Catégories:“ハヤカワepi文庫”

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その図書館は、普通の図書館とは違い、人々が大切な思いを綴った本を保管するだけのために存在する図書館。保管された本を調べたり読んだりする人は誰もおらず、図書館に来るのは、自分が書いた本を置きに来る人々だけ。そして「わたし」の仕事は、それらの人々に会って本を受け取り、その本を登録すること。人々は24時間いつでもやって来るので、この職について以来3年間、「わたし」は図書館から一歩も出ない生活を送っていました。そんなある日やって来たのはヴァイダ。並外れて美しい自分の容姿を恥じていたヴァイダですが、「わたし」と恋に落ちて図書館に暮らし始めることに。

一読して感じたのは、まるで村上春樹作品みたい!ということ。そして、人々が書き綴った本は誰にも読まれることなく図書館に保管され、図書館がいっぱいになると洞窟に移され、そのうちに朽ち果てることになるのですが、その部分はまるで「恥」を全て川に流しているボリス・ヴィアンの「心臓抜き」(感想)のようでした。こういう不思議感覚の作品は大好きです♪

でも、読み終えてから原題の「THE ABORTION」を見てびっくり。これは直訳すると「堕胎」のこと。そして訳者解説によると、ヒロインとなる「ヴァイダ」(Vida)の名前は「生命」を表す「Vita」から来ているのだそうです。この作品のテーマは、「生」と「死」だったんですね。
そう思って読み返してみると、物語のモチーフが色々と深い意味を内包していることに気づきます。まずここの図書館は、様々な人々が自分の書いた本を置き去りにする場所。新しい命をせっかく生み出したかと思えば、人々はそれらの命をこの図書館に捨てていってしまうんですよね。まるで「堕胎」のように。そして「わたし」とヴァイダは、本当の堕胎のためにはるばるメキシコまで行くことになるんですが、彼らにとってのメキシコは、本を書いた人々にとっての図書館。結局、その旅によって「わたし」は結局職を失ってしまうことになるんですが、図書館から外の世界に出ようとする「わたし」の姿は、まるで子宮から生まれ出る赤ん坊のようにも見えてきます。
リチャード・ブローティガンの作品は初めて読んだんですけど、いいですね。他の作品も読んでみたいです。(ハヤカワepi文庫)


+既読のリチャード・ブローティガン作品の感想+
「愛のゆくえ」リチャード・ブローティガン
「西瓜糖の日々」R.ブローティガン

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アメリカの黒人作家にして初のノーベル賞受賞者という女流作家・トニ・モリスンの作品。そういえば黒人作家による黒人の物語というのは、ほとんど読んだことがないかもしれません。これは黒人の少女ピコーラの物語。

ここに書かれているのは、黒人の中の差別意識。登場するピコーラという少女は、学校に友達なんて1人もいないし、黒人の少年たちにすら軽蔑され、いじめられています。黒人対白人という構図なら分かりやすいんですが、ピコーラが通ってる学校は、別に黒人蔑視というわけではないんです。転校生としてモーリーン・ピールという少女も登場するんですが、この子も黒人でありながら、周囲には「夢のようにすてきな黒人の女の子」と思われてます。とても裕福な家に生まれ育ち、肌の色は薄く、黒人はもちろん白人の子供たちも彼女のことをからかおうとしないどころか、むしろ魅了されてるんですよね。先生すらも。
黒人の中でも肌の黒さによって差別感情があるのは当然のことかもしれないんですけど、ピコーラがこれほどまでに手ひどく蔑視されているというのは衝撃的でした。むしろ白人と結婚する黒人の方がどっちつかずの状態で敬遠されやすいのかと思っていましたよ...。(この辺りの状況には、とんと疎くてお恥ずかしい) 黒人の中に、ここまで白人本位な美意識が入り込んでいたとは。そしてピコーラは、自分の眼が青い綺麗な眼だったらみんなに愛されると思って、毎晩のように神様にお祈りするんですよね...。
この作品は1940年代のアメリカの話だし、もちろん今とは多少状況が違うとは思うんですが、それでもきっと黒人による黒人差別はおそらくなくなってないんでしょうね。ピコーラをいじめる黒人の少年たちも、肌はピコーラと同じように黒いんです。白人に差別され続けている鬱憤がピコーラに対して噴出してるというのは分かるんですけど、これじゃあ、自分自身を貶めているのと同じこと。
でもこの作品において、作者は加害者側にも被害者側にも加担しようとはしません。ありのままの事実を淡々と書いているだけ。そしてピコーラや彼女の両親の人生を遡ることによって、その差別的な心情がどのようにして形成されていったのか、分かるような構成となっています。考えさせられる作品でした。(ハヤカワepi文庫)

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先日「日の名残り」(感想)がものすごーく良かったカズオ・イシグロさんの作品。今回は英国だけでなく、日本も舞台になってるんですね。現在英国の田舎に住んでいる悦子と、ロンドンから訪ねて来た娘のニキの会話、そして長崎に住んでいた頃の悦子の回想シーンで物語は進んでいきます。回想に主に登場するのは、長崎にいた頃に悦子の夫だった二郎、その父親の緒方さん、近所に住んでいた佐知子とその娘の万里子。

長崎に住んでいたはずの悦子がなぜ今は英国に住んでいるのか、二郎との間に一体何が起きたのか、そして回想シーンに一番多く登場する佐知子やその娘の万里子が悦子の人生に、本質的な意味でどのように関与しているのか分からないまま、悦子の回想は続いていきます。はっきりと分かるのは、景子という娘がいたけれど、彼女が自殺してしまったということだけ。「景子は、ニキとはちがって純粋な日本人だった」という文章から、この景子がおそらく二郎との間に出来た娘であろうということ、悦子が日本人ではない夫と再婚したこと、夫が娘に日本名をつけたがったという部分から、その男性が親日家らしいことだけは分かるんですが、今どこでどうしているのやら。生きているのでしょうか、それとも既に亡くなっているのでしょうか。どうやら家にはいないようです。となると、やはり亡くなったと考える方が妥当なのでしょうか。そして、すぐには分からなくてもそのうちに明かされるのだろうと思っていた部分が、結局ほとんど明かされないまま物語は終了してしまってびっくり。
確かに普通の人が過去のことを思い出す時は、自分以外の人間に説明するように思い浮かべるわけじゃないし、きっとこんな感じですよね。もっととりとめがなくてもおかしくないです。でも幼い頃に英国に渡り、そのまま帰化、日本語を外国語として育ったというカズオ・イシグロ氏が、こんな風に行間から感じ取るタイプの作品も書かれるとは意外でした。英国人というより、日本人の作品みたい。
回想シーンを見る限り、悦子と佐知子はまるでタイプの違う女性。2人の会話はどこまでいっても噛み合いませんし、理解し合っているとは言いがたい状態。長崎にいた頃は良妻賢母タイプだった悦子と、あくまでも「女」である佐知子とは全く相容れないのですが... 後から振り返ってみると、佐知子と万里子の関係は、悦子と景子の関係に重なるんですよね。景子を死に追いやったのは結局自分なのではないかと感じている悦子。1人の女性の中に「母」であること、「妻」であること、「女」であることが上手く同居できれば良いのでしょうけれど、大抵はどれか1つに比重が傾きがちでしょうし、それが自分の本当の望みとは違っていた場合は...。
すっきりとはしないんですけど(笑)、色々余韻が残る作品です。(ハヤカワepi文庫)


+既読のカズオ・イシグロ作品の感想+
「日の名残り」カズオ・イシグロ
「遠い山なみの光」カズオ・イシグロ
「わたしたちが孤児だったころ」カズオ・イシグロ
「浮世の画家」カズオ・イシグロ
「私を離さないで」カズオ・イシグロ
「充たされざる者」カズオ・イシグロ

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昨年の9月に付き合い始めてから、彼が電話をかけてきて、家へ訪ねてくるのを待つだけの生活になってしまった「私」。仕事や日常的な用事は無難にこなすだけ。しかし彼は妻子のある東欧の外交官。じきに任務を終えて、母国に戻ることになります。

本国フランスでは、出版されるやいなやベストセラーとなり、マルグリット・デュラスの「愛人(ラマン)」と並ぶほどの売れ行きを示したという作品なのだそうです。
でも、私には今ひとつピンと来なかったかな...。よくある恋愛物とは一線を画してると思うんですよね。あくまでも自分のことを客観的に見てシンプルに書いてるのがいいと思うし。でも、惹き込まれなかった。斉藤由貴さんが解説で、「あなたは、自分を見失う程の恋愛に溺れた事がありますか」と書かれてるんですが、もしかしたら私が惹き込まれなかったのは、そういう経験が乏しいせいなのかも? 恋愛はしてても、自分を見失う程恋愛に溺れたことなんて、あったかしら...。ここまで純粋に相手のことだけを思って生活することができるのって、確かに1つの贅沢かもしれないなあ。
もちろん、経験がなくても惹き込まれる人は惹き込まれるんでしょうね。恋をしている最中よりも、恋を失った時に読んだ方がしみじみと響いてくるような気がします。(ハヤカワepi文庫)

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キャロル・リ-ド監督、オーソン・ウェルズ主演で有名な映画「第三の男」の原作。
映画は随分前に一度観たきりなんですが、それでもあの主題曲やオーソン・ウェルズの存在感、プラターの観覧車、最後にアンナが歩み去っていく場面など、すごく強い印象が残ってるんですよね。それに比べると、この原作本には、残念ながらそれだけの力が感じられなかった気がします...。原作とは言っても、映画が作られる前から存在していた小説ではなくて、純粋に映画のために書かれた作品とのことなので、映画さえ良ければ別に構わないし、それが正解だと思うんですけど... 例えばオーソン・ウェルズの、「ボルジア家の30年の圧制はミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、そしてルネッサンスを生んだが、スイスの 500年のデモクラシーと平和は何を生んだ? 鳩時計さ。」という台詞がないと淋しいです!(これはオーソン・ウェルズが考えた台詞なのだそう) それにラストも全然違う! 映画の方がいいです! そもそも本におけるアンナの描写は、「美しくはないけれど、正直そうな顔」。アンナ役のアリダ・ヴァリって、かなり美人さんじゃありませんでしたっけ?(しかもあの存在感ってば) でも、逆にアメリカ・ソ連・フランス・イギリスという4大国によって分割されていた当時のウィーンの状態は、本を読んで初めて良く分かりました。すごいことになってたのね...。
この映画がお好き方には、キャロル・リードとの間の話し合いによって映画が出来上がっていく過程を書いた序文も興味深いのではないでしょうか。ラストシーンのことについても、言及されています。(ハヤカワepi文庫)


+既読のグレアム・グリーン作品の感想+
「第三の男」グレアム・グリーン
「おとなしいアメリカ人」グレアム・グリーン
「負けた者がみな貰う」グレアム・グリーン
「権力と栄光」グレアム・グリーン
「事件の核心」「二十一の短篇」グレアム・グリーン
「ブライトン・ロック」グレアム・グリーン
「ヒューマン・ファクター」グレアム・グリーン

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35年もの間ダーリントン卿に執事として仕え、卿が亡くなった今は、屋敷を買い取ったアメリカ人のファラディの執事となっているスティーヴンス。父親の代からの執事であり、執事としての高い矜持を持っています。しかし多い時には28人の召使がいたこともあるというこの屋敷に、今はスティーヴンスを入れて4人の人間しかいないのです。そんな時に思い出したのは、ダーリントン卿の時代に女中頭として働いていたミス・ケントンのこと。結婚して仕事をやめ、ミセス・ベンとなっている彼女は今はコーンウォールに住んでおり、先日届いた手紙では、しきりに屋敷を懐かしがっていました。丁度ファラディがアメリカに一時帰国することになり、その間、何日かドライブ旅行をしたらいいと勧められたスティーヴンスは、彼女に会いに行くことに。

ああ、なんて美しい作品なんでしょう。要はドライブしながら色々なことを回想していくだけなんですけど、良い小説とはこういうもののことを言うのかも、なんて思いながら読みました。
華やかななりし時代のスティーヴンスの仕事ぶり、執事としての誇り、執事に大切な品格の話なども興味深いですし、気さくにジョークを飛ばす今の主人に戸惑い、ジョークを言うことも自分に求められている仕事なのかと真剣に考えてしまうスティーヴンスの姿が楽しいです。慇懃でもったいぶっていて、少々頑固な、古き良き英国の執事の姿が浮かび上がってきます。一番楽しかったのは、スティーヴンスとミス・ケントンのやりとり。最初はことごとく意見が対立し、冷ややかなやり取りをする2人なんですが、かっかしてる2人の可愛いこと~。
最後の夕暮れの場面もいいんですよねえ。この場面にスティーヴンスのこれまでの人生が凝縮されて、重ね合わせられているようでした。最高の執事を目指し、プロであることを自分に厳しく求めすぎたあまり、結局、自分自身の人生における大切なものを失ってしまったスティーヴンス。老境に入り、些細なミスを犯すようになったスティーヴンスは、おそらく今の自分を亡き父親の姿とダブらせていたことでしょうね。もちろんスティーヴンスの中で美化され、真実から少しズレてしまっている出来事も色々とあるのでしょうけれど、無意識のうちにそうせざるを得なかったスティーヴンスの人生の斜陽に、イギリスという国の斜陽も重なってきます。第二次世界大戦が終わって10年(という設定)、アメリカがどんどん台頭し、現在の主人もアメリカ人。こうなってみると、戦前に屋敷で行われた重要な会議の場面でのやりとりも皮肉...。イギリスでは最早、本物の執事が必要とされない時代になりつつあります。
そんな中で、「ジョークの技術を開発」するなどと言ってしまうスティーヴンスの姿が、切ないながらも可笑しくて、また良かったです。(ハヤカワepi文庫)


+既読のカズオ・イシグロ作品の感想+
「日の名残り」カズオ・イシグロ
「遠い山なみの光」カズオ・イシグロ
「わたしたちが孤児だったころ」カズオ・イシグロ
「浮世の画家」カズオ・イシグロ
「私を離さないで」カズオ・イシグロ
「充たされざる者」カズオ・イシグロ

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近未来のアメリカが舞台。キリスト教の原理主義者の一派がクーデターを起こして、ギレアデ時代が始まります。その頃、中絶を含めた様々な産児制限や性病の流行、環境変化によって、白人種の出生率が急落しており、それを憂慮していた彼らは、全ての女性から仕事と財産を没収。再婚の夫婦と未婚者の私通は全て姦通だとして子供を取り上げ、妊娠可能な女性を選び出して「侍女」としての教育を施し、子供のいない支配者階級の男性の家に派遣。彼女たちは出産のための道具とされることになったのです。

侍女たちはくるぶしまで届く赤い衣装を纏い、顔の周りには白い翼のようなものが付けられて、周囲とは遮断されています。私物と言えるようなものは一切持てませんし、部屋からも自殺や逃亡に使えそうな道具は慎重に取り除かれています。もちろん日々の行動に自由はなく、その存在に人間性などこれっぽっちも求められていません。まさに「二本足を持った子宮」。
各個人からその個性を奪い取るには、名前と言葉を取り去るのが一番効果的なのね... というのが、この作品を読んで最初に感じたこと。単なる出産する道具である侍女たちの名前は「オブ+主人の名」。この物語を語っているのは「オブフレッド」と呼ばれる女性ですし、他にも「オブグレン」だの「オブウォーレン」だのがいます。日々決められた通りに行動し、侍女同士での挨拶ややり取りも決められた通りの言葉のみ。

一見荒唐無稽な設定なんですが、考えて見れば十分あり得る未来。この作品は1985年に書かれているので、それから20年経ったことになるのですが、世界的な状況はますます悪化するばかり。十分通用するどころか、ますますこの設定が現実的になっているのかも...。それでも子供や夫を奪われて「侍女」となった女たちは、そうなる以前の暮らしを覚えているんですが、次世代の「侍女」たちは、元々そのような自由な世界が存在していたなど知る由もなく... その辺りには全然触れられてなかったんですけど、そういうのもちょっと読みたかったなあ。
でも、ここまで管理社会となって、人々も大人しく従ってるんですが(でないと、すぐに処刑されちゃうので)、そんな中でもやっぱり人間的な感情が垣間見えるんですよね。特に子供ができない夫婦にとって、侍女はありがたい存在のはずなんですが、そう簡単に割り切れるものでもなく...。水面下で入り乱れる感情も面白かったです。(ハヤカワepi文庫)

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