この中で有名なのは、やっぱり「リップ・ヴァン・ウィンクル」と「スリーピー・ホローの伝説」でしょうね。「リップ・ヴァン・ウィンクル」は西洋版浦島太郎。おとぎ話の本にもよく収められてます。「スリーピー・ホローの伝説」はジョニー・デップ主演でティム・バートンが映画化してますよねー。
この2つの作品ももちろんいいんですが(「スリーピー・ホローの伝説」は映画と全然違っててちょっとびっくり)、私が気に入ったのは「幽霊花婿」という物語。...申し分なく美しく教養あふれる婦人に育ったフォン・ランドショート男爵令嬢の結婚相手となったのは、フォン・アルテンブルク伯爵。しかし彼は男爵の城に向かう途上で盗賊に殺されてしまい、道中で出会って同行していた友人のヘルマン・フォン・シュタルケンファウストがそのことを知らせに男爵の城に向かうのですが... という話です。それほど珍しい展開ではないし、ある程度予想がついてしまうんですが、とても可愛らしくて好き。
でもね、この男爵令嬢を育て上げたのは未婚の叔母2人なんですが、この2人、若い頃は「たいした浮気もので、蓮葉女」だったとあるんですよ。で「年とった蓮葉女ほど、がっちりして用心ぶかく、無情なほど礼儀正しい付きそい役はまたとないのである」ですって。欧米の作品には時々厳しすぎるほど厳しい老婦人が登場することがありますけど... というか、そういうの多いんですけど、彼女たちはもしやみんな若い頃は蓮っ葉な浮気者だった? あの人もこの人も? 想像すると可笑しくなっちゃいます。(新潮文庫)


+既読のワシントン・アーヴィング作品の感想+
「ウォルター・スコット邸訪問記」ワシントン・アーヴィング
「スケッチ・ブック」ワシントン・アーヴィング

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Note


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